等無間縁依(開導依)について、
『論』第四(テキストp86)に護法の正義が記されています。
「開導依(かいどうえ)というは、謂く有縁の法たり、主と為り能く等無間縁(とうむけんえん)と作(な)る。此れ後に生ずる心・心所法に於て開避(かいひ)し引導(いんどう)するを以て開導依と名づく。此れは但心のみに属す。心所等には非ず。」
説明
一刹那前に滅した心を開導依という。前念の一刹那を開避し、後念の心・心所を引導して障りなく生起させる前滅の心・意根をいう。即ち諸の心・心所は、この開導依なくしては生起することが不可能であり、すべての心・心所は開導依(等無間縁依)に託して生起する。
しかし、この開導依に難陀・安慧・護法の異説があり、初に難陀等の説が述べられ、つぎに安慧等の説が述べられ、そして最後に護法の正義が示されます。
護法の正義のみを読み解きます。
「有義は、此の説も亦理に応ぜず。」
(有義(護法)は、この説(安慧等の説)もまた理にかなわないと主張する。)
「開導依とは、謂く、有縁の法が、主たり、能く等無間縁と作るぞ。」
(開導依とは、つまり有縁の法が主となりよく等無間縁となるのである。)
開導依の意味と名の由来
「此れが後に生ずる心心所法に於て、開避し引導するを以て開導依と名く。此れは但心のみに属す、心所等には非ず。」
(この後に生じる心・心所法に対し開避し引導することから開導依と名づけられる。これはただ心のみであり、心所等ではない。)
安慧等の説を論破。
「若し此れが彼と倶起(くき)する義無しといはば、此れを彼に於て開導する力有りと説くべし。一身に八識既に倶起す容し、如何ぞ異類を開導依と為すという。」
(もし此れが彼と倶起しないというのであれば、此れは彼に対して開導する力が有ると説くべきである。一身に八識がすでに倶起することを承認しているのであるから、どうして異類の識を開導依とできるというのか、できないはずである。)
「若し依と為ると許さば、倶起せざる応し、便ち異部の心は、並生せずというに同じぬ。」
(もし異類の識が開導依となるのなら、八識は倶起しないであろう。もしそのように主張するならば、それは有部等の部派仏教が主張する「心は並生しない」という説と同じことになる。)
「又一身の中に、諸識の倶起すること多少不定なるを以て、若し互いに等無間縁と作る容しといわば、色等も爾る応し。」
(また一身の中に諸識が倶起する場合には、その前念と後念とでは生起する識の数の多少は不定であるにもかかわらず、もし諸識が互いに等無間縁となるというのであれば、色等の間も互いに等無間縁となるであろう。)
「即ち聖の等無間縁は唯心・心所のみと説くに違す。」
(すなわち、聖教に「等無間縁はただ心・心所のみである」と説かれるのに相違することになる。
「然も摂大乗に、色にも亦等無間縁有る容しと説けるは、是れ縦奪(じゅうだつ)の言なり。謂く、仮に、小乗の色心いい前後として、等無間縁有りということを縦(ゆる)して、因縁を奪はんとの故なり。爾らずば、等の言は無用(むゆう)に成んぬ応し。
(そして『摂大乗論』(『無性摂論』巻第三・大正31・396c)に「色法にも亦等無間縁がある」と説かれているのは縦奪の言によるものである。つまり、仮に小乗の色心には前後して等無間縁があるということを認めて、因縁を否定しようとしているための言である。そうでなければ、等の言は無用となるであろう。そうであるが故に、『摂大乗』の記述は色法に等無間縁が有るということを認めているものではない。)
等無間縁の「等」について、
「若し謂く、等の言は多少を遮するに非ず、但同類を表すといはば、便ち汝が、異類の識いい等無間縁と作ると執ずるに違しぬ。」
(もし「等」の言は法の多少を否定するものではなく、ただ同類を表すものであるというのであれば、それはあなた方(安慧等)の「異類の識が等無間縁になる」という主張と矛盾することになり、汝の反論は成り立たない、というべきである。)
「是の故に八識は、各々唯自類を以て開導依と為すという、深く教理に契えり、自類は必ず倶起する義無きが故に。」
(以上のような理由から、八識は各々ただ前念の自類の識を開導依とする。これは深く教と理に適うのである。何故ならば、自類は絶対に倶起しないからである。)
「心所の此の依は、識に随って説くべし。」
『論』第四(テキストp86)に護法の正義が記されています。
