唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 六月度テキスト・開導依についての解説

2018-06-20 09:14:15 | 第二能変 末那識について
 「伽陀に説けるが如し、 阿頼耶を依と為して、故(かれ)末那転ずること有り、 心と及び意とに依止して、 余の転識生ずることを得という。」(『論』第四・二十一右)
 (伽陀(『入楞伽経』第九巻・大正16・571c20「依止阿梨耶 能轉生意識 依止依心意 能生於轉識」の取意)に説かれている通りである。「阿頼耶識を依とすることに於いて、末那識は活動する。心と意とに依止して、他の転識は生じる。)
 『入楞伽経』第九巻・総品の中の頌に「阿梨耶 に依止して能く転じて意識を生ず、心に依る意に依止して能く転識を生ずと。」と語られているのですが、『論』はこの『頌』の要を述べています。そしてこの文が第七識の倶有依は第八識であることの証拠であると示しているのです。
 「述して曰く、即ち『楞伽経』第九巻の総品の中の頌なり。旧偈には阿梨耶 に依止して能く転じて意識を生ず、心に依る意に依止して、能く転識を生ずと云えり。稍此と別なり。此れに准ずれば前の依において好(よ)き証と為すに足れり。今の文は解すべし。」(『述記』九十五左)
 「此れに准ずれば前の依において好(よ)き証と為すに足れり。今の文は解すべし。」ということは、この『論』の文章は『頌』の前半と後半に分けて第七識の倶有依と前五識の倶有依と第六識の倶有依を示す証拠になる、と理解すべきである、と述べています。前半は「阿頼耶を依と為して、故(かれ)末那転ずること有り、」という部分ですね、第七識の倶有依は第八識であることを示し、後半の「心と及び意とに依止して、 余の転識生ずることを得」という部分は、第七識と第八識を倶有依として前五識及び第六識は活動する、という証拠を示しているということになります。
 前五識の開導依 
 難陀等 - 第六識
 安慧等 - 自類と第六識
 護法等 - 自類
 第六識の開導依
 難陀等 - 前五識と自類
 安慧等 - 自類と第七識と第八識
  護法等 - 自類
 第七識の開導依
 難陀等 - 自類
 安慧等 - 自類と第六識
 護法等 - 自類
 第八識の開導依
 難陀等 ー 自類
 安慧等 - 自類と第六識と第七識
 護法等 - 自類
 自類とは、眼識は眼識を耳識は耳識を開導依としていることを意味します。 第三に護法の正義を結ぶ
 「故に自類を以て依となすと云う、深く教理に契えり。」(『論』第四・二十六右)
 (上来述べてきたことを以て正義を結ぶ。ゆえに自類を以て開導依とする。これは深く教と理にかなうものである。)
 護法正義
• 因縁依 - 種子
• 増上縁依(倶有依) - 五識の倶有依は五色根と第六識と第七識と第八識であり、所依の種類の別が有る。五根は五識に対し同境依・第六識は分別依・第七識は染浄依・第八識は根本依である。 第六識の倶有依は第七識と第八識であり、第七識の倶有依は第八識である。そして第八識の倶有依は第七識となる。
• 等無間縁依(開導依) - 五識の開導依は五識それぞれの前念の自識・第六識は前滅の第六識・第七識は前滅の第七識・第八識は前滅の第八識で、八識各自の自類を以て等無間縁依となる。
  この科段より護法の正義を述べるわけですが、一言で表すと、護法の説くところは全ての識が、それぞれの自類を以て開導依とするということです。自類のみに限定しているのですね。同じ性質の心が連続しているということです。結論から述べますと、心王については「是の故に八識は、各々唯自類を以て開導依と為すという、深く教理に契えり、自類は必ず倶起する義無きが故に」と。そして、心所については「心所の此の依は、識に随って説くべし」と。
 「有義は、此の説も亦理に応ぜず。」(『論』第四・二十四右)
 (有義(護法)は、この説(安慧等の説)もまた理にかなわないと主張する。)
