穴にハマったアリスたち

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「歌よ響け、この空に」:HUGっと!プリキュア 愛崎えみる研究室問題考察

2020年09月27日 | ハグプリ最終回考察
前回からの続き。

えみるが苦しんでいたのは、特定の誰かからの分かりやすい抑圧ではなく、もっと漠然とした回避しようのない制約だったように思います。

他の劇中人物とも比較してみよう。
未来社会で時間が止まったのは、(ジョージの弁を信じるなら)特定の悪者がいたからではなく、各自がそれぞれ避け得ない挫折に直面したから。
ジュロスの悩み「加齢」は解決不可能(偏見は改善できますが、加齢そのものは無理)、チャラリートの悩みも本人が頑張るしかない。パップルは多少は他者が関わっていますが、「悪」がいたのではない。
ビシンやリストルは故郷を襲った何らかの危機(誰かを憎んではいないことから、イメージ的には環境変化?)が原因で、これも他者からの偏見による抑圧ではない。
トラウムの娘やジョージの「最愛の人」の死も、分かりやすい特定の「悪」が原因ではなさそうです。(ジョージの件は偏見やら抑圧やらも絡んでいそうですが、「社会を憎む」方には振れていません)

ミデンの苦しみも、クローバーの苦悩も、避けられない不運であって、他者の理解不足や古い価値観のせいではない。

これらを見ると、解決可能な偏見や抑圧ではなく、解決不可能な制約への悩みに思えます。

たとえばアンリくんの悩み。
整理すると3点ある。

(1)成長による体の変化。声変わりなど
(2)足の故障
(3)交通事故による足の麻痺

選手を諦めた直接の原因は(3)ですが、元々は「(1)により時間の猶予がなくなったこと」で、「そのせいで休養期間をおけず、(2)なのに無理して最後の大会に出ようとした」。

(1)は性同一性障害とかそういった話ではないでしょう。声変わりに言及したシーンでは「何でもできると思っていた」と振り返っています。なんでもできると思っていたのに、現実には「成長」という避けられない制約が存在した。そのことへの悩みと思われます。「嫌でも大人にならざるを得ない」とか「ある仕事についたら、別の仕事につく未来は消える」とかと同一の悩みです。
これは偏見や抑圧の問題ではなく、解消は不可能。だからプリキュア化して叶った夢は「足が治る」ではなく、「せめて最後をちゃんと終わりたい」という儚くも素敵な夢だった。

(強いていえば(1)は彼自身が作り出した制約です。声変わりしたり骨格が変わってもスケートはできる。「それは若宮アンリではない」と決めつけたのは彼ですから、もし(3)がなければ「制約を受け入れて、演技の方向性を大きく変えた」未来があったのかもしれない)

(アンリくんは「みんなの求めている若宮アンリにはなれない」と拒絶していましたが、最後には「みんなが望む若宮アンリ」を見せています。「スケートが好きだったのは、みんなの笑顔が見たかったから」とも。あえて極言すると、アンリくんは抑圧に抵抗するというより、大衆に迎合する決着をしています。もちろん「自分の夢と周囲の夢が幸せな一致をした」からの結果ですから、「迎合」という表現はおかしいですが)

えみるも同様で、避けられない制約が問題に思えます。「抑圧された(「女の子がギターなんて」)からシャウトしたかった」のではなく「シャウトしようとしたら抑圧された」のですから、まず何か「シャウト」したかったきっかけがある。

彼女はどちらかといえば、自由過ぎて何をしてよいのか分からなくなっていたのではなかろうか。
ここでいう「自由」とは、「多様性の尊重」とかも含みます。良いか悪いかは別として、「勝ち組」「負け組」がはっきりしていた方が、やるべきことは明白です。
「なんでもなれる」と言われてしまうと、「なんになればいいんだ?」と迷ってしまう。判断基準は全くなし。

理想を言えば「自分がやりたいことをやればよい」のですが、自分がやりたいことを具体化できる人の方が少数派でしょう。小学生なら尚更です。
純朴な思い付きで「〇〇屋さんになりたい」と口にできる年齢を過ぎ、かといって具体的な進路を考えられるほどの材料もない。
身近な年長者はことごとく特徴的で参考にもならず。多様性を尊重すると、分かりやすいアドバイスも受けられない。
これは現実の視聴者の姿も反映しているように思えます(現役幼児から見た少しお姉さんの立ち位置でも、20歳(初代を5歳ごろに見ていた人が20歳)の手前くらいの人の立ち位置でも)。

めちゃくちゃな喩えを使うなら、野原に連れていかれて「さあ好きなことをしなさい」と言われても途方に暮れる感じ。
「虫が好き」「花が好き」とか具体的に趣味があればそれをやればよいけれど、まっさらな状態では困ってしまう。
そしてそんなときの「正解」の一つは、「とりあえず、がむしゃらにその辺を走り回る」じゃなかろうか。目的は後から見つければいい。まずは走る。そうすればその内、何かは見つかるはず。「走るのは自分の好みじゃないな」とかそういうのも含めて。