「開導依(かいどうえ)というは、謂く有縁の法たり、主と為り能く等無間縁(とうむけんえん)と作(な)る。此れ後に生ずる心・心所法に於て開避(かいひ)し引導(いんどう)するを以て開導依と名づく。此れは但心のみに属す。心所等には非ず。」
説明
一刹那前に滅した心を開導依という。前念の一刹那を開避し、後念の心・心所を引導して障りなく生起させる前滅の心・意根をいう。即ち諸の心・心所は、この開導依なくしては生起することが不可能であり、すべての心・心所は開導依(等無間縁依)に託して生起する。
しかし、この開導依に難陀・安慧・護法の異説があり、初に難陀等の説が述べられ、つぎに安慧等の説が述べられ、そして最後に護法の正義が示されます。
護法の正義のみを読み解きます。
「有義は、此の説も亦理に応ぜず。」
(有義(護法)は、この説(安慧等の説)もまた理にかなわないと主張する。)
「開導依とは、謂く、有縁の法が、主たり、能く等無間縁と作るぞ。」
(開導依とは、つまり有縁の法が主となりよく等無間縁となるのである。)
開導依の意味と名の由来
「此れが後に生ずる心心所法に於て、開避し引導するを以て開導依と名く。此れは但心のみに属す、心所等には非ず。」
(この後に生じる心・心所法に対し開避し引導することから開導依と名づけられる。これはただ心のみであり、心所等ではない。)
安慧等の説を論破。
「若し此れが彼と倶起(くき)する義無しといはば、此れを彼に於て開導する力有りと説くべし。一身に八識既に倶起す容し、如何ぞ異類を開導依と為すという。」
(もし此れが彼と倶起しないというのであれば、此れは彼に対して開導する力が有ると説くべきである。一身に八識がすでに倶起することを承認しているのであるから、どうして異類の識を開導依とできるというのか、できないはずである。)
「若し依と為ると許さば、倶起せざる応し、便ち異部の心は、並生せずというに同じぬ。」
(もし異類の識が開導依となるのなら、八識は倶起しないであろう。もしそのように主張するならば、それは有部等の部派仏教が主張する「心は並生しない」という説と同じことになる。)
「又一身の中に、諸識の倶起すること多少不定なるを以て、若し互いに等無間縁と作る容しといわば、色等も爾る応し。」
(また一身の中に諸識が倶起する場合には、その前念と後念とでは生起する識の数の多少は不定であるにもかかわらず、もし諸識が互いに等無間縁となるというのであれば、色等の間も互いに等無間縁となるであろう。)
「即ち聖の等無間縁は唯心・心所のみと説くに違す。」
(すなわち、聖教に「等無間縁はただ心・心所のみである」と説かれるのに相違することになる。
「然も摂大乗に、色にも亦等無間縁有る容しと説けるは、是れ縦奪(じゅうだつ)の言なり。謂く、仮に、小乗の色心いい前後として、等無間縁有りということを縦(ゆる)して、因縁を奪はんとの故なり。爾らずば、等の言は無用(むゆう)に成んぬ応し。
(そして『摂大乗論』(『無性摂論』巻第三・大正31・396c)に「色法にも亦等無間縁がある」と説かれているのは縦奪の言によるものである。つまり、仮に小乗の色心には前後して等無間縁があるということを認めて、因縁を否定しようとしているための言である。そうでなければ、等の言は無用となるであろう。そうであるが故に、『摂大乗』の記述は色法に等無間縁が有るということを認めているものではない。)
等無間縁の「等」について、
「若し謂く、等の言は多少を遮するに非ず、但同類を表すといはば、便ち汝が、異類の識いい等無間縁と作ると執ずるに違しぬ。」
(もし「等」の言は法の多少を否定するものではなく、ただ同類を表すものであるというのであれば、それはあなた方(安慧等)の「異類の識が等無間縁になる」という主張と矛盾することになり、汝の反論は成り立たない、というべきである。)
「是の故に八識は、各々唯自類を以て開導依と為すという、深く教理に契えり、自類は必ず倶起する義無きが故に。」
(以上のような理由から、八識は各々ただ前念の自類の識を開導依とする。これは深く教と理に適うのである。何故ならば、自類は絶対に倶起しないからである。)
「心所の此の依は、識に随って説くべし。」
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