穴にハマったアリスたち

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(第18話)トロピカル~ジュ!プリキュア「歩くよ!泳ぐよ!ローラの初登校!」感想

2021年06月27日 | トロピカル~ジュ!プリキュア
■(第18話)トロピカル~ジュ!プリキュア「歩くよ!泳ぐよ!ローラの初登校!」感想


(「トロピカル~ジュ!プリキュア」第18話より)

歩くよ!泳ぐよ!
喜びと可能性が満ち満ちたタイトルと、冒頭からの堂々たる尾びれの見せつけ。
「人魚に戻れるのか?」の不安もなんのそので、水陸両用のパーフェクト生物に進化なされていました。もはや怖いものはない。

しかしながら。意気揚々と初登校したものの、授業は困難を極めた。
地上の地理など基礎教育の範疇を超えています。地上の一地方の昔の言葉や文化とか、知ってるはずがない。

言うまでもなく、これらはローラが「ポンコツ」だからではなく、生息地による差異です。
逆に、プリキュア界で最も優秀な子たちをグランオーシャンに送り込んだら、同様に「ポンコツ」になるはず。運動方程式に水圧や浮力が登場し、塩化ナトリウムが塩として存在できない世界…。

これまで「足がない」のが最大の壁かのようにミスリードされてきましたが、実際のところ身体的差異より文化や地域の背景の方が大きい。
「足がなくても楽しめる」の別アプローチで、「足があっても解決しない」。水陸両用のパーフェクト生物なんて幻想でした。

泳ぎについても、ローラは「足」のせいにしていましたが、おそらくは「呼吸」と「泳法」の問題です。
ホモサピエンスもサカナも、肺(鰓)に空気(ガス)を取り込み、酸素の確保とともに浮力を調整して泳ぎます。この基本の入り口がいきなり違うのだから、溺れるのも無理がない。テクニックの問題なので、たぶん「息を思いっきり吸った後、ゆっくり吐きながらドルフィンキックだけする」なら驚異的なタイムを叩き出したんじゃないかな。

定番の「転入初日のドタバタ騒動」は、これまでもちょっと危ういところがあった。
昨年のアスミさんの「箸をうまく使えない」は、箸文化のない他国の人に箸を渡して笑うかのような危険がある。初代「ポンコツ」のまこぴーやトワ様も、彼女らの生い立ちを考えればできないのは無理がない。
その懸念を「足の有無は問題の根本ではない」にひっかけて昇華させ、お話としても愉快な形に仕上げられてるのが素晴らしい。

ローラが優秀さを発揮できたのが「生物」の分野なのも面白いです。確かにこの分野は、そこまで大きな違いはなさそう。
深読みするなら「身体差異は壁としては低い方だ」ということなのかもしれない。

もしもローラが「足を生やす」ことを目的にしていたら、今回の話は悲劇になっていました。アンデルセンの「人魚姫」と同じく、「人間になったとしても、問題はそこじゃない」現実。「足が生えたのは結果論であって、目的でも手段でもない」経緯の差が、いきなり出た。「足が生えた!」の次の回でこの話なのは、テーマ的にも愉快さ的にも美しいな。

【蛇足】

「ローラは歩けないままの方が、身障者のメタファーとして良かった」との意見を見かけたので、ちょっと触れます。

個人的には尾びれが好きなので、サカナならサカナのままで居て欲しいのですけど、テーマ的には歩けるようになるのが順当だと思う。というのも「歩けないことが個性なのだから、歩けないままで」は、「身障者は身障者らしくせよ」に繋がってしまいます。「歩けないのは不幸」は間違いだし、「歩けなくてもよい」のですが、「歩くべきでない」は違う。

足がない人が義足をつけて100メートルを10秒で走ったら、アイデンティティが失われたのか?
車いすのままで疾走する方が「真っ当」なのか。それとも車いすでそんなことをするのは「不謹慎」なのか?
当然そんなわけはなく、やりたいのならばやってよいし、できないからといってダメなのでもない。

これは「プリキュアになる」にも通じると思う。
生まれながらの身体的不利のある人類が、プリキュアになることで戦闘できるようになる。
足がない人が義足をつけて走るのと構造は同じです。「プリキュア」は差異を埋める補助器具。
人類は戦闘に向かないから戦わなくてよいはおかしいし、戦えないままだったとしても劣っているのでもない。

