穴にハマったアリスたち

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読んだので批判する:「プリキュアでカウンセリングを呼びかけるべき」(アゴラ)

2013年06月13日 | 王様の耳はロバの耳
ああ、またこの馬鹿な人だ…。

プリキュアでカウンセリングを呼びかけるべき(アゴラ)

根本的な議論のやり方を理解していない人にツッコむのも悲しいものがあります。
多分この人は、何を言われても理解できないのだろうと思う。
ただ、「読んだ第三者」には伝える意味があると思うので、書いてみる。

[引用]
 しかし、規制反対派は、因果関係の有無や、代償行為の必要性といった理由ではなく、「表現の自由」というきれい事を楯に抗議しています。これでは勝てるはずはない。
[引用終]


「相手が実際にはしていないことを、勝手に捏造して攻撃する」。
典型的なダメパターンの一つですね。

実際には言うまでもなく、因果関係の有無は反対の最大根拠の一つとしてあげられていますし、代償行為の必要性も同様です。
「漫画の無い時代や地域の方が性犯罪が多い」は、まさにこの両方。

[引用]
私はプリキュアは「幼児性的犯罪の必要条件」と言ってよい(比喩)と思っています。
(中略)
「必要条件(比喩)」というのは、「幼児に性的魅力を感じない人」もプリキュアを観るかどうかは関係なく、「幼児に性的魅力を感じる人」は、ほぼプリキュアに釣られてしまうでしょう。ということを言ってるに過ぎません。
「必要条件とは言えない」というなら、「プリキュアなんて全く興味がないけれど、幼児には猛烈に性的魅力を感じる」という人が出てくるなら、反証できるのですけれど……。そんな比喩はどうでも良い。
[引用終]


「必要条件である」というご自分の主張は、「比喩である」ことを強調しているのに、
「必要条件ではない」という反論に対しては、「比喩はどうでもいい」そうです。

実際にはもちろん「どうでもいい」では済みません。
というか、書いてて恥ずかしくならないんだろうか、この人…。

果たして「必要条件」(児童に性的興味があるものは、圧倒的大多数がプリキュアに興味がある)は正しいのか?

答えは即答できますね。「NO」です。

ちょっと想像力を働かせよう。

ここでいう「児童」は「18歳未満」です。
中学生や高校生に対するレイプや痴漢等も含みます。
さて、それらの犯罪者は、圧倒的多数が「プリキュア」に興味があるのか?

…それこそ偏見かもしれないので申し訳ないが、要するに粗暴だったり素行不良だったりする人たちですよね、それ。
体育会系か文化系かでいえば、体育会系の人たち。あるいは中年オヤジ。
(おっと、「体育会系」や「中年」であることは「十分条件」ではなく「必要条件だし比喩だ」と書けばいいんでしたっけ?)

で、こういった人たちは最も「プリキュア」から遠い層だと思うのですよ。
従って「十分条件ではないのはもちろんのこと、必要条件でもない」ですね。

ここでよくあるジョークを一つ。

 「犯罪を起こしそうなタイプと聞いて連想するのは?」⇒「根暗なオタク」
 「刑務所にいるタイプと聞いて連想するのは?」⇒「いかついおっちゃん」

…矛盾してることに気付いて欲しいものです。

[引用]
 子供は意味を分からず真似をするものですから、児童ポルノが子供の目につくところにあるのは、絶対に避けなくてはなりませんが、そもそも、「児童ポルノを規制しよう」という動きが出るのは、「そんな物は観たくない」「子供に見せたくない」と思っている人にも目につくからで、「表現の自由」の前に、「観たくない人達」の権利を先に侵害しているということに気づくべきでしょう。
[引用終]


見なければいいだけでしょう。
「いや街の看板にあると見えてしまうのだ」というなら、「看板の規制」等を行えばよいのであって、「単純所持禁止」と全く関係がない。
関係ない事柄を根拠に使ってる時点で、論として破綻しまくってます。

子供でも購入可能な漫画にも性的表現があるというのなら、それはまさに漫画にとっては一大事。
「表現の自由」を求めて反発することになるでしょう。まさしく今の現状。

なお筆者は「ハレンチ学園」を例に挙げています。
なるほど。ところでそれって、過去の漫画ですよね。
なんだ、「単純所持」を禁止しなくても、自主規制が進んで「改善」されてますね。
どうやらゾーニングは順調に進んでいるようです。

[引用]
「観たくない人達」、「子供に見せたくない人達」の権利を著しく侵害しながら、「表現の自由」を楯に争うなら、ポルノに限らずあらゆる規制に反対の私ですら、そんな馬鹿共の「表現の自由」は規制すべきと、言わざるを得ない。
多数決では到底勝てないですよ。
[引用終]


多数決で勝てないことの根拠が不明です。
実際、筆者も「物議を醸しだした」等、禁止に反対する層が多数存在することを認めてる。

前回の記事でも思いましたが、この人はどういう人たちが「プリキュア」や漫画等々に関わってると思ってるのだろう?
一応、「多くの人が関係している」とは書かれていますが、現実をちゃんと見ていないとしか思えない。

この法案の問題点の一つは、「多くの人が関係している」プリキュア等を所持していたことによって、罰せられる可能性があるというもの。
そんな危険な橋は渡れないので、過剰な自主規制の結果、「プリキュア」や漫画等々は、少なくとも現在の形では存在できなくなる。

平たく言えば、「プリキュアが児童ポルノとして禁止される可能性がある。お子さんのグッズも全て焼却処分しないと逮捕されるかもしれない」。
これを聞いて賛成する人間が圧倒的多数だと、本気で思ってるんでしょうか。

誰も(性的被害者が実在する)「児童ポルノ」の規制には反対していない。
全く無関係のものが、無根拠に規制され、文化や生活が破綻するから反対してるんです。

[引用]
本当に「表現の自由」を守りたいなら、「観たくない人達」、「子供に見せたくない人達」の権利を守ること(ゾーンニング・レイティングの徹底)と、自分たちで「児童ポルノは犯罪の原因ではなく、犯罪の抑止力になり得る」という主張の裏付けとなる統計資料を作るべきなのです。
(もちろん、恣意的に作ってはダメですが……)
[引用終]


主張の裏付けとなる統計資料が必要なのは、反対派ではなく推進派です。

例えば受動喫煙を防ぐべく、煙草の規制が進んだのは、「害がある」と主張する側が、害を証明したから。
同様に、児童ポルノを規制したいのなら、「害がある」と主張する側が、害を証明しないといけない。

もっとも実際には「犯罪の原因ではなく、抑止力になりうる」は、まさしく反対派の主張の一つ。
因果関係がないことを示す統計は出ていますね。
(ただしこの筆者は以前の記事では「仮に性犯罪を減らす要因である場合も因果関係があるという。問題だ」と述べています。
 犯罪を抑止する要素であったとしても、制約をかける必要があるらしい)

しかも散々「十分条件ではなく必要条件(比喩)だと言ってる」と繰り返してたのに、何故か十分条件になってしまってます。
せめて最後まで格好をつければ良かったのに…。


一般的に「児童ポルノ」と聞いて連想するものは、「実在する小学生以下の少女に、性的被害を加えている写真や動画」だと思う。
ところがこの法案で目の敵にされているのは、「高校生アイドルの水着グラビア」や「18歳くらいに見える女性キャラが登場する漫画」等が含まれてる。
卒業アルバムも危険ですね。学生時代に片思いしてたあの子の制服姿の写真を眺め続けている内に、屈折した感情に火が付いて少女愛好者になった…なんてのは、ストーリーとして十分ありうるでしょう。
「児童ポルノ」として処罰する必要性がありますね。賛成派の理屈に則れば。

