唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

雑感 「自他分別」

2014-07-05 21:22:22 | 心の構造について

 先日FBにおいて

 「昨日の学びから*教えられたこと。私たちは、少なくとも私は、仏法に遇うことによって苦悩が解決すると思っていたのです。
 皆さんがたは、どう思っておられるのでしょう。
 仏法に遇うと苦悩が解決するのでしょうか。
 僕はね、会話の中から、ふと気づかされたのですが、う~ん、どうでしょうか。
 もしかしたら、仏法に遇って苦悩が解決するのではなく、遇うことによって、苦悩している自身に出遇うのではないのか、と。
 深い自己自身との邂逅が仏縁によって開かれてくる。
 日想観、人は沈み行く夕陽に、生きることの意味を見いだしていたのではないだろうか、と。」いうコメントを書き込みました。

 僕も何を思ったのか、坊主バーに見えている彼に伝わるといいなと思って、続きを書き込んだんですね。

 「ややこしいことを言うと、問題は自分にあったということなんですよ。自分の心が外に投げ出されたことが、実は、自分が造り出していたということ。それを受けとることができないという目覚めが、道を歩ませる原動力になるんだと思っています。自己との葛藤がエネルギーとなって阿呆やれるんですわ。なんやかんやといっても歴史の一コマで阿呆できる時間は貴重ですよ。まあ、社会からは、社会人失格の烙印を押されますが、臨終の一念に「俺の人生は何だったのか」という嘆きを持つよりも、阿呆であるのがいいとは思いませんか。」と。

 僕は大変嬉しく思ったのが、僕のたわいのない話を真剣に自分の問題として聞いていてくれたということなんです。彼は長文に及ぶ感想を書いてくれました。彼の感想なんですが、正直びっくりしました。よく考えていただいたな、というのが本音です。 最初の文章からいいますと、

 「心は見えない、体は見える、実在する」

 このことは、普通の生活の中ではごく当たり前の話ですね。しかし、本当に実在していると見ている体を、実際に見ているんでしょうか。仏教の問いは、こんな身近な疑問から発せられているんです。  次にいい言葉が書かれていました。

 「何故見えない心が行動規範を決定できるのであろうか」  

 体とは、身体ですね、身と押さえられています。即ち身と心の問題です。身はまた色(物質)とも押さえられ、色心不二(シキシンフニ)である、身は心に離れず、心は身に離れず、しかもお互いの分限を侵さず、身は身として、心は心として独立しているのであると、はっきり身と心は別体(ベッタイ)であると規定しています。  そして、この身なんですが、身は五つの感覚器官によって構成され、五つの感覚器官が仮に助け合いながら身は保たれているということなんですね。実に実体としての身は存在しないのです。仮に存在しているとは言えます。「仮」であって「実」ではないということになりますね。  

 実際に証明されることは、一つの感覚器官が損傷しますと、身は機能しなくなります。仏教はこれを五蘊(ゴウン)と呼び、蘊とは、集合体と云う意味で、五つの構成要素の集合体が身であるということになります。表面に現れているのが身体であり、その中身は精神作用なんですね。中身が壊れると、身体は崩壊します。だからですね、「心病むと身病む」といわれるんですが、この時の心は身を構成している他の四つの作用なんです。心はもっと深い処から身を限定してきます。  このようなわけで、私たちは身そのものも見えていないということになりましょうね。でもね、見えていると思っていることが大きな鍵を握っているんですね。  仏教は「身」を大切なキーワードとしています。唯一物質をもったものが身だからです。身は世界の中で唯一占有している場にもなります。この占有している場は何人も犯すことのできない場なんですね。ですから、場が違えば見える風景も自ずと違ってきます。このようなところから自分と他人という発想が生まれてきたんではないかと思います。

 自他分別と云っていますけれども。「分」の先っぽは離れていますでしょう。刃で切ったんですね。刃は殺傷能力をもったもの、そして威嚇するもの、或は威嚇し他を従わせるものですね。他を隷属するものとして自他が別れたんです。  これをキリスト教でいえは、禁断の木の実を食べたと所に原罪があるとされています。それに対し贖罪をするのですね。それほど身のもっている問題は深いといえますし、それほど自分とは尊く深い存在であるということんですね。  アダムとエバ(イブ)の問題は、過去の話ではないということです。仏教では(過去世の)業を引くと云われています。この身は過去のすべてを引き受けている、今だけの話ではないというわけです。過去を背負ってきた歴史を背景として身は在るということになりましょうね。自分一人の問題ではないわけです。「自分の人生どう生きようと俺の勝手だ」というわけにはいかないんです。  仏教では因果というでしょう。業を引くことも同じ意味になりますが、悟りの道理には安楽(浄土真宗では極楽といいます)が与えられるんですが、「俺の勝手だ」という道理には、地獄の苦しみが与えられます。ともに道理に叶ったことなんです。  

 問題は、最初に戻りますが、身は在ると、見えるとする発想ですね。金子みすずさんは「みえないものでもあるんだよ」と詩っておられますでしょう。あの発想が大事ですね。見えないとされる心なんですね。心が見える身を規定してくるんです。  ぶっちゃけいってしまえば、身はほっておいていいんですよ。坊主バーで問いを貰ったことは、これは貴方が生れてくる背景に及ぶ迷いの歴史を背負っているということが問題になったということなんです。そして、何故苦悩するのかが、自分の人生の中で問いとして浮かびあがってきた。  それまでは、自他分別は当たり前のことだったと思います。自分にとって都合のいいものは取り込み、都合の悪いものは切り捨ててきたんではないですか。それを我執と押さえているんですね。貴方だけの問題ではありません。人類共通の問題です。人間と環境の問題も基本は自他分別です。環境破壊が問題となり、いかにして環境を守るのかが議論されますが、議論を尽くしても根っこに自他分別がある限り問題の解決は有りません。  

 自他分別を問うことが、自分の中から起こったということは、一歩世間の道理から外に出たことを意味しますね。ここが阿呆の第一歩なんです。阿呆とは、自他分別を超えたことを意味します。  鏡が無かったら自分を写すことは出来ませんが、自分を写す鏡があったとしても、判断を下す自分が問題とならなければ鏡は無いのと同じですね。  教えは無味乾燥なものです。真理とか、真如とか、無分別とかいろんな表現で教えが語られますが、門を叩く自分がいなければ、教えは何一つ応答してくれません。  そういう意味では仏教は非常に厳しいものです。  内と外ということも云われますが、外は内の表現なんですね。外が実体としてあるわけではないんです。内が内の限定表現として外を写し出しているんでしょうね。  まあそこがですね、外ばっかしを追い続けてきたことに疑問符が付いたというところにですね、人間としての深さに気づいたということになるんだと思います。自覚には程遠いかもしれませんが、自分の生き方が大きく方向転換したということに変わりはないと思います。  

 方向が転換したら阿呆できるんですよ。阿波踊りではないですが、「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃそんそん」とね。阿呆も独りよがりでできるもんではないんですよ。ともに生かされている大地を踏みしめて、人生を遊ぶが如く生きていければ、それが「遊煩悩林現神通」でしょう。我執からは絶対生まれてこない世界ですね。  また思いついたら書き込みます。


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