考えてみればこれまでも「謎生物にとっては、プリキュアに変身するようなもの」はありました。ココナツの人化とか。
彼らの変身も当時は話題になりましたが、今回の人魚の時ほどアイデンティティだの何だのは注目されなかった。「人魚」の持つ強力なメッセージ性を改めて感じます。

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感想:人魚の文化史(ヴォーン・スクリブナー)

2021年06月26日 | 小説・本
■感想:人魚の文化史(ヴォーン・スクリブナー)


[図説]人魚の文化史 神話・科学・マーメイド伝説 [ ヴォーン・スクリブナー ]

以前から人魚には興味はあったものの、ちゃんと本を読んだのはこれが初。今までの無知を恥じ入るばかり。とても面白かった。
カラーの図版・写真が約120点。しかも1枚1枚が、引用して語りたくなるような興味深い物ばかり。
先行研究はもちろんのこと書籍・建造物・新聞・神話・体験談等々も大量に紹介され、人類の人魚に対する熱意をこれでもかと感じられます。

 序文
 第1章:中世の怪物
 第2章:新たな世界、新たな不思議
 第3章:啓蒙時代の試み
 第4章:フリークショーとファンタジー
 第5章:現代のマーメイド
 第6章:世界の海へ
 終わりに

年代順に「マーメイド」がどう扱われてきたのかを見ていく構成で、なるほど「マーメイド」がどうしてこう魅力的なのかがよく分かる。
「ジュゴンを見間違えた」や「アンデルセンの人魚姫で広がった」ぐらいにしか思っていなかったのですが、現代マーメイドの直接の系譜は、中世の教会でマーメイドが使われたことだそう。


(41頁から引用)

画像は、両足をつかみ大きく股を広げた人魚の像。どちらも教会建築から。
「それは人魚なのか?」と疑問もわきますが、発端は「誘惑してくる怪物」であり、異常性と性的アピールの結果としてこうなったらしい。このデザインはスターバックスのロゴでも使われているほどで、人魚としてはむしろ伝統的で正統派といえます。

教会の教えとして使われた結果、当時の人々に人魚の実在が自然と受け入れられ、そのような下地があるから目撃談も出る。探し回りもする。
紹介されている図版や資料を見ると、つくづく多種多様な人魚で溢れかえっています。「ジュゴンの見間違え」の一言で片づけられることじゃなかった。

筆者は繰り返し「人魚はハイブリッド性ゆえに人々を惹きつけてきた」「人魚について考えることは、人間について考えることだ」と述べています。
読み始めこそ、「サカナと人間の組み合わせなんだからハイブリッドなのは当たり前だろう」とか「何を大げさな」とも思ったのですが、読み進める内に確かにと納得。

不可解なことに「マーメイド」は見た目ももちろんのこと、色々な面で矛盾を両立させています。
上述の通り当初から淫靡さを属性として持っているのに、なぜか真逆の清楚さや純真さも連想する。
無知な生き物として描かれることもあれば、予言やら知恵やらを授ける存在だったりもする。
肉体的にも非力なのか、強靭なのかよく分からない。
矛盾したイメージが、扱いたいテーマや場面によって使い分けられてしまう。

適切な例えか分かりませんが、現代日本のフィクション世界における「女子高生」が近いかもしれない。「子供・大人」「制約・自由」「無知・学徒」等々、矛盾するイメージをコンテンツにより使い分けられる。ありとあらゆるテーマで「主人公が女子高生」モノがあるように、同様のことが「マーメイド」にも言えるのかもしれない。

当然ながら、我々ひとりひとりの人間は、何か一つの属性に収まるものではない。各人が様々なハイブリッド性を持つし、集団になれば個々に特性も違う。
また特定の誰かに対し、決まりきった一つの見方をするのではなく、複数の矛盾した見方がありうる。
それらの矛盾を象徴的に表した先が「マーメイド」であり、「マーメイド」を通じて人間像が確かに見える気がします。

マーメイドと人類の付き合い方も面白い。

元々「教会も人魚の存在を認めている」ことから広がったのに、後の世では「人魚は聖書に描かれていない。だからいない」に転じたとか。

体系的な学術研究が始まった時代、「信頼のおける人物からの証言が多数ある」ことから、人魚の実在は「科学的に」証明されていた。当時の研究者は無知蒙昧なので信じたのではなく、ちゃんと「科学的な」プロセスで認めています。それが今では逆転している(反証と訂正は科学の基本なので、「悪い」ことではない)。