そこら辺をきちっと説明した上で、
「あなたの持つ●●も児童ポルノと判断される可能性があります」(例えばワンピースやドラゴンボールや卒業アルバム)
「法案が可決した場合、速やかに処分することが求められます」
「それで貴方は規制に賛成ですか?反対ですか?」と是非聞いて欲しいものです。

「そんな懸念は極端だ」というのなら、そんな極端な懸念をしなければならないような法案が問題なのです。


【蛇足】

「17歳の女性に性的魅力を感じたらアウト」というのが、そもそも狂ってるのでしょうね。
なんで結婚可能な年齢の女性に魅力を感じることが、批判対象になるのか。

年齢差を問題視するのなら、60歳が40歳に興味を持ってもアウトでしょう。
経験のない子供だからというのなら、中卒で働いている17歳の方が、22歳大学生よりもよほど社会人として一人前でしょう。

「実際に性行為を行ったらアウト(本人の合意があっても)」なら、まだ理解の余地はあります。
「本人の合意のない写真等を保持していてもダメ」も、まだ分かる。(風景写真にたまたま入りこんだだけ、等による「冤罪」を防止する明確な規定があれば)

ですが、「本人の合意のある写真もアウト」。
それどころか「実在しないキャラクターでも、持っていただけでアウト」。
もはや意味不明すぎます。

(追記:続きを書いた)

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読んだので書いてみる:「小学生が書いた「ごんぎつね」の感想で議論勃発 ごんは撃たれて当たり前?」

2013年05月10日 | 王様の耳はロバの耳
小学生が書いた「ごんぎつね」の感想で議論勃発 ごんは撃たれて当たり前?

[引用]
 小学校の国語の教科書では定番の童話「ごんぎつね」。この物語に対する1人の小学生の感想が、2ちゃんねるのスレッド「姪っ子のごんぎつねの感想が問題になっているんだが……」で議論を呼んでいます。

(中略)
 多くの子供は「ごんがかわいそう」という感想を持ったようですが、投稿者の姪は「やったことの報いは必ず受けるもの」「こそこそした罪滅ぼしは身勝手で自己満足でしかない、(兵十はごんの反省を知らないのだから)撃たれて当たり前 」とシビアな感想を抱いたようです。この感想が学校で物議を醸しているそうで、スレッド内でも大きな議論に発展しています。
[引用終]


先に自分の考えを書くと、この感想は「間違い」だと思う。

根本的なところとして、これは「国語」の課題です。
「国語」である以上、「書かれている文章を元に感想を書く」のは大前提。
そして「書かれている」ことは、「ごんを撃ってしまった兵十が嘆く」です。
従って、「哀しい」「可哀そう」という内容を読み取るのが正しい。
これは「こういう状況は可哀そうと思うのが道徳的に正しいから」ではなく、「国語的にそう書いてあるから」。

もしも、ごんぎつねを撃った兵十が「母さんの仇をとったぞ!」と喜び、ごんが涙するシーンで終わるのなら、上記の小学生の感想は分かる。
「兵十は知らなかったのだから喜ぶのも仕方がない」とか「その時のごんの心境はこれこれで…」とか。
ですがそのような描写で終わっていない(私の記憶が確かなら)。

「感想は自由なはずだ」という意見は良く見ます。
気持ちは分からなくはないですが、おそらく「国語」であることを忘れてる。
これが「道徳」の授業なら、まだ検討の余地はあるのですけれど。

例えば「ごんぎつねを読んで感想を書け」と、「物理」の時間に出題されたら答えは変わります。
「生物」の時間なら「ごんの生態はどうなっているのか」とか、「歴史」の時間なら「人と動物の関係性」とか、「美術」の時間なら「このシーンを絵画に書きたい」とか、それぞれ回答は違う。
そして「国語」の時間である以上、「書かれていることは何か」をベースにしないといけない。

(もちろん暗喩や行間の表現はあります。
また、直接的には書かれていない「少ない情報で判断することの危うさ」とか「取り返しのつかない殺生という手段の是非」を読み取ることはできる。
ですが「ごんぎつね」においては引用元のようなことは書かれていなかったはず)

似たような話題でいえば、「作者の心境を答えよ」⇒「書いた人にしか分かるはずがない」も同様。
作者が実際にどう思っていたかは、あんまり関係がないと思うのです。
日本語としてそうとしか読めなければ、それが答えなんです。仮に作者が違う事を考えていたとしても。

これは「1+1は幾つか?」と同じ。現実世界では「2」以外になることも珍しくはありません。
が、小学生の算数の四則演算では「2」が正解。
だってそういうルールなんだから。(厳密には1+1=2は公理ではありませんが)


といったわけで、「国語の感想として間違い」。

「人として可哀そうと思うべきだから」ではなく、「そんなことは読みとれないから」。
これは「国語」であって「道徳」ではないのだから、「感想は自由だ」といった反発はかなりズレてる。
少なくとも「1+1が2だと押し付けるな。自由なはずだ」「サッカーで手を使っちゃいけないのは何で?画一化は良くない」とゴネるのと同程度には。


…とはいえ、小学校の「国語」は「道徳」の要素が忍び込んでいるように思えるので、反発したくなる気持ちは分かります。
「世界史」で「日本と近隣諸国を中心に教育しよう」とか、「物理」で「日本人科学者の業績を中心に教えよう」とか、そういうのと同種の気持ち悪さは感じる。

そこで、あえて反発した回答で攻めるのなら、「作者の意図はこれこれと読みとれる」「しかしそれを表現したいのなら、兵十は喜ぶべきだったのではないか?理由はこうだ」とか、「兵十は本当に悲しんでいるのか?これこれの箇所にはこう書かれている」等でいくべきじゃないかな。


[追記]

質問を貰ったので追記。

●1+1が2にならない具体例
 1人でやると2時間かかる仕事が、2人でやると1時間で終わるとは限らない。(1仕事能力+1仕事能力は、2仕事能力にならない。タスクを個々の要素に分解して考えても同様)
 体温が36度から37度になった場合と、38度から39度になった場合では、どちらも「+1」ですが、影響は同じではない。等々。

●1+1=2の証明はどうするのか
 イプシロンデルタ論法を使う奴ですね。
 それをさらっとここで簡単に説明できる力が私にあるなら、理系の道を歩めた…。

●有理数体の議論なのか
 そこはあんまり気にしてないです。前提となる小学校算数の教育方針の詳細を踏まえた上でのことではないので。
 わざわざ「小学校の算数では」と断ったのは、「確率」が念頭にありました。
 確率計算だと、書式としては「1+1」とは書きませんが、概念として「1足す1」が「2」にならない典型なので。

 ちなみに「厳密にいえばこうだ」的な発想は、まさしく「出題課目や範囲によって答えが決まっている」例ですね。

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Yahoo!知恵袋より:「●(長文です)昨日、夫から離婚を切り出されました」

2013年04月30日 | 王様の耳はロバの耳
Yahooさんのップページで紹介されてた「知恵袋」が気になったので書いてみる。

(長文です)昨日、夫から離婚を切り出されました。関係修復に向けたアドバイスを...

