穴にハマったアリスたち

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読んでみた:「福島県双葉町で鼻血「有意に多い」調査」(J-CAST)

2014年05月18日 | 王様の耳はロバの耳
話題に挙がっていたので読んでみた。

福島県双葉町で鼻血「有意に多い」調査 「避難生活か、被ばくによって起きた」

[引用]

福島県双葉町では、鼻血などの症状の統計が有意に多かった――。岡山大などの研究グループが町の依頼で健康調査したところ、こんな結果が出ていたことが分かった。一体どうなっているのか。

(中略)

その中間報告が載ったのは、熊本学園大の中地重晴教授が13年11月に学術雑誌に発表した論文だ。「水俣学の視点からみた福島原発事故と津波による環境汚染」の論文によると、住民には原発事故による健康不安が募っていることから、放射線被ばくや避難生活によるものかを確かめるために疫学による調査を行った。

(中略)

論文では、「これら症状や疾病の増加が、原子力発電所の事故による避難生活又は放射線被ばくによって起きたものだと思われる」としており、事故の影響であることを明確に認めている。今後は、双葉町が行った住民の動向調査から、被ばくとの関係をも調べる予定だとしている。
[引用終]

これだけ読むと、「被ばくのせいで鼻血が増えた」と見えるような気もします。
でもちょっと待とう。
こういうのは元となった論文を読まないことには話が始まりません。

というわけで、以下が発端の論文。

水俣学の視点からみた 福島原発事故と津波による環境汚染

[引用](注:丸森町は宮城県、木之本町は滋賀県の町)

 多重ロジスティック解析を用いた分析結果は,主観的健康観(self-rated health)に関しては,2012年11月時点で,木之本町に比べて,双葉町で有意に悪く,逆に丸森町では有意に良かった。更に,調査当時の体の具合の悪い所に関しては,様々な症状で双葉町の症状の割合が高くなっていた。双葉町,丸森町両地区で,多変量解析において木之本町よりも有意に多かったのは,体がだるい,頭痛,めまい,目のかすみ,鼻血,吐き気,疲れやすいなどの症状であり,鼻血に関して両地区とも高いオッズ比を示した(丸森町でオッズ比3.5(95%信頼区間:1.2,10.5),双葉町でオッズ比3.8(95%信頼区間:1.8,8.1))。2011年3月11日以降発症した病気も双葉町では多く,オッズ比3以上では,肥満,うつ病やその他のこころの病気,パーキンソン病,その他の神経の病気,耳の病気,急性鼻咽頭炎,胃・十二指腸の病気,その他の消化器の病気,その他の皮膚の病気,閉経期又は閉経後障害,貧血などがある。両地区とも木之本町より多かったのは,その他の消化器系の病気であった。治療中の病気も,糖尿病,目の病気,高血圧症,歯の病気,肩こりなどの病気において双葉町で多かった。更に,神経精神的症状を訴える住民が,木之本町に比べ,丸森町・双葉町において多く見られた。

 今回の健康調査による結論は,震災後1年半を経過した2012年11月時点でも様々な症状が双葉町住民では多く,双葉町・丸森町ともに特に多かったのは鼻血であった。特に双葉町では様々な疾患の多発が認められ,治療中の疾患も多く医療的サポートが必要であると思われた。主観的健康観は双葉町で悪く,精神神経学的症状も双葉町・丸森町で悪くなっており,精神的なサポートも必要であると思われた。これら症状や疾病の増加が,原子力発電所の事故による避難生活又は放射線被ばくによって起きたものだと思われる。

 宮城県丸森町は,福島県境に接しており,福島原発事故による放射能汚染地域であり,住民には,放射能汚染に関するストレスがかかっており,双葉町民と同様の健康障害が出てきていると考えられる。
[引用終]

現物を読んでしまえば一目瞭然で、被ばくによる影響の可能性を捨ててはいないが、同時にストレスを原因として検討しています。
消化器系の病気やメンタル系も続出しているのですから、当然の判断でしょう。

もちろん、ストレスの原因は放射能汚染への不安や避難生活なのですから、「原発や放射能のせいで鼻血が出た」は嘘ではありません。
また体調を崩している人が多いのも事実なのだから、医療体制も充実させていく必要があります。
が、渦中の「美味しんぼ」などでイメージされるような「被ばくしたので鼻血」とは全く違います。
この「全く違う」にも関わらず直結させてしまう発想は、まさに風評被害につながる。

論文の筆者は専門が水俣病のようです。
その影響か、水俣病と原発問題を関連付けて「あの時も今も、国は隠蔽している」と批判する人たちも見かけましたが、両者は全く違う。
水俣病の問題は、病気と汚染物質の関連を示せているのに、その責任を国や工場が認めなかったこと。
原発問題は因果関係を証明できていませんから、まだスタートラインに立てていません。両者は全く異なるのです。

国や東電の対応には多くの問題がありますから、別にそれらを擁護する気はありません。
多くの被害者に対し、しっかりとした保障も行っていくべきです。
ですが、だからといって「被ばくが原因で鼻血が出た」にはなりません。この二つを混同するのは非常に危険だと思う。