えみるの言う「ギターは自由なのです」「ギュイーンとソウルがシャウトするのです!」は正にこの状態に思えます。何をしたいのかよく分からないが、とりあえずシャウトするんだ。そしてシャウトすることそのものが好きになり、目的を見出したのでは。

そう思うと、ツインラブへの評価「アイドルなのかロックなのか中途半端」(33話)も分かります。
えみるがやっていたのはロックではなく、迸る彼女の「自由」な疾走です。故に特定のジャンル名は付かない。
分類しようとしたら中途半端になるのは必然だ。そして中途半端を恐れずに、自分と未来を信じる。

彼女たちの代表曲「LOVE&LOVE」からもうかがえます。
「抑圧への抵抗」という観点でもおかしくはないのだけど、力点は「自由に走る」ことにある。
誰かのせいにしてそれと戦うのではない。自分の大好きや夢を叫ぶ。

ルールーと惹かれあったのも分かる気がします。
友情に理屈を持ち込むのも野暮ですが、ルールーもまた「何をやりたいのか分からない」娘ですから、二人は似たもの同士です。
それもあったからこそ、ルールーが「やりたいことを見つけたから」と未来に帰る決意をしたとき、悲しみながらも受け止めたのでは。

【輝ける未来】

以上を念頭に2043年の戦いを考えてみる。

それぞれの理由で悩み、時間停止に陥っている人々を、トゥモローさんは救おうと奮闘なされた。
描写がないのでどうやって救おうとしたのか分かりませんが、「明日には意味がある」「目標を持とう」のような方向で試みたように思えます。野乃さんからの継承とか、40周年の肩書とか、色々と大義を抱えている子なので。
ですがそれでは何をやっていいのか分からない人たちは救えない。多様性を重んじていると、意味や目標も見出しづらい。「全部正しい」と言われたら、何をやって良いのか分からない。
私は勝手に2043年のテーマを「親離れ・子離れ」と予想しているのですけど、その観点でいえば「子育てという強い目標が一旦終わり、目標を見失った」ような状況です。

ここを突かれて中盤以降に敗北。そしてそれを我らがえみるが救援するような展開とかどうかしら。

[イメージ]
「明日には意味がある」と訴えるトゥモローさん。それを嘲笑う敵幹部。どんなに叫んだところで、みんな目的なんて見つけられないんだ。
そんなことないと否定するも、振り返れば倒れこんでいる人々ばかり。廃墟と化した街中で、「今」に意味を見いだせずフリーズしていく。
何をやればいいのか。何が正しいのか。「全てが正しい」多様性の中では、それを具体的に指し示すのは困難だ。なんでもできるが故に、なにもできなくなっていく。

そこに突如差し込むスポットライト。そして響き渡る歌声。
仰ぎ見れば、25年ぶりに再会した えみる(37歳)とルールーの歌う姿が。

その歌に何の意義があるのかはさっぱり分からない。
分からないが、倒れこんでいた人たちの胸に何かが宿る。
遠い昔に聴いたあの歌。ああそういえば、昔ここでナイトプールとかやったんだっけ。

「…楽しかったよな」
「ああ。またやりたいな」

あの町内イベントに、ご立派な意義なんてなかった。でも楽しかったじゃないか。
目的なんて後からこじつければいい。
かつて時間停止を破ったあの歌声に導かれ、人々がまた立ち上がる。
[イメージ終]


(「HUGっと!プリキュア」24話より)

「2018年当時、御大層な意味のなかったナイトプールが、時を経て大きな意味を持つ」というのは、「HUG」のテーマとも、(勝手に予想している)2043年シリーズのテーマとも噛み合うんじゃなかろうか。
極めて漠然とした、なんだかよく分からないけどとりあえず楽しいことを、とりあえずやってみる。そうすれば目指したい方向や、やりたいこと、何らかの目的も見えてくる。見えてくれば、更にそれを元に楽しいことができるはず。
「目標を定めてそこを目指す」と「とりあえずやってみてから目標を探す」の両輪は大事です。
私としては、えみるさんがギュイーンとシャウトしたソウルを、そのように受け止めてみます。

参考:
●HUGっと!プリキュア 愛崎えみる研究室問題考察(一覧)
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「愛崎えみるの家庭事情」:HUGっと!プリキュア 愛崎えみる研究室問題考察

2020年09月20日 | ハグプリ最終回考察
プリキュアシリーズ全体を見渡しても、かなり注目された愛崎家について考えてみる。


(「HUGっと!プリキュア」41話より)

人物の内面に言及する考察は、個人的には苦手で不得手です。「ホラー映画が好きな人は、殺人衝動がある」みたいな考察は不毛で下衆だと思うので。
ただ、愛崎家の件は少し気になるので整理してみた。できる範囲で気を付けはしましたが、私の主観や価値観がかなり入っているので、不快に思われたらすみません。あと、描写が各話に分散しているので見返せていません。記憶違いがあったらごめんなさい。