[引用]
(長文です)昨日、夫から離婚を切り出されました。関係修復に向けたアドバイスをお願い致します。私(妻)36才、夫33才、子供はいません。社内結婚をして5年間、同じ会社(勤務地別)で共働きです。
[引用終]

この手の話のとき、「男性はプライドが高いから」で説明しようとされるのが、かなり納得できません。
男女の性別に由来する原因を作り上げなくても、もっとシンプルに説明がつくはず。
思うに、こういう問題事は、男女の性別を逆転させて考えるのが定石じゃなかろうか。

リンク先のお悩み相談だと、こんな感じ。

 『昨日、妻から離婚を切り出されました』
 『社内結婚をして5年間、同じ会社(勤務地別)で共働きです』
 『結婚3年目。私が昇格し、出張、飲み会が増え、帰宅が深夜になることが増えた。それに伴い、食事の支度をしなくなった』

離婚に至っても特に不思議はないと思う。
元々の質問文には「掃除・洗濯・ゴミ出しは私が9割」とありますが、大勢に影響はないでしょう。
(何なら「土日は家族サービスをしていました」と置き換えてみてもいい)

そしてその場合に、「女性はプライドが高いから」といった性別に起因する理由づけは必要ないはず。

実際のところ、「男性はプライドが高いから」は説得のための枕詞であって、さしたる意味はないのだとは思います。
逆に「女性は嫉妬深いから」といった表現もありますし。
「プライド」と「嫉妬」は厳密には違うものの、こういった話題の際には実質的に同じ局面で使われます。
要は男女の差はないんですよね、これ。

「~~はこうだから」という説明は、説得する際には便利です。
特に相談者が自身に非を感じていない場合は。
(例:「子供だから仕方がない」や「あの親父は頑固だから気にするな」等々)

ただ、枕詞であることが意識から抜け落ちてしまうと、かえって問題をややこしくすると思うのです。
上記の質問でいえば「どうして女性が男性を立てないといけないのか。性差別だ」みたいな、変な方向に行きかねない。
実際には性差が発端の問題ではなく、相談者が男性だろうと女性だろうと、「それは確かに離婚もありえる」な状況なのに。


うちの会社でも「女性の働き方」論みたいなのが流行ってるけど、「それ男女の違い関係ない」と思う事が多々あって落ち着きません。例えば育休とか。
「女性の多様な働き方への理解が云々」とか妙なことを言わず、「男女の区別なく、また理由の如何を問わず、年単位の休暇をとれるような制度を整える」でいいと思うんだけどな。
年単位の休暇が欲しい事情なんて、男女の違いなく、また子供がいるいないに関わらず、いろんな人にあるのだから。

育児でも介護でも自分探しの旅でも趣味でも休養でもなんでもいいから、年単位で休んで、その後復帰できる環境を作れば、育休後の復帰の問題は消滅するはず。
逆に「そんなこと無理だよ」というなら、育休制度も破綻してる。
(男女に能力の違いがないとすれば、職場の半数は女性。
 そして理屈の上では全員が同時期に育休を取得することがありうる。
 職場の半数が、年単位で休暇を取ることを想定していないのなら、そもそも制度として破綻してます。
 更に付け加えるなら、趣味の休暇と違い、時期の調整が困難ですし)

と、まぁそんな感じで、気になったので書いてみた。

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Yahoo!ニュース:「年収は、なぜ「使う財布の値段」の200倍になるか?」

2013年02月11日 | 王様の耳はロバの耳
見かけたので、一言だけ。

年収は、なぜ「使う財布の値段」の200倍になるか?

[引用]
 お財布自体の値段を的中させることができ、お財布の持ち主の年収を推定できるようになったとき、私はこのふたつの間に、恐るべき関連性があることに気づいたのである。

 お財布の値段×200=持ち主の年収。

 すなわち、その人の年収は、持っているお財布の値段のほぼ200倍なのである。私が幾多のお財布を見てきた経験から言って、ほぼ間違いなく200倍前後の範囲に収まる。年収1000万円の人なら5万円前後のお財布を使っており、年収の2000万円の人は、10万円前後のお財布を使っているものなのだ。
[引用終]

これ、因果関係が逆なんじゃないかな。
リンク先の主張としては「財布を重視する人は年収も高い」なのだけど、ただ単に「年収が高いから財布も高い」でしょう。
多分、似たようなネタは「飲んでいる酒の値段」や「住んでいる家の値段」でもできるはず。

…まぁ筆者自身は、そのからくりを知った上で書いてそうですけれど。

占いの一種と思えば微笑ましいけれど、「この公式に当てはまらないお財布の所有者をどう判断するか」の一節は、誤った根拠による誤った判断を助長してるように思う。

「成功者は高い服を着る(ことができる)」⇒「高い服を着る人は成功する」⇒「安い服を着る人は成功しない(から信頼するな)」

いわば、こんな風に。
(最初と最後は対偶になってそうだけど、時間軸が違う)

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「ごめんなさい」のその前に

2013年02月09日 | 王様の耳はロバの耳
某アイドルさんの丸刈り謝罪の話をテレビで見たので、ちょっと思ったところを書いてみる。

なんか論点が拡散しまくってる気がするのだけど。
要するに「仕事の失敗に対し自腹を切った」というシンプルな話のはず。
従って無意味な行動だったように思う。

たとえばレストランの店員さんがコーヒーこぼして服を汚してしまった時。
その店員さんが、店の方針と関係なく、頭丸めて謝罪してきたところで、だから何だと思う。
いいからお店がクリーニング代を出してください。

だからアイドルさんの場合も、会社(組織)として、無料で何らかのファンイベントをやるなり、返金に応じるなりするのが、正しい謝罪だと思う。
(もちろん、最低限の謝罪の言葉は必須としても)
結局のところ、(会社が)金を出したくないから丸刈りや土下座で誤魔化そうとしてるだけですよね…。

「そこまで酷いことをさせるなんて」という観点では、私的にはやりすぎでもなんでもないように思う。
髪の毛は普通に生える。
ファッションで丸刈りにする人も(女性も含めて)実際にいる。

但し「異様かどうか」という意味では、異様だと思う。
何の意味もないのに、奇怪な行動をしてるようにしか思えない。
方向性としては「謝罪の気持ちを表すために、街中で奇声を発して練り歩きます」とか言いだすのと、さして変わらない気がする。
いや確かに精神的にダメージを受けるだろうし、本人としては反省してるのかもしれないけれど。
その行動に何の意味があるのかと。

で、「アイドルだって人間なんだから恋愛くらいして当然。そもそも謝罪する必要性なし」といった考えについては、皆目理解できない。
仕事上、通常の生活と大きく違う制約を課せられることなんて、珍しくも何ともありません。
代表的なのは夜勤。他にも、食事制限や喫煙、服装エトセトラ。
(「そもそも恋愛したことで幻滅するのはどうなのか」という言い分は、当人たちがその方針を明確にして売ってるのだから逃げ道にならない)

プライベートの事情を優先し、仕事に影響が出たら、いたって普通にペナルティを課せられます。
そして客に対してその影響が及んだら、会社が責任を取る。
社内規定による罰則や査定ダウンはあるにしても、それは客が関知する話じゃない。
「不祥事起こした社員は首にしましたので…」「うん、で、御社としてはどのような謝罪を?」
これが普通の流れのはず。