以上、どうしても釈然としなかったので、勢いで書いてみた。

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「動物はあなたのごはんじゃない」←「植物なら食べていいのか?」…に対する反論を試みる

2014年02月05日 | 王様の耳はロバの耳
詰将棋的にやってみる。

「家畜否定」に批判の声多数(webR25)
[引用]
 同法人の公式サイトをみると、当団体はそもそも動物を家畜として育て、食べることに反対の姿勢を示している模様。そして、サイト上には家畜のイラストの上に「動物はあなたのごはんじゃない」という印象的なフレーズが掲げられている。

 このことからツイッターや2ちゃんねるでは“自分たちは何を食べているのか”“植物も生き物”という趣旨の批判が多数あがっており、1月29日22時ごろには、「植物はあなたのごはんじゃない 霞でも食ってろ」というコメント付きの、同団体の主張を皮肉ったパロディ画像をツイッターで投稿する人も登場。1月31日13時時点で1万件以上リツイートされるなど、話題になっている。
[引用終]


この手の話題の時にはよくこう言われる。

 「動物を食べるのは残酷?」
 「じゃあどうして植物は食っていいんだ」

一見すると上手く相手の言い分を逆手にとってるようにも見えるけど、何か落ち着かない。
というわけで、「動物を食べるのはダメだが、植物なら食べてよい」理由を考えてみる。

私自身は動物も植物も食べて良い派ですし、件の団体は「他人に思想を強要している」点で、個人的には賛同できない。
ただ、思考実験としてやってみる価値はあるんじゃないかな。

なお前提として「自身が生き延びることは正である」とし、「生き物を殺したくないから自殺する」は、議論の余地なく誤りであるとします。
(単純に面倒なので)

【反論1:命には上下があるよ論】

命には格付けがある。
最上位は人間であるとして(前提の「自殺不可」に則る)、食物連鎖で上下を決めるのが分かりやすい。
そうすると植物はかなり下層になるので、食べても良い。

【反論2:命は全て無限の価値があるよ論】

反論1とは逆に、全ての命は等しく無限に価値があるとします。
1つ1つの命の価値が無限大ということは、何匹か息絶えたところで、全体の価値は変わらず無限大です。
無限大は2倍しようと半分にしようと、やっぱり無限大ですので。

例外として、最後の1匹がいなくなってしまったら、全体の価値はゼロになってしまいます。
つまり「何匹食べようが命の全体の価値は変わらないが、絶滅は不可」となる。
よって「食べるのなら数の多い生き物を食べるべし」となる。

ちゃんとした統計は知りませんが、多分、植物は動物よりも数が多いので食べて良い。

【反論3:中間コストを省略しよう論】

肉食動物を食べるためには、彼らを育てねばならず、必然的に餌の草食動物の命が奪われます。
草食動物を食べるためには、彼らを育てねばならず、必然的に餌の植物の命が奪われます。
だったら最初から植物を食べよう。そうすれば失われる命が少なくて済みます。(自殺不可なので、「食わない」の選択肢はない)

【反論4:植物は食べられることを望んでいる論】

例えば果実などは、食べられることで生息地を広げようとします。
こういうのは食べない方が失礼ですね。
だから積極的に食べて良い。

【反論5:殺さなければ食べて良い論】

どうして食べてはいけないのか。それは命を奪うから。

だったら初めから息絶えていれば、食べて良いことになります。
まぁ道端で行き倒れてる豚とか、病死して野で朽ちてる鶏とか、食べたくはないですが。
植物だと「枯れている」状態を回収するケースは普通にあります。よって食って良い。

【反論6:残酷じゃないからいいよ論】

何をもって「残酷」と考えるか。
基準はいろいろあるでしょうけれど、対象者が苦痛を感じるかどうかは目安になるかと思います。
そして植物には痛覚がありません。
もしかしたらあるのかもしれませんが、「痛覚がある」という肯定根拠が特になく、「痛覚は回避行動のための感覚なんだから、回避できない植物が持ってても無意味だろう」という否定根拠はあるので、「ない」と言ってもよいはず。
痛みを感じないのなら「残酷」ではないので、食って良い。

【反論7:多数決論】

例えばライオンとシマウマとヒトで食物会議をしたとします。
ここでヒトが、「ライオンもシマウマも食って良い」と発言したらどうなるか。
ライオンとシマウマの両方を敵に回しますね。

しかし「ライオンは食べてはいけない。シマウマは食って良い」と発言したらどうなるか。
おそらくライオンさんは味方になってくれるでしょう。これで多数決に勝てます。
シマウマさんからは憎悪の視線を向けられるでしょうけれど。

この考え方で行けば、「動物はダメだが植物はOK」は肉食動物と草食動物の票を得られるので、正論と言えます。
キャベツやニンジンからは憎まれよう。

【反論8:他人だから食べよう論】

最も禁忌を感じるのは、ヒトを食べること。
この理由は様々でしょうけれど、一つには「生物の目的は種の存続である」「共食いをすると種が絶滅しやすくなる」があるでしょう。