【祖父】

愛崎家のおじいさまは、固定観念に染まった人物のように受け止められているかと思う。ですが実際には違うように見えます。

第一に愛崎父母への対応です。頭の固い圧政者だったら、子夫婦の「狼藉」を許さないです。
俳呑(ハイドン)と都のどちらが実子か分かりませんが、ハイドンだとしたら命名の時点で突き抜けています(芸名や改名だとしても、それを許している)。
都だとしたらハイドンとの結婚を許しています。古い価値観に染まっているなら「婿養子にあの男を迎えるのか」がかなり疑問。(そもそも「結婚を許す」「婿養子」の発想が古いです)

自宅の改装をはじめ、一連から見えるのは「自分の価値観に全く合わなくても、子がやることを全否定はしない」人物像です。

えみるのギターに反対しているのも、劇中人物の視点では当然です。
たとえばライブイベントへの出演(41話)。祖父から見れば、小学生の孫がなぜか中学生とつるんで、何者かも分からない成人男性や、新興事務所の人とイベントに行くわけです。しかもライブ出演を知った経緯は、関係が険悪なクライアス社からの情報です。脅迫や犯罪すら警戒しそう。
挙句には謎の体調不良で声まで出なくなっています。この条件下では止めない方が異常だ。

なので祖父を頑迷な人物かのように評するのは、ちょっと申し訳ない。

【父母】

貴族を連想する服装や家、なぜか歌うように会話する。かなりエキセントリックで、家庭崩壊すらしているように見えます。ですがこれも、やや違うように思う。

前述したライブの際、父母はちゃんと「娘がライブに出演する」ことを知っていました。
えみるが話したのかもしれない。常識的に考えて、出演条件に「保護者の承諾」もいりそうです。
ただ何にせよ、彼らはちゃんと娘の行動を把握しています。(プリキュアの件は知りませんが、それは仕方ない)

先ほどは「なぜか中学生とつるんで」等書きましたが、おそらく父母は裏をとったと思われます。
幸か不幸か、同行者は名の知れた女優やフィギュア選手。素性はすぐに分かるし息子の同級生です。ハリーやパップルのことも調べれば評判は分かるでしょう。彼らとの接点も「娘(えみる)の友人(ことり)の姉(はな)つながり」なので、納得できなくはない。

これらの背景を踏まえると、ハイドンらはちゃんと「まとも」に思えます。
彼らの趣味が変わっているからといって、家庭崩壊や育児放棄を連想するのは、それこそが偏見でしょう。

【兄(1)】

リトル祖父として「古い価値観」の持ち主のようにも言われましたが、ちょっと擁護したい。
まず19話でのアンリ君の制服の注意。本来、論点がふたつある。

①なぜ、決められた服を着なければいけないのか。
②なぜ、男が女の服を着てはいけないのか。

19話での発端は①です。ルールに反していることに対しての「女の子のような恰好」なのですから、ここでいう「男は男らしく」は「男たるもの女々しい格好をするな」のような話ではなく、「男子用がこれだから」です。

別の例でいうと「学年ごとにワッペンの色が違う」とかと同じ。
サンクルミエール学園では、1年生は黄色、3年生は緑です。もし1年生が緑をつけていたら、「1年生は1年生らしく黄色をつけなさい」「3年生みたい。おかしいよね」と言われるはず。これは「1年生は目下として分をわきまえ黄色にせよ」ではなく、単なる区分けとして黄色が割当たっているからです。

これに偏見や価値観(1年生は目下だから黄色…?)を持ち込むのは、持ち込むその人こそが偏見の持ち主に思えます。
実際、アンリ君は結構固定観念に縛られており、クライアスからスカウトも受けています。「さそわれるならプリキュアだと思っていた」(33話)のに、実のところクライアス寄りだったのです。

野乃さんも「アンリくんはいつも否定から入る」と評しています。「だけどきちんと向き合えば気持ちを抱きしめてくれる」と続きますが、初めから全てを許容するキャラクターではありません。
この制服の一件も含め、「正人=固定観念、アンリ=自由」のような単純な構図ではないと思う。(だからこそ、吹っ切った際にプリキュアになるという最大級の演出がされている。なお性同一性障害のような話でもないし、「男がプリキュアになった!」の視点でみるのも違う)

19話ではその後に「女の子がヒーローはおかしい」「男なのにドレスを着ている」と続きます。
が、どちらも売り言葉に買い言葉の側面が強い。前者は「女ならヒロインだろ?」という(主婦じゃなくて主夫だろと類似の)揚げ足とりが発端にも思えるし、彼から見れば えみるは小学生の妹ですから「守られる側」と感じるのは必然です。えみるが弟だったとしても同じことを言いそうだ。

後者はこれまでの経緯があっての話でしょう。その後アンリ君自身も「お姫様ポジション」という表現を使い、それを受けた野乃さんも「お姫様=守られるもの」という前提の返しをしています。正人ばかりを固定観念の持ち主として扱うのはやっぱり申し訳ない。
(ついにでいえばこの「アンリ君」「野乃さん」という呼称もジェンダー問題の観点では引っかかる)

