唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (62) 三性分別門 (3)

2014-09-28 13:01:22 | 第三能変 諸門分別 第六三性分別門

 では、欲界ではどうなのかという問いに答えます。

 上二界では「定に伏せらるるが故に」と。定に伏せられて、上二界の煩悩は有覆無記であることが示されましたが、欲界での問題ですね。

 「若し欲界繋(ヨクカイケ)のをば、分別起ならば唯不善のみに摂む、悪行を發するが故に、」(『論』第六・十九左)

 本科段も、分別起と倶生起に分けて説明されます。先ず、分別起ではどうなのか、ということです。

 分別起はただ不善である。何故ならば、一向に悪行を起すからである。(九煩悩で欲界に存在し、かつ分別起のものはという問いですね。対して分別起の煩悩が悪行を起すものだから、ただ不善である、と答えています。)

 次に、倶生起の問題です。二つに分けられて説明がされています。一つは、悪業を發するもの、二つには、悪業を發しないものについてです。

 第一は、悪業を發する場合について、

 「倶生は二有り、悪業を發するものは亦不善なり。瞋の性は定んで然なり。余の三(貪・癡・慢)の少分(発業)は自他を損するが故に。」(『述記』)

 「若し是れ倶生ならば、悪業を發するをば亦不善に摂む、自他を損するが故に、」(『論』第六・十九左)

 (もしこれが倶生起のものであれば、)悪業を發する欲界の貪・癡・慢の倶生起の煩悩は、また不善に摂められる。何故ならば、自他(現世と他世)を損なうからである。

 第二は、悪業を發しない場合について、

 「余をば無記に摂む、細にして、善を障えず極めて自他処を損悩するに非ざるが故に。」(『論』第六・十九左)

 余(倶生起の貪・癡・慢の中で悪業を起こさないものと、倶生起の身見と辺執見)のものは有覆無記でる。何故ならば、細であり、善を妨げず、現世と他世を損悩しないからである。

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 復習ですが、欲界の中での十の煩悩の中で分別起・倶生起を問わず、瞋はただ不善である。

 貪・癡・慢は(悪業を起こす時は)不善・(悪業を起こさない時は)有覆無記である。

 疑はただ分別起のみに存在する。疑は欲界に在っては不善、上二界にあっては有覆無記。

 身見(薩迦耶見)・辺執見は倶生起に在っては、ただ有覆無記。

 邪見・見取見・戒禁取見は分別起のみの煩悩で欲界に在っては、唯不善である。

 十煩悩の中で瞋を除いて、上二界に在っては分別起・倶生起を問わず、有覆無記である。

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 有覆無記である理由なのですが、

 (1) 細にして、(「一に微細に由る」。)

 (2) 善を障えず、(「二には善を障えず。善の位にも亦起こるが故に。第七識と倶なるものの如し。」)
 第六意識が善(信・慚・愧等)の時も、第七末那識相応の煩悩は恒審思量で働いているが、直接的には善を妨害することはない、という意味になります。

 (3) 自他を損悩しない、(「三には、極めて自他を損するに非ず。五十八に説く、しばしば現行(数現行)するが故に、此を並せば四因なり。」)

 (4) 数現行(『述記』の所論)を加えて四因に由る。数現行については次科段で説明されます。

 数(しばしば)とは、間断がないという意味です。『瑜伽論』巻第五十八に「倶生の薩迦耶見は、ただ無記性なり、數現行するが故に、極めて自他を損悩する処に非ざるが故なり。」と説かれています。

 結論は次回にゆずります。

 

 


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