自分でも書きながら整理できたけど、全般に「何か変だな」と感じるのは、商売上の失敗を個人に転嫁していて、会社(組織)としては何も「謝罪」していないからかなと思った。

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我思う故に我あり

2012年11月16日 | 王様の耳はロバの耳
なんとなく仕事しながら思った事。

世に言う「議論」の際、よく「主観ではダメだ。客観で根拠を述べよ」と言われる。
私はこれを間違いだと思う。
というのも、何が「客観」なのかは「主観」によるから。

例えば「映画Aと映画Bのどちらが面白いか」という議論遊びをしてるとき。
「映画Aは面白い。何故なら売上が高いから」と、「映画Bは面白い。何故なら私が面白いと思ったから」だと、前者の方が客観的で説得力があるとされます。
が、よくよく考えてみれば「何で売上が高いと面白いことになるんだ?」が解決されてない。
単に「数字があった方が相手を騙しやすい」というトリックを使ってるだけなんですよね、これ。

ただ哲学的な議論をしていても仕方がないので(「では何が客観なのか」「面白いとは何か」「それを観測する我々とは何なのか」「そもそも我はここに存在しているとどのように証明するのか」etcetc)。
通常「議論」をするときには、お互いの「主観」をもって、「客観」を決める。
つまり、「売上で比較することは客観的であると、双方の主観によって合意する」というプロセスを経て、初めて「売上」が客観として使える。

なんかややこしい言い方をしてますが、要は事前に双方がルールに合意してからでないと、ゲームが始まりません。
「サッカーでは手は使わないんだよ。そう客観的に決まってるんだよ」というルールにお互いが納得してからでないと、サッカーが成立しないようなもの。
「いやスポーツなんだから全身使って勝負するのが『客観的』でしょ」みたいなことは言いださないと、事前に合意をとるわけです。

思うに、ここを分かってるかどうかが、「口がうまいかどうか」の境目の一つなのかなと。
少なくともこういう認識を持ってない相手には、議論をして負ける気がしない。
相手が「客観的だ」と思ってる根拠を、横殴りで盤上返しできるから。

例えば上述の「売上が高い。だから面白いんだ」のような場合。

最初にチェックするのは、「本当に売上は高いのか」という点。
「映画の売上」という例の場合、これは破綻します。
というのもこの手のは「公開1週間の成績No.1」とか「前売り券の成績No.1」とか、細々期限や条件をつけて出してるから。
(『全米No.1』がやたら沢山あるのはそのせい。それぞれ基準が違う)
従って、「なぜその基準の売上を根拠に採用しているのか。違うコレコレの範囲でもいいじゃないか」と詰め寄れば、概ね破綻する。(もちろんそちらの基準なら勝てることを確認してからですが)

もっと単純なのは相手の根拠を逆用すること。

双方が合意しないと根拠は「客観」として使えない。
だけど自分にとって不利な根拠を、わざわざ「それは客観です」と合意する相手はいない。(まぁたまにいますが)
そうすると双方に「主観」のぶつけあいとなり、決着が付かないのですが…。

でも絶対確実の「客観」として認められる方法があります。
相手が自分で持ち出した主張は、相手の主観により「客観的だ」と初めから認められてます。
つまりこの例でいえば「売上が高い。だから『つまらない』」と主張してやればいい。

そもそも「売上が高い」=「面白い」は、客観的なようでいて極めて主観的です。
背後にあるのは「大勢が支持しているから面白いはずだ」。
ですが「大衆受けを狙った駄作」といった「大勢が支持しているからつまらない」を示す評価は珍しくありません。
逆に「一部の分かる人には分かる。ツボをついた作品」といった「少数が支持しているから面白い」も普通に成り立つ。
故に「売上が高い。だから『つまらない』」を否定する「客観的」な根拠はない。そして相手が自ら「売上」は客観として使えると認めている以上、この論を否定するのは困難です。

ここで使っているトリックは、「売上が高い=面白い」は主観でしかなく、それを論拠に使うためには、相手とまず合意しなければいけない、というステップに気づいていない点を突いてること。
そして当然、売上が低い側は、そんな「主観」には合意しない。
あくまで自分にとって有利な「主観」を「客観」だと主張する。

だから「議論」の場では、基本的に相手の「主観」を逆用して殴り倒す手法が使われる。
上の例でいう「売上が高い。故につまらない」のような。
もしも相手がこの構造に気づいていない場合、一瞬の平行線や「お前は何を言っているんだ」という罵声の後、大抵こう遷移します。

『売上でつまらないかどうかなんて判断できないだろう』
『例えばこんな例外のケースが…』

この時点で勝ちです。
相手が自ら、「売上は指標となりえない」と言いだしてくれたんだから。
その瞬間に相手の持ちだした「主観」(売上は評価に使えない)に合意を示し、「客観的に見て売上は面白さと関係ない」に合意してやればいい。

基本的に「主観」と「客観」の考え方はこんな感じだと思う。
相手が自分で言いだした「主観」が、こちらにとって都合が良ければ「客観」と認定してやればいい。
相手の合意は得ているのだから、それで決着がつく。

(なお、ここで「ビジネスなのだから売上は高い方が良いに決まっている」といった展開を持ちだす相手は論外。
「面白いかどうか」の基準として「売上」を使っていたのに、そこに「ビジネスとして成立するか否か」を持ちこむと、もはや目的も根拠もブレ始める。
「ビジネスとして成立するから面白い」という根拠として使うなら「売上」の多寡の根拠は揺らぐし(どうして「売上」なの?「利益率」とか「純利益」ではなくて?)、「ビジネスだから売上が高い方が良い」と目的に設定するなら「今は面白いかどうかの話であって、ビジネスの話はしていない」で一蹴される)

逆に相手がボロを出さないようならば、ひたすらこちらの「主観」を「客観」だと主張すればいい。
別に卑怯でもなんでもないです。相手だって自覚してないだけで同じことやってるんだから。
(数が多い側が「多数決は客観的だ」といくら主張しても説得力がないようなもの。なんで「衆愚政治より分かっている専門家の意見を尊重すべき」が客観的ではないと言い切れるの?)