この理屈で行くと、自分と近い遺伝子を持つものほど、守りたい(食べてはならない)という思想が働きます。
ヒトの次にはサル。その次には哺乳類。爬虫類に両生類、そして魚類と、遠ざかるにつれて「同種」の認識が薄れますので、「食って良い」となっていく。
したがって、かなり遠い植物は食べて良いとなる。

【反論9:肉だからダメ論】

生々しいですが、肉の切り身にしてしまえば、ヒトもウシもトリもさして変わりません。
肉は肉だ。
動物を食べることを嫌悪する人の中には、「可哀想だから」以外に、「肉そのものが人肉を連想して嫌だから」という人もいるかと思います。(反論8の「同種を守る」が過剰反応してるんでしょう)

この場合、肉であることが問題なのだから、肉ではない植物は食べて良いとなる。

【反論10:そもそも生きてないよ論】

そもそも「生きている」とはどんな状態か。
人間で考えると、「死」の定義は心肺機能の停止か、脳死です。
この基準を植物にもあてはめてみよう。
うむ、心肺も脳もない。
よって最初から生きていないので、食べても問題ない。


以上、ざっと挙げてみた。

それぞれ一応、それなりに筋は通ってるように思います。
厄介なことに、反論1から10まで、相互にはほぼ矛盾していませんので、論破しようとすると全てを相手にしないといけない。(それも矛盾なく)
多分、厳しいと思う。というか面倒くさい。

こうなってしまう理由は単純で、「動物を食べてはいけない」に対し、本来無関係の「植物を食べてるくせに」で反論しようとしているからだと思います。
一般に、ヒト>動物>植物で考える人が多いと思われますので、「動物を食べるな」に「植物を食べるのか」で返しても、かえって相手の論を補強してしまうんですね。

(この論法を使うのなら、「植物の方が動物よりも価値が高い」ことを、まず説明しないといけない。
 ですが、おそらくこれは無理でしょう。
 草食動物を食うためには、草を与えないといけませんので、植物>動物は矛盾してしまう)

話題の対象を、別の似通ったものに置き換えて反論するのは常套手段ですが、置き換えや例を間違うと、自爆してしまう好例なのかなと思った。
個人的には「肉も植物も食っていい」派なだけに、もしもリアルでこの議論をする羽目になった時は気を付けよう…。

【蛇足】

「動物を食べてはいけない」に対する反論として、「動物だって動物を食べてるじゃないか」もよく聞きます。
が、これも置き換えをミスってるように思う。
何せ「動物と人間は違う」ことを示されたら終わりですので。
すぐに思いつくところだと、「動物が人間を殺しても、殺人罪に問われない。動物と人間では、要求されるモラルが違うことは明白」とかでしょうか。

もちろん「いいや動物も人間も同じだ」と再反論することもできますが、それをやっちゃうと「そうだね。だから動物を食べちゃダメ。人間を食べちゃダメなのと同じ」と展開されてしまいます。ほぼ詰んでる。

【蛇足2】

色々と面倒くさいことになってしまうのは、あちらさんの主張の根拠を否定できていないからだと思う。
要は「残酷だから動物を食うな」という主張なんでしょうから、「いいや残酷ではない」または「残酷だが、それの何が問題なのか」で反論するのが、正攻法のはず。

手っ取り早いのは、「その通り。残酷だ。しかし肉を食わないと私はストレスで死んでしまう。自殺は不可だと最初の前提で合意しているのだから、私は自らの命を最優先し、肉を食う。貴い犠牲に感謝」かな。
私らが肉を食う実際の理由と、ズレもないでしょうし。

【追記】

お題が「毛皮製品は残酷だ」となるとちょっと展開が変わる。
この場合、「いいや木製品の方が残酷だから、木を使っているお前が言うな」は成立させられます。
根拠としては、例えば「寿命が長い生物を殺す方が残酷だ」とかですね。
「畜産動物を食べる」の場合、動物を育てるために植物を使わねばならないので「植物>動物」を主張しづらいですが、狩猟して加工する分には問題なく言えます。
細かいお題設定で、立ち回りを微妙に変えないといけないんだな…。

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「明日、ママがいない」の擁護に対する反論

2014年01月24日 | 王様の耳はロバの耳
Twitterの方で何度か書いたのですが、文字制限の都合で思うようにまとめられなかったので、こっちでも書いてみる。

岡村隆史「明日ママ」批判に苦言!放送中止なら「テレビの未来はない」
[引用]
  「このドラマがアカンとするなら、昔の『高校教師』なんて再放送もできへんで。教育委員会とかから文句言われる。生徒と(教師が)恋になるなんて、そんなありませんって。女子高の人たちが猛抗議したりやね。『家なき子』やで。タイトルでアカンってなるで」と過去のドラマを例に出した。