尤も、あえて「お姫様」の表現を使ったのは、「ヒーロー」に対するフォローだったのかもしれません。

・「ヒーローはおかしい」とは「女性を指す場合にはヒロインだ」ではなく、「ヒーロー=守るもの」「ヒロイン=守られるもの」を前提とした「女の子は守られるものだからおかしい」の意だ
・「お姫様ポジションはおかしい」とは「男性を指す場合には王子様だ」ではなく、「王子=守るもの」「姫=守られるもの」を前提とした「男は守るものだからおかしい」の意だ

かなり苦しい気もしますが、制作意図としては「ヒーロー」の言葉を使いたかったんだろうと思います。後述しますが一連のやりとりはジェンダー問題というより、プリキュアコンテンツの成立背景を下敷きにしているようにも見えますので。

【兄(2)】

えみるに対する「女の子がギターなんて」(15話)も話題になりました。
これも表面的にはジェンダー問題に見えますが、もっとややこしい話だと思います。

まずこの発言は
・「女(の子)がギターはおかしい」
・「(女の)子がギターはおかしい」
どちらでしょうか。

えみるはジャンル分けするならロックに片足を突っ込んでいるようですから、「子供がロックなんて」はそれほど違和感がないです。
もちろん子供がロックをやってもいい。いいのですが、ロックって音楽の種類であると同時に生き様とかも指すのでは?音楽と全く関係ない分野でも「ロックな生き方だ」等は言われます。

ではロック(な生き方)とは何かといえば、とりあえずは品行方正なロックはいまいちピンときません。ということは子供のえみるにさせたがらないのは、抑圧や束縛云々ではなく普通では。
(制作サイドもこれを警戒したのか、えみる自身は「ロックがやりたい」ではなく「ギターをやりたい」と表現している)

こう感じてしまうのは、「女がギターはおかしい」の概念が、そもそもないからだと思います。直前のシリーズの立神あおいさんや、スイートの黒川さんのように、ギター弾いてる子は普通にいる。同業他番組でも、アイドルやらバンドやらは珍しくない。「女がギターなんて」と言われても「差別だ」の前に「なんで?」が先に立ちます。
たとえるなら「素足でギターをやるなんておかしい」と言われたら、「差別」ではなく「何かそういうお約束の作法とか背景があるんだろうか?」「あ、活発に動くから怪我しやすいとか?」と混乱するはず。

おそらくこの「女の子なんて」の背景には、元祖の「女の子だって暴れたい」があるんだと思います。
「女だって暴れたい」でも「子供だって暴れたい」でもない。「女の子だって暴れたい」。
「女」でも「子」でもない、「女の子」特有の「男の子は手がかかる。女の子は暴れない」のような偏見を射抜いた、ピンポイントな素晴らしいフレーズです。これが正に刺さったからこそ、今のプリキュアシリーズがある。

ただ見事に刺さったフレーズだっただけに、15年後に別のジャンルに適用すると、色々とずれが出てしまったんだと思う。
何せ「ギター」「ロック」と具体化されてしまうと、やっぱり「現実的には子供には厳しいよな…」(女の子だからではなく、男の子でも)と悩んでしまう。
「女の子だって暴れたい」を「女の子だって真剣を使った本格武道をやりたい」と言われたら、その気持ちは悪ではないけど男女を問わず難しいよな、と思う感じというか。

野乃さんの反発もジェンダー問題の観点ではなく、もっと広い意味だったんじゃなかろうか。
先ほどから「子供がロックをやるのはどうなんだろう」の観点で書いていますが、それでも子がやりたいのなら環境を整えるのも親の務めです。実際、ハイドンらは見守っています。
「暴れる」のだって男女を問わず危険といえば危険ですから、止めるのが正ともいえる。そこで「危険だから」と引き止めず、安全対策をして後押ししようよという話に思えます。

【えみる】

さて、えみる本人です。
「ギターが好き」な理由として、彼女は「ギュイーンとソウルがシャウトするのです!」とおっしゃっている。では何をシャウトしたかったんだろう?
「ギターを禁止された抑圧への抵抗」ではない。「抑圧されたからギター」ではなく、「何かをシャウトしようとしてギターを選んだら、禁止された」の順番です。
では一体何をシャウトとしたかったのか?

おそらくですが「特には何もない」のだと思います。
下敷きとなったのが「女の子だって暴れたい」だとしたら、女の子が暴れたいのは抑圧やら親への反発やらではなく、元気がありあまってるからです。
えみるも同様で、鬱屈した想いがあってギターに行き着いたのではなく、たまたま手に取ったのがギターだったんでしょう。「ギターが好き=抑圧されていたに違いない」は、それこそ偏見です。

それを踏まえた上でですが、えみるは抑圧されたというより、むしろ自由すぎたので自分を見失ったように見えます。

ハイドンらは自分達の趣味が世間とずれているのは自覚しており、子供には極力「普通」の教育を意識したんじゃなかろうか。もし彼らが自分らの価値観をそのまま伝えたり、あるいは逆にネグレクトしていたら、えみるはお姫様のような趣味嗜好に育つ気がします。親や住居がそうなんだから、素直に育てばそうなる。