現実の議論の際には、これに利害の話が絡みますが(10:0ではなく6:4で決着を狙うとか、双方にとって利益のある妥協点を探すとか)、やってることの基本は変わらないと思う。
議論に限らず、営業のテクニックとかでも同じ。
こちらから「お困りでしょう?この商品が役に立ちます」と言うよりも、相手から「こういう状況は困ってるんだ」と言わせてからの方が売りやすい。

なんか会議に出てて、「議論」に負ける人のパターンを見てるに、こういうことなのかなと思ってみた。


【蛇足】

上記の例でいう「売上が高いから面白いんだ」の否定はそんな感じ。
逆に、もう片方の側「私が面白いと思うから面白いんだ」を否定したい場合、「検証可能かどうか」が軸に置かれると思う。
「貴方が面白いと思っているかどうかは我々には検証のしようがない。故に根拠として使えない」。

要は「世界中の生物は神が作ったのだ。なんか進化して発展したような化石とかが見つかるのは、神がそう見せているだけで、実際には神がある日、神秘的な力で創造したのだ」といった理論と同じ扱い。
もしかしたらその通りなのかもしれないけれど、検証のしようがないので(原理的に反論する術がないから)理屈として採用しません、みたいな。

もしくは「では貴方はいついかなるときも『面白い』と認定するのですね?」と詰め寄るとか。
(「あなたは肉親が他界した時でも、それを観て面白いと感じるか?」とか。
 「感じない」と答えたなら、「では状況に応じて評価は変わるのですね」と合意を得られる。
 「どんな状況だろうと変わらん」と強弁されたなら、それはそれで楽。
 「肉親の他界のような一般的に悲しむ状況(いくらでも根拠は並べられる)ですら感情が制御されるのですね」から「あなたの判断基準は一般とかけ離れている」でも「それは個人の状況を凌駕して作用する麻酔や麻薬と同種であり面白さの指標に使えないことが証明された」でも、なんでもいい。
 つまりは「相手の持ちだした主観を否定せず、客観根拠に使う」ことを意識できてるかどうかが大事)

そういったようなわけで、「主観だから説得力がない」といった、主観的な反論はしょぼいと思うのです。

【蛇足2】

相手も同じことを考えている場合。

双方に「相手の持ちだした主観を利用して殴ろう」と考えるので、お互いにお互いを(表面的には)否定しないのに、それぞれが自分の言い分を通そうとする、気持ちの悪い状況に陥ります。
やってる当人としては、案外爽快だったりしますけれど。
お互いに自分の利益や目的を理解した上で話をしているので、ある意味、交渉が成立しますし。

最悪なのは理屈を理解しない相手。
「その方が自分にとっても得だけど、何となく嫌だ」とか「売上が高いから面白いんだよ。客観的だろ?(上記のようなやり取りが発生して云々中略)うるせぇ!とにかく面白いんだよ!!」みたいなタイプ。
何故に自分が論破されてしまったのか理解が追い付かないけれど、負けたことは分かる…ときに、とにかく暴れる人はそこそこいる。

そうなってしまったら、こちらも「黙れこの野郎」と応戦せざるを得なくなります。
第2ラウンド、肉弾戦の開始です。
書を捨てて外に出よう。拳を握りしめて。

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gooニュースより:「本当に「バカな上司」の下で、どう働くか--小籔千豊 」

2012年10月08日 | 王様の耳はロバの耳
ライブに参加するため大阪まで行ってきました。
遠征したのは久しぶりな気がする。

で、早速レポートでも書こうと思っていたのですが。
帰りの車中で暇つぶしに読んでた本や、ちょうど帰宅後に目に入った記事に一言書きたくなったので、そっちを先にしてみる。
明日は三連休明けのうんざり日和ですし。

本当に「バカな上司」の下で、どう働くか--小籔千豊

[引用]
 振り返ると僕の考えたアイデアを先輩が「それええやん」とあたかも自分のものとして使うようになったり、「こうしたらウケるから」と明らかに間違ったリードをされて、舞台でスベらされてしまうことがありました。新喜劇の世界で座長というトップを目指して少しずつ点数を積み上げていく中で、たとえ上司の指令であれスベってしまえば何十点もマイナスになるわけです。こんな迷惑な話もありません。でもそこで「おまえの言うこと聞いたらこのザマや。なにしてくれんねん!」と突っかかるのは間違っていると思います。

(中略)

 僕の場合、「自分だけがひどい目に遭っている」という状況にとらわれないように努めました。「こうしてスベったのはみんな経験したことや。もっと過酷な状況でもっとひどい仕打ちを受けた人もたくさんいる。なに自分だけ悲劇のヒーローになってんねん!? 」と考えるようにしたんです。
[引用終]


「自分だけではない。他の人も苦労しているんだ」。

この手の話では、この手の切り替え思考がよくお勧めされてます。
心の底から理解ができない。
何をどうすれば、そんな発想が出てくるか分からん。

常識的に考えれば「他の人も苦労しているんだから、皆で協力して正そう」となるはず。

例えば台風や地震のような不可避の不幸は、ある程度諦めないといけない部分はある。
その際に「被災したのは自分一人ではない」という思考が、慰めになることも否定はしない。
もちろん防災手段の向上等、できることは多数ありますが、根本から天災を根絶することはできませんから。

しかし職場の問題なら別です。
「自分だけが苦労している」というのなら「もしかしたら自分の能力の問題か?」と疑う余地もありますが、他の人も同じ状況ならもう明らか。
皆で協力して、問題を解消すべき。

なんというか、いじめで苦しんでいる人に対し、「誰しも大小いじめられている」「もっと酷い目にあっている人もいる」「私も皆もおかしいと思ってるよ」「だから気にするな!」と言うような理解不能の思想だ。。

[引用]
 そこで次に自分が何をしたくて今の仕事を選んだのか、初心に帰りました。それをしたらぶれへんと思うんですよ。僕が新喜劇に入った目的は、嫁はんにビッグマネーをパスするためであり、お笑いの世界に入ってお世話になった人たちに恩返しするため。そこで「じゃあ耐えなあかん」と確認できる。
[引用終]


「目的を再確認しよう」。

これもよく見かけます。そして、これまた意味不明。
初心に帰るのは分かる。何のために働いてるのかを再確認するのも分かる。
しかしその結果が、何故「耐える」になるんだろう?

常識的に考えれば「そうだ、自分の仕事は、ダメな上司に耐えることではない!客に商品を提供し、自分たちの生活を向上させることだ」となりそうなものなのに。

何せ引用元の例では、上司のせいで商品(舞台)が失敗しています。
どう考えても、せっかく再確認した目的と手段が一致していない。
初心でも真の目的でもプロ根性でも何でもいいですが、どうしてそこから「だから気にするな」に飛躍するんだろう?
まともに仕事をしたいのに、まともでない要素のせいで上手くいかない、というのがそもそもの不満を持ったきっかけなのに。

上司だって人間だから、失敗すること自体はあると思うんですよ。
一切の失敗を許さない、百発百中でなければブラックだ、なんてのは当然おかしい。
だから「今回はたまたま失敗しただけだ。失敗のフォローや責任は取ってくれたし、普段は概ね成功してるじゃないか」「だから今回の失敗をいつまでも恨まないようにしよう」、こういうのは分かる。
でも上記二つのようなのは気持ちが悪すぎる。

どうもこの手の啓発系はピントがズレまくってる気がします。
それとも、悩んでいる社員向けというより、会社側の言いわけのために書かれてるのかな。
「そうそうそうだよね、だから会社はこのままでいいよ。私は間違ってなかった。おかしいのは不満を持ってる社員の方」と思いたい人たち向け。

[追記]

ちなみに「不満があるのなら転職するしかない」というのも良く聞きます。
ある意味では正しいですが、本質的には間違ってる。

というのも、「犯罪にあった」「さてどうする?」に置き換えてみよう。
治安が極端に悪い地域に住んでいるような場合、個人レベルで治安を改善することは相当に困難なので「引っ越せ」はある意味で正しい。
ですが、この職場の例では「他の大多数もおかしいと感じている」んです。つまり「治安」が悪いのではない。
そうならば回答は「一部の異常者をどうにかしよう」が正解。
(また引っ越す場合にしても泣き寝入りする理由はないので、身の安全を確保した後、できる手段で改善を狙うはず)