 文意に四有り、と。
1.出体義(体と義とを出す) - 護法の開導依説について説明する。
2.破前非(前の非を破す) - 安慧等の説を論破する。
3.申正理(正理を申ぶ) - 護法正義を述べる。
4.釈違難(違難を釈す) - 護法説に対する批判に答える。
 「開導依とは、謂く、有縁の法が、主たり、能く等無間縁と作るぞ。」(『論』第四・二十四右)
 (開導依とは、つまり有縁の法が主となりよく等無間縁となるのである。)
 「開導依とは、四縁の中の等無間縁とは別なり。但だ是の開導依は必ず是れ等無間縁なり。是れ無間縁にて開導依に非ざる有り。謂く前念に滅せんとし自類の心所なり。」(『述記』)
 開導依の説明から述べられます。開導依とは、四縁の中の等無間縁とは別である、と。この意味は、等無間縁でなければ開導依とはならないが、等無間縁であるからといって開導依になるわけではない、という。その理由が次に述べられています。等無間縁にはなるけれども、開導依にならないものとは、前念の自類の心所である、と。自類のみが開導依となるということを主張します。例えば、第八識の開導依は前念の第八識のみであり、第七識においては前念の第七識のみであり、異類の識が開導依になることはないと説きます。
 次に開導依の説明です。その第一義
 「開導依とは、謂く有縁の法というは、謂く若し有法の体是れ縁を有するなり。即ち色と不相応と無為法との等を簡ぶ。所縁有って力有るもの能く引生するが故に。」
 開導依(等無間縁依)は、対象を認識する心の作用を持たない色法・無為法・不相応行法・種子は等無間縁にも等無間縁依にもならない。等無間縁になるのは心王・心所のみである。そして等無間縁依になるのは心王のみであり、しかも自類のみである、これが開導依であると護法は主張します。そして本文にもありますように開導依を三義によって定義しています。
 開導依の三義
 第一義は「有縁の法」であること。
「有縁」とは有所縁(所縁を有していること・認識対象を持っていること)のこと。有縁の法とは、「所縁有って力有るもの能く引生する」ものでなくてはならないことを示す定義になります。後念の存在を引生する力があることが条件となり、その力の無い色法・不相応行法・無為法は除かれるのです。
 第二義は「主となる」こと。「主たり」というは即ち一切の心所法の等きを簡ぶ。彼は主に非ざるが故に、要ず主として力有るいい方に依とは為るべし。」(『述記』)
 心所法は主ではなく伴であるので所依とはならないという。主となるのは、所依となり、所依となる作用を有している法であることが定義になります。伴というのは心王が主であり、心王に対して伴であるということです。
 第三義は「能く等無間縁となる」こと。三点を以て説明されます。
 「能く等無間縁と作るぞ」というは、
 (1)、異類の他識が自識の開導依とはならない。眼識の開導依は前念の眼識である、乃至。これは八識倶起・八識倶転を真実とするところから述べられています。 
 (2)は、自類の識であっても後念の自識が前念の自識の開導依とはならない。後念の自識という未だ生じていない法は依とはならないということ。
 (3)は、同時に存在する法同士には時間的前後がないために、同時に存在する法は依とならないということ。
 その二は、開導依の意味と名の由来
 「此れが後に生ずる心心所法に於て、開避し引導するを以て開導依と名く。此れは但心のみに属す、心所等には非ず。」(『論』第四・二十四右)
 (この後に生じる心・心所法に対し開避し引導することから開導依と名づけられる。これはただ心のみであり、心所等ではない。)
 「此れ」は前念の心王を指し、「後」は後念を指す。
 「前念の心王、此れが後の心及び心所法に於て、能く彼の路を開避し引導して生ぜしむる故に此の依と為る」が依の体を説明しており、「此れは但、心にのみ属す、諸の心所と色と不相応とに非ず、皆力無きが故に。亦無為にも非ず。前後無きが故に」が依の義を説明しています。