19世紀には人魚のミイラの展示などで大盛り上がりしたものの、「ミイラが偽物」と発覚した途端、急速にしぼみ実在説は一掃。「そのミイラが偽物だった」ことと「人魚がいない」ことに直接の関連はないのに。一般民衆の興味関心的には、むしろ理知的でない経緯で実在が否定されてしまった。
ところがそれはそれとして、急減した人魚熱は急上昇し(引用:「十九世紀の西洋人の様子をマーメイドとトリトンに夢中と形容するなら、二十世紀の人々は完全に取り憑かれているといっていい状態だった」)、映画や広告などで盛んに扱われたそう。フィクションならフィクションとして楽しめばよい。スターバックスのロゴもこの流れです。

「地上に人間がいるように、海にも知的生物がいるはずだ」という素朴な発想も、人魚の存在を後押ししたらしい。言われてみれば、いない方が変とも思えます(実際にはイルカやクジラやジュゴンがそれに相当するのでしょうけれど)。
そしてこれは言い換えると、「なぜ地上に人間はいるのか」や「他の動物と人間の違いは何か」にもつながる。

「尾びれがぴちぴちして可愛いから」ぐらいの入り口から入ったのに、想像もしない深い世界だった。何でこんなサカナに興味関心がわくのか自分でも分からなかったんですが、「夢中にならない方がおかしい」とすら思えてきました。
とても勉強になる本でした。人魚が好きなら必読だとお勧めしたい。

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(第17話)トロピカル~ジュ!プリキュア「人魚の奇跡!変身!キュアラメール!」感想

2021年06月20日 | トロピカル~ジュ!プリキュア
(第17話)トロピカル~ジュ!プリキュア「人魚の奇跡!変身!キュアラメール!」感想


(「トロピカル~ジュ!プリキュア」第17話より)

ローラがプリキュアになりあそばされました。足が生えた。
「人魚に足が生える」。これだけを見るなら人魚ものの定番ですが、そこに至るまでの経緯が素晴らしかった。

(1) 自ら解決策に向かうローラ

攫われたローラは、プリキュアのために目印を残しました。それだけでも十分なのに、彼女はプリキュアの救援に依存せず自力での脱出を試みた。
くるるんに鍵を取りに行かせた後も、バレることを見越して罠をしかけた。
結果的にプリキュアは助けにくることができず、くるるんも失敗していますから、二段構え三段構えのローラの優秀さが光っています。
アクアポットを取り返しに行く際にも、くるるんは先に脱出させている。「くるるんの安全を優先するため」が主目的かもしれませんが、このおかげでピンチを切り抜けられた。

魔女様からの取引に、「自分で叶える」と啖呵を切ったそのとおり。説得力がありすぎます。
プリキュアが助けに来てくれるのを、ただ待つだけじゃない。むしろ逆で、「自分がいないとプリキュアは駄目だから」とアグレッシブに助けに行っている。
「足を生やして仲間に入れてもらう」のでも、「無力な人魚なので助けてもらう」のでもない。「私が」助けに行くし、そのための手段としての変身(および足)なんです。

(2) 足がなくても楽しめる

撃墜されたローラは夢を見る。トロピカる部でお歌をやる夢を。
歌は足がなくても楽しめる。皆でできる。そう「足がなくても」不幸ではないんです。

「足が生えて良かったね」だと、身体的差異や文化的マイノリティは不幸なのか?それらは矯正して修正すべきことなのか?の問題にぶつかってしまいます。
足はなくてもよい。そこは主目的ではない。

実際ローラの初戦場は「海中」でした。足はなくても構わない。あえて深読みするなら、ローラが戦いの場を即座に船上に移したのは「海中では不利だ」と悟ったからかもしれません。まぁ「まなつが溺死する」のもあるでしょうけど。ニンゲンって不便。
(蛇足ながら、ローラが蹴り技主体で戦っているのも「足が生えて嬉しかったから」というか、「人魚の喧嘩の基本は尾びれの一撃だから」だと思い込みたい。事実クジラは尾びれでシャチを撃退したりするそうです)