 「何もできへんようになる。(中止の)前例作ったら、抗議したらええっていう輩がおるから。ちょっと見て気に食わんとなったら、中止になって。池上(彰)さんのニュースばっかりになる。もうバラエティーもないわ。もうテレビは終わった。あとはクイズ、パプニング映像や。そんなばっかりになってくるよ」と“テレビマン”として警鐘を鳴らした。

(中略)

 一方「あくまでフィクション」「問題提起になっている」「子役の演技が素晴らしい」なども声もあり、賛否両論が広がっている。
[引用終]

非常にズレてる。

この件の最大の問題は「偏見をもって、特定集団を指す単語を作ったこと」だと私は思う。
平たく言えばレッテルを生み出したこと。
勘違いしてはいけないのは、「社会的に見て酷い状況が描写がされていること」が問題ではないはずです。

従って、「高校教師」や「家なき子」を引き合いに出すのは間違っている。
例えば「高校教師と女子高生の恋愛」を指す固有の単語は存在しません。
強いて言えば「ロリコン」でしょうけれど、意味として広いため、「高校教師と女子高生の恋愛」そのものには当てはまらない。
「家なき子」も同様です。ドラマの影響で「貧乏な子」や「家がない子」を、「家なき子」と呼んだ人もいるかもしれませんが、元々同名小説がある上に、「家」が「なき」「子」という言葉そのまんまで、新しい用語ではありません。

ところが本ドラマの「ポスト」は、まさしくそのものズバリ「赤ちゃんポストや施設に捨てられた親のいない子供」を指してしまう。

しかも「赤ちゃんポスト=捨て子」としているのが非常に悪い。

「赤ちゃんポスト」を現実に設置している慈恵病院に対しては、「捨て子を助長している」との批判があります。
それに対し、「いいや捨て子の助長ではない。様々な事情で育てることができず、子殺しをせざるを得ないような人たちの救済が目的だ」というのが病院の言い分です。
この思想や有効性への賛否はありますが、病院としては「赤ちゃんポスト=悪意のある捨て子(あるいは、捨て子の助長)」は絶対に許すことのできない『偏見』なんです。
(参考:医療法人聖粒会 慈恵病院 こうのとりのゆりかご

「偏見をもって」「特定集団を指す単語を作る」、これこそまさにレッテルであり、差別でしょう。

例をあげると、

 アニメが好きな人=犯罪予備軍や社会不適合者という設定で、彼らを「オタク」と呼ぶ
 自民党支持者=過激な軍国主義者という設定で、彼らを「ネトウヨ」と呼ぶ
 同性愛者=精力旺盛で変態的な嗜好の持ち主という設定で、彼らを「ゲイ」と呼ぶ

こういった連想と同一です。
あるいは「福島県から引っ越してきた白血病患者が、周囲からの迫害を受ける中、自分のことを『フクシマ』と呼び奮い立たせる」とかでもいいです。
繰り返しますが、「反社会的な犯罪を描くこと」や「病気で悲惨な人を描くこと」が問題なのではない。レッテルが問題なんです。

実際に、「犯罪をするオタク」や「福島県出身で放射能被害の影響を受けた人」もいるでしょう。
しかしレッテルを張ることの正当化にはならないんです。
全く無関係な人たちも大勢いるのですから。

上に挙げた例は、レッテルとして既に存在しており、場合によっては批判もされています。
しかし、これらと比べても、「ポスト」の件は非常に性質が悪い。
該当者が少ない上に、当人たちには全く責任がない。そして、わざわざ新しく用語として広められてしまった。

こう考えれば、「あくまでフィクション」「問題提起になっている」「子役の演技が素晴らしい」といった擁護は見当違いだと分かるかと思います。

フィクションかどうかは関係ありません。
舞台が江戸時代だろうとファンタジー世界だろうと、「捨てられた子」=「ポスト」という呼び方が問題なんです。

問題提起かどうかは関係ありません。
確かに過酷な境遇の子供もいるでしょうけれど、わざわざレッテルを作り出す必要はありません。

子役の演技が素晴らしかろうと、ドラマが感動的であろうと、最後に救いがあろうと関係ありません。
「捨てられた子」=「ポスト」の概念を作ってしまったことが問題なんですから。

もしも、単に「子供がひどい目にあう」だけなら、ここまで反発はされなかったと思うのです。
「ポスト」や「ペット」といった、まさしくその偏見に苦しんでいる境遇の人に対し、そのものずばりのレッテルを張ってしまっては、抗議されるのも当然でしょう。
引用記事では「抗議に屈したらテレビは終わる」とありますが、真摯に応えなければそれこそ終わりなんじゃなかろうか。


…というかグダグダ書きましたが、「身体特徴や出自など、本人に責任のない事柄に由来した、否定的なあだ名は止めよう」という基本的な常識の話なんですけどね。。

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ニュースより:「人工知能学会、物議の学会誌表紙についてコメント……「女性差別の意図はない」」