 開導依の体は心王、即ち識であり、心所等ではない、心王以外の法は開導依とはならないことを述べています。
 心所は主とならないので、開導依ではない。
 色法・不相応行法は引導する力がなく開導依とはならない。
 無為法も又後念を引く力が無い。そして無為は常住であるから前念・後念という時間的な前後がなく開導依の体とはならない。
 以上の理由から、護法は開導依となるのは但だ前滅の心王(識)のみであるという。一刹那前に滅した心を開導依と、そのことによって後念が引生されるのです。
 第二 ・ 安慧等の説を論破する。
 (1) 諸識不倶難(諸の識倶ならざるべしという難 - 異類の識の開導を認めるならば諸識は倶起しないであろうと論破する。)
 (2) 色心無異難(色と心と異なることなかるべしという難 - 異類の識の開導を認めるならば色法と心法とに異なる所が無くなるであろうと論破する。
 「下は初の難なり。」(『述記』)
 「若し此れが彼と倶起する義無しといはば、此れを彼に於て開導する力有りと説くべし。一身に八識既に倶起す容し、如何ぞ異類を開導依と為すという。」(『論』第四・二十四左)
 (もし此れが彼と倶起しないというのであれば、此れは彼に対して開導する力が有ると説くべきである。一身に八識がすでに倶起することを承認しているのであるから、どうして異類の識を開導依とできるというのか、できないはずである。)
 護法の理は、前念の識(心王)は後念の識(心王)・心所を生じる為の路を開避し、後念の識(心王)・心所を引導する働きを依とするのが開導依であるという。そして八識倶起説(難陀・安慧等も承認している)からみると、八識は倶起するのであるから八識同士は互いに他識が生起するべき路を妨げないということになり、八識は互いに開導依とはならないのです。「自識を他識の識が與に開導依と為すというや」と。自識からみて異類の他識は開導依とはならないというものです。
 前念の識が生起している限り後念の識の生起する路を塞いでいるわけです。そして前念の識が消滅してはじめて後念の識が生起するわけですから、前念の識が後念の識を開避し引導する力が存在することがわかるといいます。「此れを彼に於て開導する力有りと説くべし。」と本文は述べています。
 そして、八識倶起ということは、八識相互の関係は異類になりますが、八識が倶起するということは互いに妨げないで生起することになりますから、八識相互の間においては開導依は成り立たないということです。逆にいうと、倶起しないということは、ある識が生起する路を妨害しているということになりますから、妨害している識には妨害されている識の生起する路を開避し引導するという力が存在することになります。従って開導依となるのは(自識)前念の自識に限られるというのが護法の開導依説になります。
  ―  八識倶転(1) 倶転を明かす ― p159
「是の故に八識は一切の有情に於て心と末那と二は恒に倶転す。若し第六起るときには則ち三いい倶転す。余は縁の合するに随て一より五に至るまでを起すときには則ち四いい倶転し乃至八いい倶なり。是を略して識の倶転する義を説くと謂う。」(『論』第七・十六左)
(意訳) このようなわけで、八識はすべての有情にに於いて倶に動いている。阿頼耶識と末那識は恒に倶転する。マナーという我執の心は、ときどき動くのではなく、恒に動いている。阿頼耶識を依り所として動いていく。若し第六意識が起こる時には、阿頼耶識と末那識とが一緒に動く。余(前五識)は縁に依り一つが動くときも有り、全部が動くときもある。それは縁によって違う。そして阿頼耶識と末那識の二つはいつも有る。則ち阿頼耶識と末那識と第六意識と前五識のいずれかが、起きている時には動いているわけですから、四つは必ず動いていることになります。それが倶に動いていく。これを略して識の倶転する意義を説くのである。