(1)(2)ともに、「人魚」モノとして凄く大事です。
厄介な話をすると、古典的な「人魚姫」は「多数派(よく言われるのが非障がい者や、男性社会)に受け入れてもらうには、心身を刻むほどの代償がいる」というネガティブな側面を抱えています。ディズニーの「リトル・マーメイド」も炎上騒ぎを起こしてる。しかも物凄く面倒なことに「王子のために自分らしさを犠牲にするのは女性差別だ」という批判と、「過激な服装をして父親に反発する娘なんてけしからん」という逆方向の批判を受けている。

ローラの変身は、これらの問題を(服装が過激かはともかくとして)昇華しているように思う。
彼女は譲歩したり代償を払ったりはしていない。海の世界を捨てたり否定もしていない。
友を助ける手段としてプリキュアに変身したら、結果として足が生えただけです。生えたんだから活用しよう。前向きだ。人間化は目的ではなく、手段ですらなく、結果論。

上記はシンプルにストーリーだけを考えるなら、やらない方が良い。
「捕まったローラを助けにプリキュアが来てくれた。でも魔女様相手に大ピンチ。その時ローラが変身して…」の方が素直です。今回の流れだと「サマーたち、役に立ってないな」ともなりかねない。
「足がなくても楽しめる」の夢のシーンも不要です。「え、足がなくてもいいとか言ってたのに、結局は足が生えるの?矛盾してる」と誤解されかねない。
でもこれらの描写があったかどうかで、「人魚に足が生える」の説得力が段違い。「プリキュア」シリーズであると同時に、「マーメイド」ものとしても成立しています。

そしてこんな手間がいる「マーメイド」を演出に採用したということは、これが全体テーマにも関わっていると思われます。
みのりん先輩の無表情とかも、「無表情=悪いこと」ではなく、やる気がないわけでもないと繰り返し描写されています。かといって変身後の陽気さを否定してもいない。
涼村さんでいえば「紫が好きなのに別の色を選んだ」、あすか先輩の「会長と何かある?(察するに風紀とか勉強系?)」とかも、その観点で再解釈されるのかも。

それらに「プリキュア」エッセンスをどう組み合わせるのかも気になります。
相羽さんの記事(「トロピカル~ジュ!プリキュア/感想/第16話「魔女の罠!囚われたローラ!」(ネタバレ注意)」)にとても共感したので引用しますと

[引用]
『世界に押し付けられる「条件づけ」を無効化して、本来の自分のまま(精神的にも物理的にも)自由に「境界」を移動できる存在=プリキュア』
[引用終]

今回のローラの変身そのものは、割とあっさり描かれてるんですよね。打ちのめされて溜めて溜めてからの「プリキュアになりたい…!!(ぴかー)」ではない。「この精神性・行動力のローラが、プリキュアになるのは当然だ」ぐらいの勢いです。
秋映画の舞台が「冬山」(夏海さんにとってもローラにとってもアウェイの第3の世界)なのも「境界」の移動に関連してるのかも。

「プリキュアでマーメイドものをやるとこうなる」もしくは「マーメイドもので、プリキュアをやるとこうなる」のようなジャンルの横断的な興奮があります。今年はいつにも増して、いつもとは違う方向からも楽しいな。
しかも来週は「人間化したマーメイドを、即座にプールに放り込む」ですよ!「濡れたらサカナに戻る」のか「思うように泳げず溺れる」のか「息ができない!?足とか以前に呼吸器の差が!」なのか「凄まじく美麗に泳いで見せつける」のか、何かもうどのパターンでも愉快です。愉快で、それぞれ色々と考察も捗る。制作者様のマーメイドの扱いが適切すぎて、感嘆と称賛が止まらないです。

【蛇足】

改めて考えてみれば、今回の「マーメイド」もの+「プリキュア」のように、ジャンル横断的な試みはこれまでもされてたのかしら。
「ハグプリ」は時間SFとしてかなり高度で、「歴史改変」と「未来不変」を矛盾なく成立させつつ、そのギミックに「プリキュア」を使う…という驚異的なことをされている、と思う(参考:「タイムパラドックスの真相」)。

私が未熟で気づかなかっただけで、「魔法つかい」や「Goプリ」でも、「魔法学校ものの定番のネタ」「プリンセスものの伝統的なギミック」とか仕込まれてたんじゃなかろうか。