それとこれも常々不思議なのですが、転職を前提として良いのなら尚のこと、躊躇なく職場改善に挑めると思うんですよ。
だって改善が失敗しても成功しても損がない。
失敗しても会社を去るのなら気にする必要ないし、成功したのなら居残るでもそれを手柄により上位企業を狙うでもいい。
逆説的ですが、転職を想定しているのなら、すぐに自ら辞める理由がなくなる。実際、私もそうだった。
しかもこの例では(くどいようですが)「他の大多数もおかしい」と感じているのですし。

…ていうか長々書いてますけど、本質的には「席で常習的に居眠りしている社員がいる(健康問題とかではなく)」「さてどうする?」と同じなんですよ。
普通は「こちらの仕事を増やすな」や「賞罰制度を見直せ」だと思う。
それが何故か「会社とはそういうものだ。我慢しよう。不満があるなら去れ」になる。意味が、分からないのです。

[更に追記]

もうひとつちなみに「不満があるのなら偉くなって社風改革するしかない」というのも良く聞きます。
これまた本質からずれている。

というのも、「商品Aを売るかBを売るか」とか「事業拡大か一極集中か」といった方向性の違いに対し、「こっちの方が正しいのに!」と不満を持っているのではないからです。
元記事の例にあるように、根本的に間違っていることを指摘しているだけ。
いわば「多少の予算を使ってでも早く楽に目的地に着くことを是とする」と方針づけているのに、「一生懸命に走る(電車に乗る、ではなく)」を選んでいる事に対し、「いや皆おかしいと感じてるでしょ」というような話。

偉くならねば変えられない。会社とはそういうもの、というのも頓珍漢な話。
上述のように「社風」の問題ではない上に、会社を形作っているのは自分たち自身なのだから。

この辺の問題は、市民革命とか基本的人権とか、大げさに言えばそういう部分の教育から考える必要があることかな、と思う。

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DIAMOND ONLINEより:「なぜ世間話のできない若手営業マンが増えたか」

2012年09月24日 | 王様の耳はロバの耳
「初訪問なのにいきなり商談」で取引先が激怒!なぜ世間話のできない若手営業マンが増えたか(DIAMOND ONLINE)

[引用]
 取引先と商談などをする際、何の前置きもなくいきなり仕事の話を始められたら失礼…と感じる人は少なくないはず。ところが最近、そんなぶしつけな20代が増えています。

 普通であれば、些細な世間話でもして、具体的な商談の前にお互いの気持ちをほぐす努力をしたいもの。それをしないのは怠慢と言いたいところですが、彼らが世間話をしないのには理由があるようです。実は本当は世間話をしたいと思っていながら、人見知りが激しいために、できずに悩んでいる…のが実情だからです。
[引用終]


荒く要約すると「雑談は大事だ」「しかし、しない若者が増えていてけしからん」「しない理由は苦手だから」。

まず、雑談で得られるものが多々あることは認めます。
無駄と思える経験が、後々から直接的・間接的に役立つなんてことは頻繁にある。
だからそこは否定しません。

…が、今の職場環境ではその「一見すると無駄」を排除することが求められている。

例えば、勤務中の趣味のネット閲覧や、勤務中の読書、勤務中の外出等々が認められているなら、理解できる。
ちょいと立派な文具品の購入や、ちょいと色をつけた出張スケジュールを認めるとかも。
そういったものを「無駄」と切り捨てているのに、「いや客先での雑談は必須だから」と言われても混乱の極みです。

また、リンク先では「飲み会にすら行かない若者が増えている」と嘆いていますが、業務に役立つと認識しているのなら、最低限、残業代と経費支給は必須のはず。(+健康に関する諸手当も)
嘆くべきは「教育体制」が不十分な社内制度と、「教育費」をケチる企業文化であって、啓蒙すべき相手は人事部や経理部だと思う。
若手に飲みの大事さを訴えるよりも、経営陣に訴えて予算を確保する方が、ずっと理にかなってる。

「取引先は雑談を求めている」ことを大前提にしているのも不思議です。
逆に「たらたら喋っていて本題に入らない」と不満を持つ人もいるでしょう。(昨今はそっちの方が多いと思う)
そもそも「若手は雑談を避けている」というのなら、今後はそういった層が主流になっていくのです。

記事中に「上司が30分遅れるので、雑談で場をつないでくれ」という例がありますが、そんなことされたら、私なら激怒ですよ。
私の「常識」だと、遅刻することを詫びた上で、開始時間を30分遅らせてもらうものだと思う。
それと、雑談の例として「平均気温が1℃上がると、御社の製品はどれくらい売り上げに影響するのでしょうか?」とありますが、初対面の営業からこんなこと聞かれたら、「お前は何を聞き出そうとしてるんだ?」と警戒心MAX。
まず、要件を言ってくれ。お互いに忙しいんでしょうから。

ただ冒頭に書いたように「雑談」や「無駄」が大事であることは認めます。
下手な講習会よりも、飲み会の方がずっと学ぶことが多いとも思います。
ですから是非とも会社は、そういった「無駄」に費用を投入して欲しい。「世間話のコツ」とか、そんなのはいらないですから。

【蛇足】

記事中に「職場の同僚とオフォス以外で会っても、何を話していいかわからないので飲みに行きません」との弁が載っています。
仕事の話をすればいいと思う。
なんか私の周りでも「飲みの席でまで仕事の話なんて…」という人もいますが、職場の人と職場の話をしないで、何を話したいんだろう?

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夢の舞台と、せめてそうすれば

2012年07月10日 | 王様の耳はロバの耳
中途半端になった気がするので、昨日の続きで「進捗管理」について思ったことを書いてみる。

進捗の管理は大事です。逆の視点でいえば、自分の進捗を報告することも大事です。
この点に異議のある人はそんなにはいないはず。
会社の新人さんに最初に教育される項目の一つだとも思う。

でも現実に則して考えると、微妙に意味がないように思えます。

話を簡単にするため、単純な事務作業を例に考えてみます。
仮に「月曜から金曜までの間に、5個の棚の整理をする」タスクを、可愛い新人さんに与えたとしましょう。
可愛い新人さんは大変に可愛く頑張りましたが、お気の毒なことに達成できなかったとする。さて、どうなるか。

(1)

「できませんでした。ごめんなさい」

この報告を納期である金曜日にしてきたとしたらどうなるか。
激怒ですよ、激怒。
何故もっと早く言わなかったのかと。

…ここまでは良い。
おそらく誰もが最初に教えられるし、教えることだと思う。
無理なら早めに言えと。

問題は、では早めに言ったら解決するのかという点。

(2)

「できそうにありません。ごめんなさい」

これを月曜日に言ってきたとします。
仕事を言いつけたその日の内に、己の力量と作業量を見切り、早々にアラームをあげました。
潔いです。危機管理の意識が充実してます。

しかし貴方はきっとこう言うでしょう。

「いいからやれよ」「いきなり諦めるな」と。

これは至極もっともです。
どう考えても不可能な作業を与えていたのならともかく、それで給金を得ている以上、一定ライン以上の仕事はしてもらわないと困るのです。
できないからできません。とか、いきなり言ってくるようでは、仕事が成立しませんし成長もありません。

(3)

