リアル友人から「最近、普通の日記は書かないのか」と言われました。
馬鹿な。いつも日常に直結したことを書いてるのに。
不条理ですが、たまには目先を変えて読んだ本の話でも書いてみる。
『しあわせの理由』
グレッグ イーガン (著), Greg Egan (原著), 山岸 真 (翻訳)
(ハヤカワ文庫SF) (文庫)
12歳の誕生日をすぎてまもなく、ぼくはいつもしあわせな気分でいるようになった…脳内の化学物質によって感情を左右されてしまうことの意味を探る表題作をはじめ、仮想ボールを使って量子サッカーに興ずる人々と未来社会を描く、ローカス賞受賞作「ボーダー・ガード」、事故に遭遇して脳だけが助かった夫を復活させようと妻が必死で努力する「適切な愛」など、本邦初訳三篇を含む九篇を収録する日本版オリジナル短篇集。
【収録】
適切な愛
闇の中へ
愛撫
道徳的ウイルス学者
移相夢
チェルノブイリの聖母
ボーダー・ガード
血をわけた姉妹
しあわせの理由
まぁ初めて読んだのは相当に前ですが、引越しの過程で出てきたので。
ジャンル的にはSF短編集です。
私は短いスパンでオチがつく話が好きなので、本を読むとどうしてもそっち系ばかりに。
で、SF短編は面白さを紹介するとオチ晴らしになってしまい、途端に読む意味が消滅するのが困るのですが、お気に入りを2本紹介。
【適切な愛】
近未来にて、事故で身体を著しく損傷した夫のために心力を注ぐ妻の話。
劇中社会では既に全身クローンが実用化されており、そこに脳を移植するのですが、クローンが完成するまでの数年間、脳を生かし続けないといけません。
そのためにとった手段が「脳を仮死状態にして妻の子宮内に配置する」。
直感的に忌避したくなる手段ですが、技術的には何の問題もなし。
愛する夫を救うため、妻はその方法を受諾します。
しかし、当然ながら様々な精神的苦悩と直面することに。
他人の脳が胎内にあることからくる、精神的な恐怖、嫌悪。
別の独立した生き物が胎内にある異常事態に、一種の寄生虫に侵入されたような拒否反応が沸き起こります。
でも体の中にいるのはあくまで愛する夫。化け物を抱えてるわけではない。そんな感情論には負けません。
逆に、子宮内の脳を肉体が自分の子供と誤認してしまい、本能的に発生してしまう不適切な親子感情。
子宮に生物を抱えてるのですから、本能は全力で体を妊娠状態に自覚させ、負担の軽減を図ろうとします。
でも体の中にいるのはあくまで愛する夫。子供を抱えてるわけではない。そんな感情論には負けません。
あるいは胎内の夫の脳は、既に死亡しており、蘇生は成功しないのではないかという危惧。
仮死状態にしたとは言っても、長期間「脳」だけで本当に元のままなのか?自分はただの肉の塊を抱え込んでるだけではないのか?
でも体の中にいるのはあくまで愛する夫。死体を抱えてるわけではない。そんな感情論には負けません。
そういった感情を、妻はことごとく理屈でねじ伏せます。
結果、夫は何の問題もなく蘇生。
後遺症もなし。親子の情を抱いてしまうこともなし。
グロテスクな方法ではあったものの、それに付随する感情的な問題は全て理屈で乗り越えることができていたので、一切引きずることはありません。
愛のため、種々の不条理な感情を理詰めで克服した彼女の勝利です。めでたしめでたし。
…でも、そこまで感情をコントロールできたとき、果たして「愛」などという単なる繁栄本能に基づく感情はどうなるのか…。
【しあわせの理由】
主人公の少年は、あるとき脳を悪性腫瘍に冒されます。
体は生命の危機に晒されるのですが、少年自身はとても幸せな気持ちに。
というのも、その腫瘍で狂わされた脳組織が、脳内に「幸せ」を認識する際に発する脳内物質を大量に分泌しまくったため。
そのため死に掛けているというのに、少年は(劇中の言葉を借りれば)「物理的に不幸な気分になれない」。
所詮、人間は有機物と化学反応でしかないのですから、脳を制圧されてはどうにもなりません。
重症ではあったものの、手術は無事に成功し、少年は一命を取り留めます。
が、今度はその治療の副作用で脳内の幸せを感じる組織(前述の脳内物質を受容する組織)が破壊されてしまいました。
こうなると、今度は「幸せ」を認識することができません。物理的に。