しかし実際にはそうなっていません。ハイドンたちは「バランスのよい」教育をしたのでしょう。
ですが子供にとっては、これはこれで結構きつい。親とのギャップが明白で、だけどそれは悪いことではなくて。あまりに自由で多様だと、判断力や知識に限界のある子供の身では、何をして良いか分からなくなります。
(これは現実の子育てや職場でも直面する問題。何も分からぬ相手を一方的に色に染めるのはまずいが、かといって多様性を意識しすぎるとフリーズしてしまう)

えみるは、あれこれと未来を思い悩み、他人の手助けに奔走しています。ある意味、自分のやりたいことではなく、他者のやりたいことに依存しているとも。
彼女のシャウトは「やりたいことがあるのに抑圧されてできない」のではなく、「やりたいことが分からない」ことへの叫びだったんじゃないかな。
言い替えると、差別や偏見のような解決を目指せるタイプの制約ではなく、成長や多様性のような不可避の制約です。
以下、書きたいことが諸々あるのですが、長くなったので記事を分けます。

参考:
●HUGっと!プリキュア 愛崎えみる研究室問題考察(一覧)
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「停止した時の果て」:HUGっと!プリキュア 愛崎えみる研究室問題考察

2020年09月13日 | ハグプリ最終回考察
劇中で何度も語られる「時間が止まる」。そもそもこれは何を引き起こすのかを考えてみる。

【世界の終わり方】

仮に今この瞬間に時間が止まり、1億年後(※)に再開したとしても私たちはそれに気づけません。
時間が止まると意識も止まるので、その間のことを認識できず、どれだけ長大な時間が流れようと無関係。
これと似たことは、全身麻酔や卒倒や熟睡、あるいは何かに極度に集中している時などにも起きますが、それの比ではない強烈な停止です。

※時間が止まっているので「1億年」といった概念は成立しないのですが、イメージとして以下多用します。

そのため、実のところ野乃さんの戦いは意味がなかったとも言えます。

ジョージ:「さあ時間を止めよう」
野乃さん:「させない!」


(「HUGっと!プリキュア」48話より)

と突撃した後、実は時間停止が発動、それから1兆年ほど経過してから何らかの理由で再開していたのだとしても、野乃さんにはそれを認識できません。
止まる前と完全に連続した意識で突撃を続けてジョージを殴り倒し、「やった!防げた!」と誤解してしまいます。

では時間停止は解けるんでしょうか。量子論的には確率がゼロにならない以上は、必ずいつかは起きるでしょう。
それならばどれだけ時間停止していても、1京年や1垓年が経過しても、止まっている本人には一瞬ですから上記の状況が起きてしまいます。

ジョージの視点でも同様です。
彼の時間停止は「自分も止まる」のか「自分は動ける」のか定かではありませんが、「自分も止まる」の場合、「さあ時間を止めよう」⇒実際に時間停止⇒1穣年後に時間再開⇒「おや、止まらないぞ」となり、野乃さんに殴り倒される。

「自分は動ける」の場合、停止した野乃さんをしみじみと眺めること1溝年、何らかの事情でいつかは再開する(技術的限界か他者の介入か気まぐれかは分かりませんが)日が来るでしょう。
「させない!」と突撃して停止した野乃さん(しかし停止に気づかない)の時間が再開したところに、いきなりジョージが「やっぱりやめたよ」と言い出し、目を白黒させる彼女を置いてどこかに去る。

どのようなケースでも、野乃さんの立場でもジョージの立場でも、微妙に何かがすっきりしません。時間を止めるという発想そのものが狂気の末の行為なので、もはや常人に理解できる範囲を超えています。
「実は時間停止は成功していた」の可能性もかなりある気がする。

【轟音ではなくすすり泣きと共に】

この問題はハグプリ世界というより、私たちの人生に関わります。
「意識が機能しない状態」の典型にして究極の例は「死」です。

「死んだらどうなるか」は分かりませんが、「あの世に行く」「生まれ変わる」等々と並び「無になる」は割と主流の考えだと思う。
無になってしまえば時間も何もありませんから、死んでからの時間経過は全く関係なくなります。

ここで少し話がずれますが、「沼男」問題を考えてみたい。(参考:wiki
もしも自分と全く同じ存在が出現したとして、私たちの意識はどうなるのか。
「それは別人だ」「他人からは違いを区別できないが、主観として別人だ」等々議論はあるにしても、ここでは「意識が連続し、主観としても同一性が保たれる」としてみます。
絶望的なまでに長大な時間があればいつかは起きる可能性があるので。

例えば、机に放置された水がいきなり沸騰し、直後にいきなり凍結することも(外部からの熱供給が一切ないとしても)確率としてはあり得ます。
それが日常的に起きないのは、あくまで「確率が桁外れに極度に低いから」に過ぎず、圧倒的な時間があるなら、いつかは起きます。まぁ「水」の場合、水が水として存在できる有限時間内では到底起きない極低確率なので「起きない」と言うべきでしょうけれど。

現代物理によれば1垓年後には銀河がブラックホールに飲み込まれ、1正年後には漂流していた天体を構成する素粒子も消滅。10の100乗年後にはブラックホールも蒸発し、「世界」は終焉を迎えます。が、終焉といっても「世界」はそこにあり続けますから、「その後」(※)は存在します。
「その後」に起きるのが、宇宙の再創造なのかループなのか別宇宙との統合なのか、あるいはそれらは起きないのかは分かりませんが、とにかく何かが起きるはずです。10の100乗の100乗の100乗とかの果ての果てには。
※粒子が消滅しているのに、「時間」の概念が成立するのかは別として。