2014年01月13日 | 王様の耳はロバの耳
見かけて気になったので。

人工知能学会、物議の学会誌表紙についてコメント……「女性差別の意図はない」

[引用]
 人工知能の研究を進める一般社団法人「人工知能学会」の学会誌2014年1月発行号の表紙イラストが「女性差別ではないか?」とネットを中心に議論を巻き起こしている。9日、同学会は騒動に対して「女性差別の意図はない」と見解を発表した。
[引用終]
他、「人工知能学会の表紙は女性蔑視?」

当の学会誌を読んでいませんが、「この表紙は性差別だ」と表紙を見ただけで言ってる人に対しては、簡単に回答できるはず。

まずこういうのは「対象を他の物に置き換えたらどうなるか?」を試すと分かりやすいです。
この場合、「箒を持ってる女性」を「男性」や「少年」、「老人」に置き換えてみましょう。
奴隷(もちろん性的なものも含めて)は女性だけに限った話ではありませんので、おかしな置き換えではないはず。

これに対し、考えられる反応は二つ。

【①「描かれてるのが男性だったら性差別ではない」派】

おかしな話です。
男性の奴隷だって女性に劣らず大勢いたのですから。

ここで「人工知能学会は男性が多いので、女性に対して差別的な感情を持っているはずだ」と言い出したら、根拠と結論が逆転しています。
「表紙に女性を描いてるから女性差別だ」だったはずが、「女性差別してるから女性を描いたんだ」になってしまう。
もはや言いがかりでしかなく、むしろ「男性は女性差別をしている」という『男性差別』をやっています。

【②「描かれているのが男性であっても差別だ」派】

筋としては①よりも通ってます。
ですがこの場合、「人型をしたロボットを作ること」に対し、「気持ち悪い」と反発していることになります。
だって女性かどうかは本質と関係ないのだから、性差別ではない。
あえて言うなら人権とか人道とかそういう方面の問題。


よって①と②のどちらであっても、「性差別だ」という批判は的外れとなります。

「生理的に受け付けない」と感じること自体は自由なのですが、「どうして自分は受け付けなかったのか」の理由を、当の本人も勘違いしていると、お互いにとって不幸だと思うのです。
①の人なら無根拠な男性不信、②の人なら人型ロボットに対する嫌悪(女性型かどうかに関係なく)。
どちらにしても「表紙が性差別かどうか」は問題の本質ではないのだから、そのような批判をしても問題は悪化するだけのはず。

この手の混乱は私も気を付けたいと思った。


【蛇足】

あと、この表紙絵を描かれたのは女性だそうで。
「男が多いから、男の発想で描いたんだろう」といった決めつけの怖さも教訓ですね。
事実だと確証の取れない部分を、推測で批判するのは本当に危険。

【蛇足2】

上記の諸々に目を瞑って、あえて書くなら、そもそも箒をもってる女性を描くことの何が女性差別なのかが分かりません。
では、安全ケーブルつけて高所作業やってる男性を描いたら、「男を仕事に縛り付けたい妄想の現れ」と感じるんだろうか。
家事=虐げられていることの象徴と考えること自体、主婦および主夫への酷い差別です。
また、現実には共働きを希望する男性が多数いることも考えると、「男の願望=家で家事をさせていたい」なんてのは、既に架空の妄想に近いのだと思うのです。

【蛇足3】

こういった話題だと「差別だと思う人もいるから配慮が必要」と言われがち。
でもそれは、すなわち「差別である」と確定していないと認めてるのと同じです。
だから差別だと批判するためには、証明が必要になってきます。

例えば学会誌本文に「女性は本来男に仕えるべきだから、ロボットは女性型にしたい」と書かれているとか、表紙イラストのロボットが性的に際どい造形をして首輪をしているだとか、「アイヌの民族衣装を着た女性」といった何らかの意図がなければ選ばれない珍しい題材だったとか、そういった「差別だと思う人ばかりだ」となるような根拠があるなら、説得力があります。
(このような場合なら、上記の「置き換えてみたら」がそもそも成り立たない。「女性である」ことに強い意味があるのは明白なのだから)

単純に「『私は』この表紙が嫌いだ」と主観による批判なら良いのですけれど、「差別をしている」と相手の意図を基にした批判をしようと思ったら、「そう思う人もいるから」では賛同を得るのは厳しいと思う。

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「女子には女性の意味もあるから、女子会は間違った言葉じゃない」に対する反論

2013年08月27日 | 王様の耳はロバの耳
機会があったら書こうと思ってたことを見かけたので。

女の子よ銃を取れ 第12回 もう若くはない女の子 Miss Forever Teenager

[引用]
「女子」という言葉があります。いつの間にか、「女子会」や「○○女子」など、さまざまな場面で気軽に使われるようになった言葉です。この「女子」という言葉が流行り始めてから、ずっと言われていることがあります。

「何歳まで、『女子』とか言ってるつもり?」

「大の大人が『女子』なんて、図々しいし見苦しい」

 実は「女子」という言葉は、辞書にもある通り、少女のみを指す言葉ではなく、女性一般を指す言葉でもあります。ですから、このような非難はそもそも的外れだと言えます。
[引用終]