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(第16話)トロピカル~ジュ!プリキュア「魔女の罠!囚われたローラ!」感想

2021年06月13日 | トロピカル~ジュ!プリキュア
■(第16話)トロピカル~ジュ!プリキュア「魔女の罠!囚われたローラ!」感想


(「トロピカル~ジュ!プリキュア」第16話より)

山を登ったり川を下ったりする日々の中、ローラはあてどなくモンヤリ気分。
彼女の目標は「人魚の女王になる」こと。だけれど地上で過ごす内に、今までになかった気持ちも沸き上がり…。

アンデルセンの「人魚姫」は、人魚好きとしては若干ひっかかる点がある。あの物語は、人間世界を至上としています。
そのため「多数派に受け入れてもらうには、代償を払わねばならない」ネガティブな側面を抱えてしまっている。
人魚からすれば海中こそがメインの世界なんですから、「人間になる」=「幸せ」はホモサピエンスの傲慢です。

水族館の館長さんも語ったように、地球の表面積の7割は海。しかも立体的に活用できるので、生物が生息できる「体積」で考えると地上の2倍どころではありません。世界の中心は海だ。地上世界など辺境のごくごく一部に過ぎない。

みのりん先輩の「人魚姫」の解釈も前向きです。
「受け入れてもらうために譲歩する」話ではなく、「やりたいことのために努力する」話。つまりは勉強のために遊ぶ時間を失うのと同じ。
「テストのために勉強するのは、遊びを後回し(犠牲)にしているのか」問題に言及してくれました。
なるほど、「人魚」のハイブリッド性をこういう形でテーマに絡めるのか。

一方、夏海さんは「女王でも部活でもなんでも応援する」とおっしゃっている。言い回しが微妙です。「両方やったらいいよ」の意味なのか、「どちらを選んでも応援するよ」の意味なのか…。
魔女陣営の皆様の愚痴も示唆的です。口々に「本職は違うのに、やる気パワー集めをさせられている」と述べている。が、だからといって手を抜きもしていない。事実、今回は見事に作戦を成功させています。

これらの流れを見ると「代償を払ってでもチャレンジする」方向なのか、「代償など不要。両立できる」の方向なのか。どちらなんだろう。
言い換えると「(楽しいことや大事なことを)後回しにしてでも挑むべきことがある」なのか、「すべてのことは目的のために活用できる。後回しなどない」なのか。
ローラは「遊び(=無駄なこと)などない」とも発言していますから、どちらかといえば後者なんだろうか。

来週、ローラがプリキュアになるとして、考えてみれば変身前は人魚のままなんだろうか。そうだとすれば「部活を一緒にやる」等はいずれにせよ果たせません。いやプリキュア姿でやればいいのだけど。
たぶんテーマへの解答にも直結するはずで、非常に気になる。「人魚」ギミックをここまでテーマに組み込んでくるとは思わなかった。さすがプリキュアさん。

【ハイブリッド】

西洋式のマーメイドは伝統的に鏡と櫛を手に持っています。今回もローラは鏡を覗いている。
元々マーメイドは、キリスト教的には聖職者を惑わすサキュバス同然の扱いからスタートしたため、虚栄や性アピールのために鏡等を持たせていたらしい。
それが時代を経るにつれ、家庭的とか清純さのモチーフにも変遷したそうです。完全に逆転している。

今回のマニュキュアのシーンも、「子供らしい」のか「背伸び」なのか、「健全」なのか「華美」なのか、見方によって色々と変わる。
家庭らしさと虚栄等が相反するものか等々は横に置くとして、「人魚」は矛盾や対立を多々含んでいるので、今作のテーマに物凄くマッチしていそう。

【魔女様】

あとまわしの魔女様は「人魚が人間の手助けをしている」と認識されていた。
もともと「グランオーシャンが危機なので、プリキュアを得るために人間とコンタクトを取った」と思っていたのですが、何か経緯が違うような?
第1話冒頭を見返してみると、女王様は次のようにおっしゃっている。

「またいつ敵が現れるかわかりません」
「あとまわしの魔女の手が人間の世界にも伸びようとしています」
「世界を守るのです」

これにローラは「なんで人間なんかの助けを?」と答えています。
私はてっきり「なんで人間なんかの助けがいるのか」だと思ったのですが、「なんで人間を助けるのか」の意味だったんだろうか。
どちらにも取れる絶妙の言い回しをあえてしているような気すらしてきた。