幾度とない宇宙の再創造だか別宇宙との統合だかの永劫の先には、いつかは「沼男」を満たす状況も出現するでしょう。確率がゼロにはならない以上は、いつかは起きてしまう。
そして10の100乗の100乗の100乗の100乗の100乗、宇宙が誕生してブラックホールが消滅するまでの期間を数え切れないほど繰り返す絶望の時の長さも、死んで意識がなければ一瞬です。
つまりは「死んだ」と思った次の瞬間には、別の人生を歩んでいる可能性がある。その間に横たわる無限を超えるほどの時間経過を認識できずに。

直感的な可能性としては、「別の人生」のようなまとまった安定した形よりも、「一瞬だけ意識が接続されるような何か」が起きる確率の方が高そうに思えます。
したがって「死んだ」の後には、「なんだか分からないが一瞬だけ意識が繋がる状態」が飛び飛びで出現し(一つ一つは1那由多年とかの間隔があっても、当事者は気づかない)、自己を保てるかも定かではないノイズのような状態を経過して、安定した意識に繋がる…ように思えます。
なお、過去の記憶を保持している必要はない。1年前や1日前、それどころか今のこの一瞬一瞬ですら、私たちは次々と忘却を繰り返しているのに、1年前や1日前と同じ自分だと認識できますから、この長大な「生まれ変わり」の過程で記憶を欠落しても、「沼男」のように「全く同じ」世界が出現しなくても、自己の同一性は保てるはずです。

【シュレディンガーのえみる】

もう一つ別の観点で考えてみる。

「シュレディンガーの猫」という有名な思考実験があります。猫を箱に閉じ込めて、毒ガスがでるかどうかのルーレットをする狂った実験です。(参考:wiki
箱の外にいる観測者には、箱を開けるまで猫が死んだかどうか分からない。だから箱を開けるまでは、「死んだ猫」と「生きてる猫」が重ね合わせの状態で存在するとか何とか。(こんな変な解釈をしなくてもこの実験は説明できるそうですが)

この奇妙な現象を説明する考え方の一つとして、「死んだ猫」と「生きてる猫」の二つに分けるのではなく、「死んだ猫を自分が観測した世界」と「生きてる猫を自分が観測した世界」のどちらに自分がいるのかを確認しただけだ、というのがあります。
箱を開けた途端に「死んだ猫」の世界が作られるとか、開ける前は世界が分岐していたとかそんなのではなく、開ける前から結果は決まっていて、ただ単に自分がどんな世界にいたかを確認するだけ。

SF的にいうなら「死んだ猫」世界と「生きてる猫」世界のパラレルワールドがあり、自分はそのどちらかにいる。箱を開けたことで、「死んだ猫」世界にいたんだと知る。
箱を開けたので「死んだ猫」世界に移動したのではなく、最初から「死んだ猫」世界にいたのだけど、今までそれを確認する手段がなかっただけ。
(但しここでいう「パラレルワールド」は情報のやり取りができない正真正銘の「異世界」であり、行き来が可能なSF的な「パラレルワールド」とは違います。情報のやり取りができないことが定義の一部なので、フィクションであってもここはクリアできない)

ここまでは良いとして、そこから派生する「量子自殺」と呼ばれる実験が厄介です。(参考:「不自然な宇宙 宇宙はひとつだけなのか?」
毒が出るかどうか分からない謎箱ではなく、弾が出るかどうか分からない謎拳銃を作り、それを自分の頭に当てる。そして撃つ。ばーん。これでランダムに観測者が死亡する状況が作れる。猫に飽き足らず、自分まで殺しだした。物理学者、怖い。
そしてこれをやられると非常に困ったことになる。

先ほどの猫と同様に、「弾が出ず、自分が生き延びる世界」と「弾が出て自分が死んだ世界」のどちらかの世界にいたことを確認するはずですが、「死んだ世界」は確認できません。観測者たる自分が死んでしまっているので。
そのため、この実験をやってる当事者の視点では必ず「弾が出なかった世界」に行き着いてしまいます。「弾が出た世界」にいた自分は死ぬので、観測できない。
横で見ている第三者の視点では、ランダムに弾が出たりでなかったりするのですが、当事者の視点ではなぜか毎回確率に勝利し、生き延びてしまいます。

この状況は謎拳銃に限らず、普通の病死や老衰でも起きえるように思えます。
「ガンで死んだ自分を観測した世界」と「奇跡的にガンが治った自分を観測した世界」でいえば、前者は死んでしまうので観測できず。必ず後者に行き着く。ということは主観的には死ねないんじゃなかろうか。
確率がゼロにならない限り、超低確率でも生き延びる世界が観測され続ける(というか死んだ世界は観測できない)ので、主観では常に「奇跡が起きて助かった」が続いてしまいかねません。