これ、物凄く頭の悪い反論方法だと思う。

確かに辞書には「女子=女性一般」の意味が載っています。
しかし「辞書には別の意味も載っているから正しい」なんて理屈は成り立ちません。
実際にその意味で使ってなければ、全く関係がないのだから。

例えば「女子トイレ」や「女子サッカー」を、「婦人トイレ」「女性サッカー」と置き換えても意味は変わりません。
ですが「女子会」を、「婦人会」や「女性会」と言いかえると、ニュアンスが大きく変わります。
というかニュアンスが違うからこそ、わざわざ新語として「女子会」と言いだしたのですしね。

また論法としての欠点は、この言い分は相手も全く同じように使えてしまうところ。
使用されている文脈を考慮せずに「辞書に載っているから」を拠り所にしてしまったら、相手の「辞書に『少女』とあるのだからおかしい」を認めなければ矛盾してしまいます。
もちろん認めたら認めたで矛盾が発生するので、前提となる「辞書に載っているから」が不適切であることが明白になります。

よって「女子には女性の意味もあるから」は、全くもって見当違いの頭の悪い論法だと思う。
この手の「一見関係ありそうで、実際には全く関係ないことを、相手の誤りとして反論してしまう」「実は相手も全く同じ反撃法が使えてしまう」のは、結構やりがちなミスじゃなかろうか。

【補足】

比較として「日本男児」を挙げる例を見たことがあるので補足。

「日本男児」も成人男性に対しても使われます。
これを以て、「だから女子会もおかしくない」との弁も見ますが、上述の通りそもそもの成り立ちが違いますので比較になってません。

また仮に「男児=少年」の意味で使っているのだとしても、「日本という親の子供(まだ未熟な自分)」という謙遜の意が含まれてるだけに思われます。
これを受けて、同じように「女子会」や「30代女子」も、「何かに対する未熟な子供」の意で使っているのだと言い張ることも出来そうには思いますが、「女性」より「女子」にプラスイメージがあるからこそ、わざわざこれらの語が出来たことを思うと、ちょっと苦しいかなぁと。

【蛇足】

せっかくなので引用元の本文にもちょっとだけ。

筆者は「女性は」の主語で長々と書かれていますが、単に「価値基準を他人からの評価に頼っているから」というだけに思われます。
そういった人たちが、加齢や周辺環境の変化によってアイデンティティの危機に晒されるのは必然であって、男性なのか女性なのかは、ほとんど関係ないと思う。
(傾向として、異性からの評価を価値基準に置いている人が、女性に多いのかもしれませんが)

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見かけた気がするので反論する その4:米食う人々

2013年08月03日 | 王様の耳はロバの耳
前に書いた記事の続きと言うか派生。
ふと見かけて悶々としたので、書いてみる。

(1)『児童性犯罪者の多くは漫画やアニメを見ていた。
  だから漫画やアニメを見ると性犯罪に走る』

これへの反論として、下記のようなのを良く見かけます。

(2)『犯罪者の多くは米を食べている。
  だから米を食べると性犯罪に走る。
  これと同じくらい馬鹿げた理屈だ』

この論法は的外れだと思ったので、それについて。
(念のために書きますが、説(1)は馬鹿馬鹿しいほどに間違ってると思う。
 ただ、理屈が通ってないのは落ち着かないので、あえて書く)


仮説(1)を主張する人としては、根っこには「漫画やアニメには児童に対する性的なシーンが含まれる。だから犯罪を誘発する」があると思われます。
「知識として知っているから」「関係性の高いものに興味があるから」、それを実際にやってしまうという理屈。
まぁそれ以外の様々なこじつけも、後付けで幾らでもするんでしょうけど、とりあえずは。

従って「米を食べる」例を出すのなら、対応する犯罪は「おむすびの万引き」等です。
常識的に考えれば、わざわざ「おむすび」を狙って万引きする犯罪者(パンでも麺でもなく)は、過去に米を食べたことがあるでしょう。
よって「米を食べることと、おむすびを万引きすることには関連性がある」と言えます。
「米を食うと犯罪者になる」は、この意味においては正しい。

以上により、論(2)による反論に対して再反論されるのは必然だと思う。
彼らの脳内では「ある物に興味があったら、それに関連する物にも興味を持ち、暴走する可能性がある」なんだから、「米と性犯罪は全く関係ない」もしくは「おむすびを万引きする人は米を食った事があるだろうから、反論になってないじゃないか」と納得しないはず。
(もっとも、規制賛成派からは「極端だ」「屁理屈だ」といった、「実は何がおかしいのか分かってないんじゃないか?」と思いたくなる再反論しか見たことないですけれど)