 初能変・第二能変・第三能変を結ぶにあたって八識倶転・八識一異が述べられます。「こころは一つか」という問いに答えているわけです。八識はどのように動くのか、一つの識なのか、八識は別体なのかという問いが先ずあるわけです。この問題については概略を示して、初能変・第二能変を学びおえてから再考したいと思います。『成唯識論』の立場は八識別体・八識は、別々の識体を持つということです。八識倶転を受けて八識一異が述べられます。
八識一異 p160
 「心と意と識との八種は、 俗の故には、 別なること有り。 真の故には相別なること無し。 相と所相と無きが故にと」
 (意訳) 心・意・識という八種の識は世俗諦(道理世俗諦)でいうならば、八識は別体である。しかし勝義の立場(二空)からは相は別であることはない。それは相と所相との差別が無いからである。
 「若し依と為ると許さば、倶起せざる応し、便ち異部の心は、並生せずというに同じぬ。」(『論』第四・二十四左)
 (もし異類の識が開導依となるのなら、八識は倶起しないであろう。もしそのように主張するならば、それは有部等の部派仏教が主張する「心は並生しない」という説と同じことになる。)
  安慧等の主張を論破します。
 『述記』より、「若し互いに依と為ると云はば、互いに相い障るが故に」と。もし互いに開導依となるというのであれば、とりもなをさず八識が互いにそれぞれの生起を妨害しあっていることになり、八識は倶起しないはずである。
 もしそうであるならば、「小乗等の異部の心並生すること無しという義に同なりぬ」と。有部等の説は六識が倶起しないといい、六識が互いに妨害し合うからこそ倶起しないので六識同士は開導依となるという。
 難陀等・安慧等も八識倶起を認めているわけですから、異類の識が自識の開導依になるという説は誤りなのです、これによって八識倶起を認めている以上、八識相互が開導依となるという説は成立しないと護法は論破します。
 八識倶起説が『成唯識論』の立場であることを意味します。
 その二は、「色心無異難」(色と心と異なる所が無くなるであろうと論破する。)ここが二つに分けて説かれる。
 (1) 異なること無かるべしと難じ、(異類の識の開導を認めるならば、色法と心法とに異なる所が無くなると論破する。)
 (2) 相違を釈す。(聖教との間において相違がある問題について説明する。)
 (1)について、
 「又一身の中に、諸識の倶起すること多少不定なるを以て、若し互いに等無間縁と作る容しといわば、色等も爾る応し。」(『論』第四・二十四左)
 (また一身の中に諸識が倶起する場合には、その前念と後念とでは生起する識の数の多少は不定であるにもかかわらず、もし諸識が互いに等無間縁となるというのであれば、色等の間も互いに等無間縁となるであろう。)
 異類の識が開導依となるとすれば色法と心法とに相違がなくなることになる。前科段において「若し異類の識が開導依となるなら八識は倶起しないであろう」と述べられ、異類の識が開導依となることはないと論破しています。
 色法 - 物質的な存在。五根(五つの感官)・五境(感覚対象)・無表色(具体的に認識されない存在)をいう。一切法を五つに分類する中の一つ。
 一切法 - すべての存在するものの分類法。(1)有為・無為 (2)有漏・無漏 (3)心・心所・色・心不相応行・無為で(3)の分類を五位百法という。 
 心法 - 心所有法の略称。心の中心体である心王に付属して働く細かい心作用をいう。遍行・別境・善・煩悩・随煩悩・不定の六種に分類して五十一の心所がある。
 『述記』によれば、等無間縁の意味を先ず説明しています。「等」とは斉しいこと、同一であることです。
 二つの意味が有ります。(1)体等 (2)用等で、「体等とは前のも後のも一法なるが故に、心の唯一なるが如し。乃至受等も亦唯一有り。」(前念と後念とにおいて対応する法が一つずつであること。前念において心王の体が一つ・受の体が一つ・想等もその体が一つずつである。また後念においても同じく体は一つずつである。