では火曜や木曜に悲鳴をあげたらOKなのか。

…別にそんなことはないですね。
金曜では手遅れだが、木曜なら間に合うなんて根拠はないし、月曜に諦めるのは根性無しだが火曜なら妥当なんて理屈もありません。
そして何より「任せた仕事は完遂してもらわないと雇ってる意味がない」のです。

理想論を言えば、いざという時の補佐用に常に余剰人員をキープしておいたり、凄まじく余裕のある納期を設定すべきなんでしょう。
ですが、そんなことはできはしない。
というかそんな余裕が持てるのなら、そもそも新人を雇ったりせず、既存の社員で利益分配します。そっちの方がありがたいもの。

(結論)

進捗を管理する意味はない。
「調子はどう?」と聞いて、その結果どんな返事が来ようと、「そうか、仕事は甘くないんだからとにかく頑張れ」以上の答えはできないのだから。
なんだこれ。

無論、例外はある。
「棚を整理した結果、不要書類が出たのだけどどういう手続きで破棄すればよいのか分からない」といった、単純に知らないことが原因で出来ない要素は、報告を受けることで対処できる。
あるいは「棚は5個と聞いていたが、隠し棚があって実際は10個だった」のような、「確かにそれはどうしようもないな!」なケース。
指揮形態が乱れていて、複数のラインから仕事が集中してるような場合も、現状を上に認識させることは意味はある。

ですが、根本の実力不足や、他の要因による遅れ(天候による遅延だとか)は聞いたところでどうしようもない。
いいからやれ。そして根性と誠意を見せるんだ。
結果、納期ぎりぎりにいよいよどうしようもなくなって、他の忙しい人員を無理に引っ張ってきて、夜を徹して緊急作業をする展開になる。
大変にブラックです。しかし単純に考えれば考えるほど、他に手はない。困ったことに。

(結論2)

と、そのような結論が導き出せるのですが。
欠落している要素は、勝利条件をどこに設定するのか?だと思う。

仕事を完遂することを至上命題とすると、確かにどん詰まりになるのだけど、そこを動かせるのなら話は変わります。
客にしろ上司にしろ、仕事を完遂するといった哲学的妄執にとり憑かれているのではなく、要は己の用を足せればよいのです。

例えば「私の実力では金曜までに4棚しかできない」「金曜が納期ということだが、これは月曜朝までに仕上がっていれば良いという意味か?」といった調整は、現実には十分あり得ます。
実際問題として月曜に準備できていればよいのなら、金曜に拘る理由はないのだから。

あるいは「5棚全部を完遂するのは無理だが、4棚を完了することはできる。もしくは5棚全てを進捗率80%に持っていくことはできる。どちらの方がマシか」とか。
これも十分にあり得そうな提案です。

更には「今週は玉砕覚悟で残業するから来週は代休をくれ」でもいいし、「この仕事を放棄した場合のペナルティを教えてくれ」でもいい。

そういった報告なら、管理のしようがあります。
まぁもちろん、「いかなる調整も許されない至上命題である。戦って、死ね」という指示が飛ぶ可能性もあるにはありますが。

(結論3)

ですが(結論2)で書いたことは、進捗を放棄してるとも言えます。
そもそも「納期に間に合わせる」前提が捨て去られてるから。
「進捗管理とは、破綻した進捗を管理するのものである」と言ってしまえばそれまでですが。

またどれだけ上手くやりくりしたとしても、結局は最後は、何らかの形で仕事を成し遂げないといけません。
(当然ですが、「仕事を放棄することによるペナルティを支払う」という形での完了も可。とにかく何でもいいから終わらせないとはいけない)
「上手いこと言いくるめて納期を来週の月曜に延ばしたけど、結局間に合わなかった」「よし、更に上手いこと調整して延ばしてみよう」といったことを繰り返しても、先がありません。
どこかで根性論に頼って、己の身一つで戦う覚悟を決めないといけない瞬間は、どうしてもやってくる。

といったわけで、「納期を達成するために」進捗を管理するマネージャーは、単なる管理ごっこがしたいだけじゃなかろうか。
知ったところでどうしようもないのに、報告受けてもしょうがないじゃないか。

もちろん逆に「納期を達成するために」進捗を報告する作業者も、何かがズレてる。
大丈夫、どれだけ危機的状況を訴えようと、誰も助けになんて来れないから。そんなことに期待して、報告しても虚しいだけだ。

で、ここの発想が噛み合ってないと、指示する側からは「最近の若者はすぐに音を上げる」と不満が出て、指示される側からは「無理難題を押し付けられる」となるんじゃなかろうか。
まず「納期を達成する」という発想を捨てよう。そこは主眼じゃない。

(蛇足)

「進捗率○%です」みたいな報告をしてくる人はいる。
どれほどの意味があるかというと、それはそれで疑問です。
その「○%」の根拠は何だと。

もしも正確に「○%」を弾き出せるのなら、何で報告に来てるのか分かりません。
だって完璧に状況を把握できているのだから、「問題なしです」か「投了します」の二択しかないでしょう。
そして後者は聞いたところで意味がないのです。既に上に書いた理由で。

逆に正確に見積もれていない場合。
「80%だと思っていたら、見込み違いで50%でした。ピンチです」みたいなのは、もはや数字の信頼性が失われているのだから、何の意味も持っていません。
再計算した50%を信じる理由はないのだから、そんな数字を計算する暇があったら、手を動かせと。だって意味のない数字遊びなんだから。

強いて言えば、追加要員や追加の日数を得るための説得材料にはなるかもしれません。
相手が「で、その○%の分母や分子の妥当性はなんだ」と聞いてこないタイプならば。

(もっとも世の中はったりは大事なので、何がしかの辻褄あわせのための数字を出すこと自体には、意味はあるとは思います。
相手は相手で、適当に仕事を切り上げたいので、信頼性はないことは承知で、とりあえず話に乗っかることも、ままありますし。
だからこそ、「正確な意味はないが、とりあえず管理ごっこのために進捗管理してる」感が強まるのですけれど)

(また、こういった「その妥当性はなんだ」という哲学的問いを避けるために、最初に勝利条件を定義するのは大事なのだと思う…けどまた話が長くなりそうなので、やめてみる)

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白紙の未来と予定調和

2012年07月10日 | 王様の耳はロバの耳
ちょっと仕事が一段落したので、仕事中に思ってたことを書いてみる。

よく仕事をしていて「計画を立てて管理すべし」と言われる。
なるほど。
しかし本質的に無意味だと思うし、ただの管理ごっこのように思えます。

というわけで、「夏休みの宿題」を例に考えてみる。
夏休み(便宜上40日とします)に、算数の宿題(120ページあるとする)を計画的にやり遂げるにはどうすればいいか。

(1)
毎年夏休み終了間際にバタバタと修羅場を迎えていたとあるお子さん、今年こそは楽に終わらせようと計画を立ててみた。

「40日で120ページなのだから、毎日コツコツと3ページやろう」。

…論外ですね。確実に破綻します。

「毎日コツコツ」というのは一見堅実ですが、言い換えると一日たりとも休むことができない超リスキー策。
現実には体調の悪い時や、遊びに行きたい日だってあるわけで、「毎日コツコツ」なんて計画を立てた時点で、崩壊は目に見えています。
定時退社を徹底すると、確実に残業する羽目になるのとほぼ同じ理屈。

