(「此の(『唯識論』)中には但だ善を満ずとのみ言う。彼(『対法論』)は因中の一分において、随って入るところの定を更にまた修治するによる。此れは因を行じ、成仏の果が満じ、更に修治せざるによる。故に唯だ満と言う。即ち三乗の究竟の果位に通ず。或は善事を作し、円に了するを満と名づく。能く善を満ずるが故に、要ずしも聖果のみに非ず。
若し唯だ勤と三性の法に倶に勤苦なるべし。然るに此の中の言は何れの性に摂せらるるや。」)
「善を満たす」ということについて、二つの解釈があることを述べています。
精進(能対治) → 懈怠(所対治)
という構図で、善行を実践して(「因を行じ」)、仏果を得ること、これが第一の解釈になりますが、第二の解釈は、善行を実践し(「善事を作し」)、それをまどかに満たすことを(「円に了するを満と名づく」)満という、必ずしも聖果(仏果)を得ていなくてもいいのだ(「要ずしも聖果のみに非ず」)と。
精進とは、善を修すること、結果如何に関わらず仏果を得ることに勇敢に立ち向かうということになりますね、そういえばですね、親鸞聖人も、信は獲得するもの、信心獲得といわれています。自分が動くことが大切な行為なのでしょうね、他力とは向こうからやってくるものではなく、自分が向かう所に、はからずも開かれていた世界なのではないでしょうか、それを還相回向として捉えておいでになるのではないでしょうか。異熟因において異熟果、それが現実には現行、自覚的には異熟果であると。それを「勤」という一言で押さえられているのですね。懈怠を対治することに於いて善を満たしていくということになるのでしょう。
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