ただし「助かった」といっても、上記は「意識があれば成立する」ので、それこそ死んだ方がマシに思えるような悲惨な状況で意識が保たれ続ける恐れもあります。
これが適用されるのは「自分自身」だけですから、周囲の人たちは確率にしたがって普通に死んでいきます。そしてそれぞれ分岐世界で、各自自分だけは驚異的な低確率を潜り抜け、なぜか孤独に生存し続けてしまう。
パラレルワールドを現実世界で想定すると、何かとてもろくでもない世界観になりかねない。


これらが合っているかどうかは分かりませんが、もし正しいならいずれにせよ「死ぬ前に何を考えていたか」はその後に進む未来に影響を与えそう(「死んだら火炎地獄行きだ」と信じていたなら「灼熱の状態」に親和性があり、そこに連続しそうに思える)なので、精々明るく前向きに生きたいです。
プリキュアさんのせいで「時間」を考え「宇宙」に興味が沸き、「生命」に話が進んでる気がする。「スタプリ」「ヒープリ」に綺麗に誘導されてるような。

参考:
●HUGっと!プリキュア 愛崎えみる研究室問題考察(一覧)
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「春野はるかの未来への道」:HUGっと!プリキュア 愛崎えみる研究室問題考察

2020年09月06日 | ハグプリ最終回考察
前回のブンビーさんの記事で触れたように、劇中時間がいつなのかが非常に厄介なのでまとめてみる。

【ピカピカの新入生】

36話にて、何故か「魔法つかい」「アラモード」組は大人の姿で現れます。
私の妄想では「彼女たちは2033年から来ていたからだ」と思い込んでいますが、普通に考えてそんな設定を意図しての演出ではないでしょう。おそらくは「それぞれ最終話で大人になっているので、子供が混乱をきたさないため」と思われます。かえって混乱する気もしますが。

同じことはゴープリ組にも言えるのですが、彼女たちはおそらく現役です。
根拠は下記。


(「HUGっと!プリキュア」36話より)

(1) 制服を着用している。
(2) ドレスアップキーを持っている。

制服については「ノーブル学園には同窓会時には制服を着用する」といった謎伝統があり、たまたま余興で着ていただけ、という可能性もなくはない。なんかあの学園、そういうのありそうだし。

キーについても「返却した後、キーを再び手にするエピソードがある。描かれていないだけ」の可能性がある。もしくは「キーなしで技を撃てるようになった」とか「あれは実はミーティアハミングではない(映画で技名を叫んでいるのはただの悪ノリ)」とかもありえる。
なので絶対の断言はできないのですが…。

「ゴープリ」は何故かこの問題を割と注意深く扱っている節があります。
たとえば秋映画でのナイトパンプキン戦は、本編の決戦後の物語です。なのでキーを持っていない。
察するにフルCGでキーを使った戦闘を組み込むのが難しく、「キーを使わない」(結果的に弱体化している)ことに理由付けしたのかなと思う。
(ゴープリは色々と裏事情が公開されているので、私が知らないだけで他の理由があるかもしれませんが)

その後を描いた、小説「レフィの冒険」でも同様にパフュームやキー抜きで戦線に出向いています。
そこまで気を遣って描写されているのだから、先ほどの(1)(2)の状況証拠も踏まえると、「はるはるらは現役」と考えてよいと思う。

※なお36話37話は、オールスターズメモリーズよりも(少なくとも野乃さんらの主観では)前。36話では、他のプリキュアの存在を確信していないので。

【踊る先輩】

ここから微妙にキナ臭い問題が派生します。桃園さんです。

小説版「フレッシュプリキュア」によれば、桃園さんらもラビリンスとの決戦後に変身玩具一式を返却しています。再び手にしたのは1年後の中3の冬。
ところが「春のカーニバル」にて「せつなはラビリンスに帰っている」という会話が出てきます。ということは「春カニ」時点の桃園さんらは、素直に考えるなら中学3年生以上です。

はるはる達は「春カニ」時点では、まだディスダーク戦の序盤と推察されます。トワ様がいないのは「たまたま不在だっただけ」の可能性がありますが、「はるはるが歌に緊張している」描写がある。学習能力の高さがキャラ特性にもテーマにも関わっている娘さんですから、「歌が未熟」ならばまだ序盤でしょう。

これらから「フレプリ本編はゴープリより少なくとも1年前の出来事」と推察されます。
どうでもよさそうでいて、地味に重い。

他のシリーズと比べてみる。
桃園さんは「DX1」で明らかに「ダンスが未熟」として描かれていたので、「DX1」時点ではまだラビリンス戦の途中でしょう。
この時点で「MH」「SS」「GoGo」の3組は、出てくるのが復活怪人かつ謎生物たちとお別れしていたかのような描写があるので、素直に考えれば決戦後です。
ただプリキュア世界の四季は狂っているので(夢原さんの四季2回問題)、「本編終了後」というのが1年前なのか1週間前なのかは不明。本編終了前の可能性すらある。
(なお「四季と太陽の位置は無視する」前提だと、「DX1」の夕方にパッション復活イベントがあり、同日その後すぐに「DX2」「DX3」「NS1」冒頭が行われた…とかいう地獄の過密スケジュールも多分ありえる。いやあちこち矛盾しそうだけど(矛盾してくれないと桃園さんが壊れる…))