(1)に反論するのなら、「漫画と実在の人物には関連性がないことを示す」か「漫画よりも実在の人物に近いものがあることを示す」の方が適切だと思う。

・「漫画と実在の人物には関連性がないことを示す」
 ⇒漫画と実在の人物は関係がない。だって紙ですよ紙。

  「米を食ったらサカナの万引きをする」くらいおかしい。
  「米を食ったらおむすびを万引きする」なら理解できるけれど。

  「漫画を読んだら、自慰が流行する」は理解できるけど、
  「漫画を読んだら、性犯罪をする」は意味不明。だって紙なんだから。

・「漫画よりも実在の人物に近いものがあることを示す」
 ⇒確かに素敵な子を見ていたら、性的に興味を持つのも理解できる。
  そして当然ながら、漫画よりも実写ドラマ。
  実写ドラマよりも現実の異性の方が、関連が高いのだから影響は大きい。
  よって漫画が危険ならば、漫画よりも先に実写ドラマや現実の異性との接触を禁止すべき。

前者を否定しようとすると、後者で自分の首を絞めることになる。
後者を否定しようとすると、必然的に「漫画を読むと性犯罪に走る」を否定せざるを得なくなる。
「漫画の方が、実在の異性よりも実在の異性との関連が高い」ことを証明するミラクルな方法があれば別だけど。

よって「米を食べていた」の例よりも、「実写ドラマや映画を見ていた」の方が反論としては適切じゃなかろうか。
「実在の異性との接触」まで行くと「禁止するのは非現実的」との反論が予想されるので、「実写ドラマや映画」。

…あれ?規制賛成派としては、「実写ドラマや映画も禁止するのは非現実的」「だから(影響力は低いが)漫画を禁止せよ」のスタンスなのかしら?
まぁそれを言いだしてしまったら、単なるマイノリティの迫害だと自白するようなものなので、自爆極まりないですけれど。
(そもそも漫画が少数派である保証もないですし)

といったわけで、「理屈を思いついたけど、実際に使う機会がなさそうなので吐き出してみる」的記事、終わり。


【蛇足】

別視点から。

「犯罪者の多くは米を食べていた」を、
「多くの人が米を食べているんだから、原因とみなすのはおかしい」ではなく、
「米を食べない人も犯罪を行うから、米と犯罪には関連はない」の観点で使ってるのなら、ちょっと話は変わる。

本当に関連性があるかどうかを検討するのならば、「○○をしていた人」だけを調べても無意味。
「○○をしない人」と比べる必要があります。
(占いの的中率を調べるには、「当たった占い」だけではなく「外した占い」も調べないといけないのと同じ)

「犯罪者は米を食べていた。しかし米を食べない人も犯罪をする。よって米は関係ない」
⇒「犯罪者は漫画を読んでいた。しかし漫画を読まない人も犯罪をする。よって漫画は関係ない」

ただ、この方向性で言おうとすると「本当に漫画を読まない人も犯罪をするか」を調べる必要が出てくる。
(常識的に考えて、刑務所に入るような粗暴な不良や親父が、プリキュア大好き人間の集まりとは思えないですが)
またわざわざ「多くの人が該当する米」を例に出してる都合上、「多くの犯罪者が漫画を読んでいる」かのような錯誤をしやすい構成になってるのも、どうかと思う。
例えとしてはあんまり良くないのかなと。

ちなみに「米を食う」ではなく「犯罪者は空気を吸っていた。だから空気が悪い」の例えになると、また話が変わってくる。
「空気を吸わない人は死ぬ=犯罪をできない」ので、確かに空気と犯罪には関連性がある。
ただし空気を禁止すると、犯罪よりも酷い自体になるので、禁止できない。

漫画に置き換えると、「漫画を読まないと死ぬ」…はさすがに言いきれないので、「漫画を読まないとコミュニケーションに難が出る」とか「他者への興味を失う」。
⇒「性犯罪をするには他者に興味を持つ必要がある」
 「他者に興味を持つには、漫画を始めとしたフィクションとの触れ合いが必須」
 「漫画を禁止すれば他者への興味が薄れるので犯罪は減るが、それによる損失は犯罪よりも大きい」
 「だから漫画をやり玉に挙げるのは間違っている」
というスタンスになると思う。
なんというか、かなり回りくどい論法になってしまう気がする。

【蛇足2】

結局は「なんで漫画と犯罪に関連があると思うのか」を、規制賛成派から出してもらわないと、ちゃんとしたことは言えないですね。
データや統計が出せないのはもう分かってるので、せめて「どうして感覚的にそう思ったのか」は知りたいです。

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読んだので書いてみる:「ワタミ“ブラック”批判を洞察する」(Business Journal)

2013年07月22日 | 王様の耳はロバの耳
例によって先に書くべき記事がたくさんありますが、やっぱり目に入ったので簡単に。

ワタミ“ブラック”批判を洞察する…「社会貢献もどき」に走る人たちが学ぶべきこと

[引用]
 しかし、「事業を通して社会に貢献しよう」と訴えていた教祖様が、今や「ブラック企業」の権化として吊るし上げられているのだから皮肉な話だ。
[引用終]


別に皮肉でもなんでもないと思う。

「社会に貢献する」最も簡単な方法は、安価でサービスを提供すること。
「安価で提供する」最も簡単な方法は、費用を抑えること。
つまり、人件費を削り倒し、品質を落とせばいい。

