唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 第九・起滅門 第三・起滅の分位 無想天(2)

2010-11-08 22:10:03 | 心の構造について

      第三能変 第九・起滅門 第三・起滅の分位

    ー 五位無心 (無想天) 第一師の説 (2)

 「彼こには、唯、有色支のみ有りと説けるが故に」(『論』第七・十左)

 (意訳) 無想天には、ただ五根等のみ有ると説かれているからである。

  •  支は部分・要素をあらわす。「別を以て総を成じて支の名を得る。車の衆分、四支の軍の如し」といわれますように、五蘊という五つの構成要素によって身体が成り立っているように、一つの総を成り立たせる必要欠くべからざる別を支というのです。
  •  有色は物質的なもの。五蘊のなかの色蘊の色をいう。十二処(存在の十二の領域)でいえば、眼処・耳処・鼻処・舌処・身処と色処・声処・香処・味処・触処と法処所摂色をいう。(『瑜伽論』66・正蔵30.666b)

 第一師は無想天には、眼処・耳処・鼻処・舌処・身処と色処・声処・香処・味処・触処と法処所摂色のみが存在している。意根(意処)と法境(法処)とは存在しないのであると。五根・五境のみが存在するということは現量になり、分別は起こらないというのです。

 「述曰。瑜伽の第十に説いて、問、一切の生処と及び三摩鉢底(等至)の中に於いて、みな一切支が現行し可得なることありや。答、不可得なり。謂く無想天と滅尽定と無想定との中に、 「唯、色支にみあって」 可得也。無色支にあらず。無色界に生じてはただ無色支のみ可得なり。有色支にあらず。これは六識に依るといえり。故に彼処は一期に無心なることを知る」(『述記』第七本・五十五右)

 十二処と色界の四静慮と無色界の四無色定を根本の等至といわれる中に於いて、すべての支が現行し、可得(かとくー認識され得ること。存在し得ること)があるのか、否か。という問いがだされています。『瑜伽論』の中には六種の三摩鉢底が説かれていて、無想定・滅尽定の三摩鉢底が説かれている。(『瑜伽論』巻十一・正蔵30・329b)等に至るという意味で、定の力によって身心が等しく安和な状態に至ること。掉挙・惛沈とを離れて等に至るということがいわれている。答えは、不可得である。何故かというと、無想天と滅尽定と無想定との中には、ただ色支のみあって認識され得るのである。無色支ではない。無色界には物質的なものでない六支の中の意支のみが認識され得るのである。このような理由で無想天は一期(一期の生滅と刹那の生滅)に無心であると。

 (尚、明日は別院で『唯信鈔文意』の講義がありますので、書き込みは休ませていただきます。)


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