人間が「幸せ」を感じるのは、決してハートだか魂だかがそれを知覚しているからではなく、あくまで脳の一部位が認識しているからにすぎません。
これは紛れもない事実であって、例えば酒を飲んで楽しい気分になるのも、アルコールが脳に作用しているからなだけ。
もっと言えば、楽しい趣味や友人との交流で「幸せ」を感じるのも、その状況に脳内物質が「幸せ」状態になるのを許してるからなだけで、そこには真理も特別性も神秘性も普遍性もありません。
あるのはあくまで、「脳が幸せを感知しているから幸せである」という純然たる事実のみ。
最終的にこの少年は、手術によって脳に幸せを認識する一種の機械を埋め込み、意図的に感情を動かせるようになります。
ただその機械は、「何が幸せなのか」を判断することができないので、一つ一つ自分の意思で設定しないといけません。
僕はりんごを好物にしよう。赤は好きで青は嫌いに設定しよう。健康に悪い習慣には、とりあえずマイナス感情を抱くようにしておくかetcetc。
結局、人間のその手の好みや幸せは千差万別。
明確な基準なんてないし、他の人にとっては何でもないことが好きだったりする。その逆もある。
何か絶対的な美しいものや正しいものがあるわけではなく、単に脳がどう認識してどういう状態になるかだけの話なわけです。
この話の主人公は通常とは違う状態に置かれてしまっては居ますが、現実の我々もやってることはほとんど変わりません。
「しあわせ」の理由は何なのか。それを描いた、短いけれど良い話だと思います。
……で、この手の話だと誤解が生まれかねないので強調しないといけないのですが。
紹介したどちらの話も「人間は有機物の塊であり、感情の類に神秘性は無い」という話なのですが、
作者は(そして私も)、「『だから人間はくだらない』と言いたい訳ではない」のです。
むしろ「だから人間は素晴らしい」。
「しあわせの理由」のラストシーンは最高に好きです。
件の「しあわせ判定装置」を埋め込んだ少年は、その後、薄汚いドブ川の近くのボロアパートを住まいにします。
そこに訪れた彼の父親は彼に問います。「こんな所に住んでてお前はしあわせなのか?」。
少年の答えは、「いいんだ。僕はここが気に入っている」。
何が「幸せ」で何に価値があるのか。
それを決定するのは個人の自由です。
みんなが良いというから好きになる必要はない。みんなが否定するから嫌いになる必要も無い。
健康に良いだとか、芸術性が高いとか、世間で評価されてるからとか、関係ありません。
そもそもどんな基準を採用するか自体も個人の問題であって、何が正しいかなんてないのです。
唯一の例外は犯罪行為に属するような事柄ですが、そういった人に迷惑をかける類のもの以外は全て個人の自由で、貴賎はない。
以前、冒頭のリアル友人と、趣味の良し悪しのような話をしました。
詳細は省きますが、その友人は「その行為が自然かどうかが判定基準」というのに異常に拘っていたのですが、私からするとその判定基準自体が恣意的だし、「何が自然か」というのも個人差が大きいんですよね。
友人は例えとして「ゴキブリを食べるのは不自然でしょ?」というのを言っていたのですが、それだって場所・時代じゃ自然なことですし。
(日本でも食用の文化はあるし、昔の商家では縁起の良い生き物として大事にされてました)
何が好きで、何が嫌いかなんて特段の理由なしで決定していい。
だって所詮、脳が物理的に「幸せ」を認識してるだけの話なんだし。
(まぁ個人的には、「嫌い」という感情は否定要素が入るので、「人に積極的に迷惑かけるな」という理由で表に出すときは注意すべきだと思いますけどね)
この手の娯楽小説って、作者さんの思考とマッチするかどうかが全てだと思うんですけど、私はこの人の話は大好き。(といっても、この1冊しか知りませんが)
人間心理も全て理詰めで扱って、でもだからこその人間賛歌。他の作者でいうなら、アシモフやホーガンもお気に入りです。
「SFを読んだことがない人にこそ、お勧め」というのが売り文句らしく、分量的にも短編で読みやすいんで、興味のある人はどうぞ……と書きたいところだけど、ネタを割ってるんで微妙にお勧めはできないなぁ。。
…で、こんだけぐだぐだ書いて、締めは「だから僕は美翔さんが好きって言ってもいいんだ!玩具が売れないとか、視聴率悪いとか、そんな理屈は関係ナイ!」と繋げたいのですが、説得力はありますかね?