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(第15話)トロピカル~ジュ!プリキュア「みのりがローラで、ローラがみのり!?」感想

2021年06月06日 | トロピカル~ジュ!プリキュア
■(第15話)トロピカル~ジュ!プリキュア「みのりがローラで、ローラがみのり!?」感想


(「トロピカル~ジュ!プリキュア」第15話より)

不慮の事故により、みのりん先輩がアクアポットに吸い込まれました。
察するに「くるるんが文鎮替わりに置かれていたことで、横断幕が「くるるんの所持物」とみなされ、それに巻き込まれた」と思われます。
ポットの中は海水。溺死の危機。
しかしながら幸か不幸か、一緒に突入したローラのおかげかすぐに排出されました。結果、みのりん先輩とローラの精神が入れ替わりましたが。

入れ替わったローラは文字通りに跳ね回り、地上の世界を謳歌します。
同様に、みのりん先輩も海を目指して飛びたっていく。
大変に愉快で楽しい一幕なのですが、「人魚に地上を満喫させる」のは古来より厄介な問題をはらんでいます。

先日ローラは「堂々と顔を出せない」ことを嘆いていました。
でも現実には単純で簡単な方法がある。車いすを使えばいい。戸籍等の問題をクリアできるなら、たったそれだけで登校も可能です。
(参考までに、映画「恋の人魚(Miranda:1948年公開)」は人魚が車いすで地上を出歩く)

ですが、この描写はできない。ローラが足を生やす予定があるなら猶更です。

(1)歩けないことが「悪」かのように映ってしまう。
「車いすだと楽しめない」「足が生えたので解決」のような展開にすると、かなり大きな誤解を招く。

(2)ローラの「尾びれ」はハンデではない。彼女は海中生活に適応している。海中であれば、人間の足こそが不利だ。
これらをデメリットとしてしまうのは、異なる文化の否定につながる。

アンデルセンの「人魚姫」はもちろん、アラビアンナイトやそれ以前から、「人魚」は「異なる存在」をテーマに抱えています。(故に、身体障碍者やLGBTのシンボルにしばしば「人魚」は採用されている)

「人魚姫」の「代償を払って足を生やす」ストーリーも、見方によって意味あいが強烈に変わります。
「主要世界に受け入れてもらうには巨大な代償を払わねばならない」受動的な忍従の話なのか、「リスクを恐れず新世界に飛び込んでいく」積極的なチャレンジの話なのか。
実際にディズニーの「リトル・マーメイド」はジェンダー問題に巻き込まれています。

斯様に「人魚さんに足を生やす」のは難しい課題なので、人魚さんは人魚さんとしての矜持を胸に、尾びれを大切にして欲しいのですが、逆に言えばこの問題に向かい合わないなら、登場人物として人魚を採用する意味が半減するとも。

これまでのローラの描写から「海中より地上が良い」のような方向はなさそう。
ローラが地上を楽しんでいたのは、「今までが不幸だったから」というより異郷への好奇心のように思えます。確かに「不便だった」とは語っていますが、例えるなら「旅先で現地語を知らないせいでストレスが溜まっていたところ、急に言葉が分かるようになった」ような状態というか。

先輩側も、人魚になった機会を活かし「海の中で感動する」描写があったのは嬉しいです。人魚さんは罰ゲームじゃない。
ただ「ローラと比べ、みのりん先輩はそこまででもなさそう」なのが引っかかります。先輩は感情が表に出てこないので、判断が難しいですが。
ラストシーンで「尾びれを見つめるローラ」も何を思ってるのか悩ましい。プラスの感情なのか、マイナスの感情なのかも読めません。

過去の入れ替わり事例「パインとタルト」「ハッピーとキャンディ」と違い、「入れ替わったままでは変身できない」のも気になります。
「肉体と精神がセットで自分」とか、そういう感じだろうか。その観点でいえば、あの状態のローラ(中身は先輩)が試みても変身できなかったんじゃないかな。
そう思うと、上記の諸々の「人魚ならでは」の問題を意識されてるっぽい。

今のところ「ローラに足が生える」ことと「今一番大事なこと」がどうリンクするのかもはっきり分からない。
これまで丁寧に扱ってくれているので、次回や次々回が楽しみです。

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