また「春カニ」では「ハピネス」チームに対し「幻影帝国を倒した」とアナウンスもされていますが、これも同様にいつなのかは不明瞭です。「ミラージュは倒したがレッドとの決着がついていない時期」の可能性もあるにはある。

「フレプリ」と同じく、小説版「スマイルプリキュア」「スイートプリキュア」にも「中学3年生になってから久しぶりに変身した」描写があります。ただ「フレプリ」と違い「決戦後に変身不能になった」描写がないため、「中学2年生で『春カニ』⇒中学3年生の小説版」でもおかしくはない。

そういったわけで、いまいち時系列が確定しない他シリーズに対し、「フレプリの後にゴープリ」の確度の高さが飛び抜けています。

【同級生は誰なのか】

ここから「ではゴープリの劇中時間は何年なのか」の問題に派生します。

素直に考えるならハグプリと同じ2018年です。が、「36話ではハグプリかゴープリのどちらかが時間移動していた」とするなら(この件に限らず、36話は時間が色々とおかしい)、「フレプリ2018年」「ゴープリ2033年」でも矛盾は引き起こさない。あくまで制約は「フレプリの後にゴープリ」だけですので、間が10年以上開いていてもおかしくはない。
「春カニ」や36話の桃園さんは、実は28歳なんです。ただの驚異的な若作り。どこかのカットで制服を着用なされていた気もしますが、そういう趣味なんです。

もしそうなら「えみるが未来不変に気づきやすくなる」「2033年のオールスターズに、15周年の面々を出しやすくなる」等のメリットがあります。

特に前者は強烈です。仮にゴープリが2033年の出来事だったとすると、2018年現在、はるはるは産まれていません。
何らかのきっかけで、えみるがこのことに気づいたなら、凄まじい衝撃を受けるはず。

人間的な主観として「産まれると予見された赤ん坊が、本当に産まれた」なら、未来不変をかなり確信できます。
例えば「地震が起きる」と予言され、実際に地震が起きたとしても、何となく「現象が変わらなかっただけで、未来は変えられる(地震に備えられたとか)」気もします。しかし赤ん坊が確かに産まれたとなると、運命的な制約を感じるのでは。
当時産まれていなかった春野はるかが後に誕生し、そしてプリンセスに憧れてノーブル学園を目指し、プリキュアになったなら「未来は不変」が自然に思えます。
「実例」が見つかってしまったなら、2030年に産まれた「はぐたん」が、後にキュアトゥモローになるのも確信できてしまいます。産まれていなかった春野はるかが、現に本当に産まれて、そのまんまプリキュアになったんだから。事情は全く同じだ。

都合の良いことに、えみるには「ゴープリ組はまだ産まれていない」を知る手段があります。天ノ川さんがいないことに気づけばよい。
「有名モデル」を名乗っていたのに、どの媒体にも彼女の名前がない。ただのホラ吹きでなければ、何かが引っかかります。
気になったのなら、調べる方法もある。海藤グループに娘がいるのかはおそらくすぐに分かりますし、ノーブル学園の在校生を確認すればいい。

ついでに言えば、えみる自身がノーブル学園を受験する可能性もあります。あの学校は著名なお嬢様校(女子校ではないですが)なので、愛崎祖父が(多少の歩みよりをした形で)進学先として推薦してきても変ではない。
げんなりしながらも、どこか聞き覚えのある校名に反応し「知り合いがいる」と口を滑らしたなら、孫を説得してもらうために祖父はコンタクトを試みるでしょう。そして「いない」と判明する。

これは、とてもとても怖い問題だと思う。あくまで「ゴープリはフレプリより後」しか根拠はなく、「ゴープリは2033年の物語」と判断する必要は何もない。書いておいて何ですが、私も全く妥当性を感じない。
だけれど仮にそうだった時の影響が巨大すぎるので、可能性が存在することに何ともぞわぞわします。

【蛇足】

あるいは逆に「フレプリ2012年」「ゴープリ2018年」のような可能性もある。

21話にて、はぐたんの力(と思われる)により黒白先輩が召喚されます。
ですが、はぐたんはどうやって彼女たちを呼んだんでしょうか。
はぐたんの力は「時間移動」ですから、実はあの黒白先輩は瞬間移動ではなく、時間移動してやってきてるかもしれない。

※時間移動ができるなら瞬間移動も可能なので、拘る意味はないのですけれど。(参考:アイザック・アシモフ「死せる過去」)

もし「フレプリ2012年」かつ「MHも同時代」だとすると、あの黒白先輩は過去から召喚されています。
あの時マシェリは玩具を欲しがっていましたから、「小6の彼女が5,6歳ごろに憧れていた存在」として召喚した、というのは多少の意味を持たせられる気がする。
まぁそこから何の発展性も見つけられなかったので、「だから何」としか言いようがないのが残念ですが…。

参考:
●HUGっと!プリキュア 愛崎えみる研究室問題考察(一覧)
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