 「用等」とは、前念の心・心所が引導する功能は一つになって後念の心・心所を引導するということ。
 体等・用等の斉しいことが等無間縁の「等」の示す条件になります。
 次は「無間」です。「隣次して生じて余の自心隔つること無きが故に無間と名づく。」(『述記』)と。前念・後念連続して生じてその間に他の心が介在する物理的空間を持たないことで、時間的空間ではなく異類の心が介在しないという物理的なところから述べられています。「自心隔つること無きが故に」と。これが無間の意味になります。
 次に「縁」とは縁慮作用。ある対象を認識する心の認識作用のことで、「色は質礙にして心は縁慮なり」と。ですから、等無間縁というのは心・心所に限られるということになります。
 色法には等無間縁は無いのですね。それは色法には縁慮作用が無いからです。それから同類の色法が同時に存在し(一身中において眼根・耳根・鼻根等の扶塵根などの色法が多種倶起しているような状態を示す。)、しかも前後で生起する数が相違し体等の義がないからです。このようにもし心法に於いて体等の義が欠如しているにもかかわらず、「互いに等無間縁と作る」というのであれば、色法にも等無間縁が成り立つということになり、心法と色法の区別がなくなるであろうというのが論難の視点になります。
 諸識の倶起を認め、そして諸識が互いに等無間縁となるのであれば、安慧や難陀等の説は心法と色法とに相違がなくなる、と護法は論破し、その証拠を引く。
 「若し彼れいい復色を心等の如く是れ無間縁なりと許すと言はば、」(『述記』)(もし、安慧・難陀等が、色法にも心法のように等無間縁があると認めるのであれば、)
 『論』の中では問いは隠されていますが、問いを受けて展開されていることが分かります。
 「便ち聖の、等無間縁は唯心・心所のみと説けるに違しぬ。」(『論』第四・二十四左・p87二行目)
 (すなわち、聖教に「等無間縁はただ心・心所のみである」と説かれるのに相違することになる。違は相違という意味ですが、間違って正義に背いているということですから違背していることになります。)
 安慧・難陀等の説を破斥するのに『瑜伽論』等の証を引く。
 『瑜伽論』巻第三十八(大正30・501b)
 「復有四縁。一因縁。二等無間縁。三所縁縁。四増上縁。當知此中若能生因是名因縁。若方便因是増上縁。等無間縁及所縁縁。唯望一切心心法説。由彼一切心及心法前生開導所攝受故。所縁境界所攝受故。方生方轉。是故當知等無間縁及所縁縁。攝受因攝。」(「復た四縁あり、一には因縁、二には等無間縁、三には所縁縁、四には増上縁なり。まさに知るべし此の中若しくは能生因をば是れを因縁と名づけ、若しくは方便因は是れ増上縁なりと。等無間縁及び所縁縁は唯だ一切の心心所に望みて説くのみ。彼の一切の心及び心法は前生の開導に摂受せらるるが故に、所縁の境界に摂受せらるるが故に方に生じ方に転ず、是の故にまさに知るべし等無間縁及び所縁縁は摂受因の摂なりと。」)
 また『無性摂論』巻第一(大正31・384c)
 「心及心法四縁定故。」(心及び心法は四縁定まるが故に。」)と。これらの証拠によって、等無間縁はただすべての心・心所に対してのみ説くのであって、これによって色等はすべて等無間縁として立ててはならないと云います。
 「然も摂大乗に、色にも亦等無間縁有る容しと説かるは、是れ縦奪(じゅうだつ)の言なり。謂く、仮に、小乗の色心いい前後として、等無間縁有りということを縦(ゆる)して、因縁を奪はんとの故なり。爾らずば、等の言は無用(むゆう)に成んぬ応し。(『論』第四・二十四左・p87)
 色心は色は身体的要素・心は精神的要素で、身と心ですね。
