本当のものが
わからないと
本当でないものを
本当にする —安田理深—
― 言葉の味わい ―
「子どもの頃、知らないことや疑問に思うことがあれば、「どうしてこうなるの?」「本当にそうなの?」などと親や先生に問い尋ね、物事の本当の意味を知ろうとしていた。しかし、年を重ねていくと物事の真偽を確かめず、わかった事として時には真実ではないことを本当だと決めつけたり、占いや噂話などを本当のことだと信じてしまっている。
物事を本当のことにするかしないかは、私自身の心で大きく左右されていると言える。仏教の教えの一つに、自身の心の内を見つめ直して、我が身の姿を問うていくことがある。私自身の姿を知って、その心に素直になることで「本当のもの」をより多く知っていくことができるのではないだろうか。」(南御堂掲示板より)
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「又(マタ)能(ヨ)く心(シン)を蔽(オオ)って不浄(フジョウ)になら令(シ)むるが故に。」
「述して曰く、合(ガッ)して二義(ニギ)を以て其の覆(フク)の字を解す。即ち覆とは覆蔽(フクヘイ)するなり。心を蔽って浄(Iジョウ)ならざら令むるが故に名づけて覆と為す。」(『述記』第三末・三十二右)
また、慈恩大師窺基の著述であります『樞要(スウヨウ)』の釈は注意して読まなければと思っています。
「蔽心(ヘイシン)とは二有り。一に法性心(ホッショウシン)、二に依他心(エタシン)なり。」(『樞要』巻下本・二右)
『樞要』は正式には、『成唯識論掌中樞要』(ジョウユイシキロンショウチュウスウヨウ)といい、唐 · 慈恩大師窺基(ジオンダイシキキ) の作です。
覆(フク)の解釈について二義挙げられていましたが、第一の覆障(フクショウ)につきましては昨日述べましたので、第二の意義について述べさせていただきます。第二の意義は「覆蔽(フクヘイ)」であると教えられています。
染法(ゼンポウ)が心を蔽って不浄にする。染法は無覆無記(ムブクムキ)の心を蔽ってですね、心を汚くするという、具体的には煩悩・随煩悩です。煩悩・随煩悩は縁に触れて自らの中から出てきたものです。外から蔽ってきたのではないのですね。それが外から蔽ってきたと思っています。それが煩悩生起の因ですね。
『樞要』の注釈にですね、何を蔽うのかということに対して、
一つは法性心、法性心は浄らかな心です。清浄心、それを蔽う隠してしまう。
もう一つは、依他心、依他は他に依る、縁に依って生じるもの、因縁所生の法です、縁起されたものです。
この二つの意味から教えられることは、無覆無記である阿頼耶識を覆ってしまうことと、現実の動いている心を蔽ってしまう、つまり私の現実に動いている心を蔽って、本当でないものを本当にするという過ちを犯してくるのですね。それで二つの意味を以て「覆」というのだと。
今日は、順正寺さんの報恩講にお参りさせていただき、御馳走もいただきまして、少しばかり酔っぱらっています。こんな時は深追いせずに休むことにします。明日は、唯識に自己を学ぶ会に投稿しますので、このブログは休載させていただきます。m(__)m
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