(2)
そこで多少の余裕をみると、こうなる。

「40日の内、10日は勉強できないだろう。だから30日で120ページとして、毎日4ページやろう」。

…さっきよりはマシですが、やっぱりこれも破綻すると思われます。

「毎日均等に作業する」ことが前提になっていますが、実際にはページによって難易度の差があります。
さくさく進んでいたと思ったら、急に難しくなったりとか。

厄介なことに、実際にやってみるまで難易度はなかなか分からない。
「1ページ当たりの問題数が多い」といった単純なことなら事前調査も可能だけど、やってみて初めて分かることは多いです。

取れる対策は二つ。納期に余裕を持たせるか、一日あたりのノルマを増やして難度が低い内にページを稼ぐか。
この場合前者は採用できないので(夏休みは伸びてくれない!)、前もって一日のペースを上げるしかありません。

(3)

「40日の内、10日は勉強できないだろう。だから30日で120ページとして、毎日4ページやろう」。
「さらに、いつ難易度が上がって進みが遅くなるか分からないから、1ページ余計にやって、毎日5ページは解くようにしよう」

…まだ発想が抜けてます。

この計画を支える大前提は、「宿題は算数が120ページ」。
ですがこれが全てである保証がありません。
問題集を進めていたら、「続きは別の問題集参照」とか酷いことが書いてあるかもしれません。
あるいは「実は理科の自由研究もしなきゃいけなかった」とか。

追加や割り込みで別のタスクが発生したり、当初予期していなかった作業が増えるのはよくあること。
これらを想定していないと、やっぱり計画は破綻します。
とはいえ、計画段階では具体的には予期できないのだから、取れる対処法は限られてます。
納期に余裕を持たせるか、前倒しで作業を進めるか。
前者が不可なんだから後者しかない。

(4)

「40日の内、10日は勉強できないだろう。だから30日で120ページとして、毎日4ページやろう」。
「さらに、いつ難易度が上がって進みが遅くなるか分からないから、1ページ余計にやって、毎日5ページは解くようにしよう」
「万が一、他にも宿題あると困るな。毎日6ページは頑張るか」

…これで120ページ/6ページ=20日で完了する計画が立ちました。夏休み40日の内、半分でいける計算です。

計画を立てたのなら、次は実践です。
そしていざ取りかかろうとして、はたと気づくのです。
そもそも1日に6ページもできるのか?

経験上、6ページくらいなら楽勝だと分かっている場合は問題なし。
次の(5)に進みましょう。
だけどそうではない場合。この計画が現実に達成可能な代物かどうかを判断する必要があります。

それを測るには、やってみるのが一番単純です。
夏休み初日、全力を尽くして問題集に取り組み、何ページできるか確認しましょう。
この時点で4ページとか5ページしかできなかったとしたら、即座に絶望し、助けを求めよう。
ここで「40日で120ページだから、3ページ以上できれば余裕」なんて考えるようじゃ論外なんです。
「やばい、全力出したのに5ページしか進まなかった。これは間に合わない」と考えないと。

(5)

「40日の内、10日は勉強できないだろう。だから30日で120ページとして、毎日4ページやろう」。
「さらに、いつ難易度が上がって進みが遅くなるか分からないから、1ページ余計にやって、毎日5ページは解くようにしよう」
「万が一、他にも宿題あると困るな。毎日6ページは頑張るか」
「初日から全力で取りかかって、実際の進捗具合も確認しよう」

ここまで長々と計画を立ててみました。

…が、肝心なことを忘れてはいけない。
途中の目論見で用いた「余裕を見て1ページ余分にやろう」だのといった計算には、たいした妥当性はありません。
「10日くらいは勉強できない日があるだろうから」とか、もっともらしく考慮してますが、なんで「余裕を見て20日」ではなく「10日」なのかに根拠はないんです。

ではどうするか。
適当な予測がブレても影響を少なくするには、前倒しで作業しておけばいい。
どれくらい前倒せばいいのかを測る方法はないので(だから前倒そうとしているんだ)、「可能な限り」という曖昧な表現になりますが。

(4)までで考えたように「一日6ページ」と計画を立てたのなら、少なくとも6ページは何があろうと成し遂げる必要があります。
きつかろうが、遊びに行きたかろうが、とにかくやるしかない。
これらの要素により「どうしても勉強できない」日があることは織り込み済みの計画ですが、その織り込み方に確証があるわけではないので、安易に妥協したら破綻します。血反吐を吐きながら机に向かいましょう。

(結論)

上記のロジックをまとめると、こういうことになる。

「何があるか分からないので、とにかく最初から全力で最大限の分量を推し進めよう」

もはや計画を立てる意味がありません。
計画を立てようとした結果、「いいからとにかく頑張れ」に陥る不思議。
元々「締め切り間際にバタバタしたくないから」が理由だったことも考えると、もはや何のために計画を立てるのか分かりません。
強いて言えば(4)、「40日で120ページだから、3ページ以上できれば余裕」と考える人に対し、「それじゃ絶対に間に合わない」と説明できるくらい。

上記が奇妙な結論になる理由は単純で、「個々人の作業をどうやるか」の視点で計画を考えているから。
「複数人の作業をまとめた全体視点からの計画」なら、不可思議感は薄れます。
例えば「生徒の学力は、1年間で○○のレベルにしたい」「そのためには夏休みに算数を120ページやらせよう」「夏休み開始前に問題集を配らないといけないから、業者には○日までに発注しないといけない」とか、そういう計画は立てることに意味がありそうです。

現実には、算数の宿題のように個人で机に向かえば進む作業ばかりではない(そうでない方が多い)ですし、「やらなければいけない作業項目は何か」「それぞれにかかる日数を積み上げるとどうなるか」を視覚化する意味はあります。
前もって必要な場所や材料が確保できるタイミングを抑えるとか、発注量や予算の組み立てだとかも。
あるいは「絶対に無理だ」と判断する役には立つ。

でもそれらはいわば消去法で確定していく代物であって、ほとんど考える余地がない。
現実には始めから大枠は決まっていますから、単純な穴埋め作業をするだけ。
計画を立てると言うか、方針や備忘録を作成するといった方が近い。

そして一番厄介でブレうる「個々の作業項目をどう達成するか」については、計画のしようがない。
要は、「発表会場を確保してなかった」みたいな論外を防ぐことはできても、「発表物をいかにして作成するか」に無力なんです。
「夏休みに120ページの宿題をさせる」という計画は立てられても、「実際に120ページをどう達成するか」は個人の根性に任せるしかない。

といったわけで、微妙に茶番のような気がしてならないです。「計画を立てる」という行為には。
(これと併せて進捗管理も茶番だと思うのだけど、長くなるのでやめておく)


(蛇足)

上の例では「納期を延ばせない」想定で書いていますが、実際には延ばせます。
というか、「苦労して宿題やるくらいなら、新学期に怒られた方がマシだ」の選択肢がある。
(仕事の場でも、それほど間違った選択肢ではない)

また「120ページ」という当初の目標も調整できることがある。
例えばスピーチの締め切りのような場合、本当なら100時間かけて準備したかったけど、時間の都合で80時間で体裁を整えた…とか珍しい話ではない。

これらも考慮すると、ますます個人の計画が意味不明なものになります。
真剣に立てようとすると過酷なスケジュールにならざるを得ず、かといって破りたければ破る選択肢もあり、とか管理の面でいえば何の意味が…。

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