 (そして『摂大乗論』(『無性摂論』巻第三・大正31・396c)に「色法にも亦等無間縁がある」と説かれているのは縦奪の言によるものである。つまり、仮に小乗の色心には前後して等無間縁があるということを認めて、因縁を否定しようとしているための言である。そうでなければ、等の言は無用となるであろう。そうであるが故に、『摂大乗』の記述は色法に等無間縁が有るということを認めているものではない。)前段に「等無間縁は心・心所のみである。」と説かれているのに、聖教には色法にも亦等無間縁が有ると説かれているのは矛盾するのではないか、という、問いかけに応じて「縦奪の言」を以て答えています。
 『摂大乗論』に色にも亦等無間縁が有ると説かれているのは、これは縦奪(じゅうだつ)の言によるものである、という。この場合の、「縦」は認めることであり、「奪」は否定することを意味します。「縦体破之」(体をゆるしてこれを破す)、そして「奪体破之」(体をうばってこれを破す)という意味になります。
 色法にも等無間縁があると説かれているのは縦奪の言である。前念の色法と後念の色法との間には等無間縁が存在することを認めるということであって、色法が因縁になることはないと否定しているわけです。即ち、上座部の中の経量部の主張は「前念の色・心が後念の色・心の因縁となる(種子となる)」と云うのですが、これを『摂論』は経量部の主張の因縁となることを否定する為に「色・心には前後して等無間縁がある」ことを認めているという。認めてはいるが実際にはそこに等無間縁が存在するということを説いているものではない、と。
 等無間縁の「等」について、
 「等」は等しいということ、なにが等しいかというと、前念の心・心所と後念の心・心所とはそれぞれ一法づつ対応しているということであり、色法は前念と後念では法の数が相違している(色法は五根・五境。無表色)ので「等」という字は用いられない。このことから色法は等無間縁ではないことがわかるという。
 「若し謂く、等の言は多少を遮するに非ず、但同類を表すといはば、便ち汝が、異類の識いい等無間縁と作ると執ずるに違しぬ。」(論』第四・二十五右)  (もし「等」の言は法の多少を否定するものではなく、ただ同類を表すものであるというのであれば、それはあなた方(安慧等)の「異類の識が等無間縁になる」という主張と矛盾することになり、汝の反論は成り立たない、というべきである。)
 安慧の主張は「等の言葉は法の多少を否定するものではなく、ただ同類を表すものである」と。同類を表すということは、「前念は是れ此の心・心所なり、後のも亦此の心・心所なり」ということ。これを以て「等」であるという。これが安慧等の反論になるわけですが、これを亦護法が論破するわけです。「同類を表すということであれば、汝が主張する「異類の識が等無間縁になる」ということと矛盾するではないか。故に汝の反論は意味をなさないのである、と。
 「是の故に・・・」、正理を述べます。p87五行目
 「是の故に八識は、各々唯自類を以て開導依と為すという、深く教理に契えり、自類は必ず倶起する義無きが故に。」(『論』第四・二十五右)
 (以上のような理由から、八識は各々ただ前念の自類の識を開導依とする。これは深く教と理に適うのである。何故ならば、自類は絶対に倶起しないからである。)
 この科段は前をうけて、護法の正理を述べます。開導依の三義を読んでいただければ理解できると思いますが、開導依は「但心のみに属す。心所等には非ず。」と。「前念の心王の此れが後の心と及び心所法とに於いて、能く彼の路を開避し引導して生ぜしむが故に此の依と為る、此れは但心のみに属す、・・・」
 識については、八識の開導依は八識それぞれの自類である、と述べ、これは「深く教と理に適う」と護法はいいます。
 「心所の此の依は、識に随って説くべし。」(『論』)
 「各々本識に随って以て所依をば説けり。故に識に随って説くべしと云う。」(『述記』)
 今回はここまでにします

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