これらはまさしくブラック企業の特徴ですので、「社会に貢献しよう」とだけ考える会社は、ブラックになるに決まってる。
会社は、そこで働く社員のためにあるのだから、まず社員の方を見ないとどうにもならない。
(所有権は株主や事業主にあっても、そもそも有史以来、集団で仕事をし始めたのは何故かを考えれば当然の帰結)

引用記事では大企業の創業者に触れられていますが、過去の偉大な創業者が偉大なのは、単に「社会に貢献する」という安易な道だけでなく、従業員を大切に扱ったからでしょう。

結局のところ彼らが「ブラック」と呼ばれるのは、違法行為だとか労災の発生だけでなく、それらが起きたことを反省していないからだと思います。
実際、社員の方を見て仕事をするのは大変。純粋に能力のない社員もいるし、純然たる不幸な事故だってある。
ですが、そこで「無理だ」と言わず、パワフルに「社員のため」に働く精神こそが、優秀な経営者だと思うのです。
そりゃ給料削って法律犯せば、社会貢献なんて楽勝でしょう。しょうもない。

そしてこういった事に対し「いや会社とはそういうものだ」とか「社会に貢献するために頑張れ」といった綺麗事を言ったり、各種名言をこじつけるのも簡単です。
ですが、当人がその通りにやっていなければ説得力はゼロ。
まずは最低限、365日24時間安月給で働いてみせないことには、何を語っても「嘘つきのブラック」で終わりでしょう。

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読んだので書いてみる:「NHKアナが「普通においしい」とコメント OKか否か?」

2013年07月20日 | 王様の耳はロバの耳
もっと先に書くべき記事がある気もするけれど、目についたので。

NHKアナが「普通においしい」とコメント OKか否か?

[引用]
堀尾:「普通においしい」って意味がわからない。「非常においしい」の反語ですか? 「普通に」「特別に」「非常に」と3段階あって、「普通に」の段階でおいしいということですか?  伝えたい内容がわかりませんよね。

内舘:今の若者は「普通に寝てた」とか言うんです。「標準的に」という意味と「非常に」という意味と両方あって、若者でも判断するのが難しい言葉だとか。(笑い)
[引用終]


前にも書きましたが、「普通においしい」とは「普通の基準においておいしい」であって、「特別に」とか「非常に」といったニュアンスではないと思います。
(「普通に寝ていた」と同じで「標準的に」の意)

要は、

 ・「とても苦くて食べづらい。だけど慣れるとそこがおいしい」
 ・「むちゃくちゃ辛いが、この痛みがおいしさに化ける」
 ・「甘過ぎて嫌いな人も多いだろうけど、一部の子供には人気」

といった「特殊な基準を前提とする『おいしい』」ではなく、「一般的な基準において『おいしい』」という意味。
「おいしさの度合い」が「普通」なのではなく、「おいしさの判定基準」が「普通」なのですね。
強いて言いかえるなら、「素直においしい」「王道でおいしい」に近い。

そういったわけで、「普通においしい」という日本語のどこがおかしいのかピンときません。
人によって価値基準が違うなんて、今時当たり前なのですから、「いかなる基準で判定しているのか」は大事だと思うのだけど…。
まぁ「『常識で』考えればこうに決まっている」等の表現と同様に、「何が普通なのか」といった問題はありますが。
少なくとも、発言者視点では「どの基準を採用したか」の意思表示にはなっていますので、取り立てて問題は感じません。
また、確かに料理レポートで使うには表現が不足していますが(何がどう美味しいのか適切に解説するのが仕事なんだから)、それはレポート能力の問題であって、日本語の問題ではないでしょう。

おそらく「おいしい」自体に強調のニュアンスがあるので、それに引きずられて「非常に」の意味に誤認してるだけじゃなかろうか。

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読んだので批判する その3:アニメ・漫画規制に賛成する人たち

2013年06月20日 | 王様の耳はロバの耳
若干くどい気もするけれど、巷で話題の児童ポルノ関係で、考えてたら色々思うところが出てきたので書いてみる。

「単純所持禁止」を謳った例の法案の狂いっぷりは今更私が書くまでもないですが、現実問題として、規制に賛成する人がいることも事実。
そして「実在する児童の性行為を記録したもの」だけではなく、アニメや漫画といったフィクションを目の敵にする人たちがいることも事実。

ではその人たちはどうしてそんなにアニメや漫画を敵視するのか。
結論が間違っていても、途中の思考が筋道だってるなら、理解や歩み寄りの余地もあるはずです。
ということで、「どうしてそんなに嫌うのか」を考えてみた。

●仮説1「アニメを見た子供は悪影響を受けるから」

子供は見知ったことを真似て成長するものです。
そのため、アニメで性的な言動が行われると、悪影響を受けてしまう。だから嫌だ…の理屈。

これ自体はさほどおかしくないと思う。
だけど「アニメ」を名指しで批判するのはどうして?
よく言われるように、時代劇だって刀傷沙汰まみれ、現代ドラマだって恋愛や犯罪を描いてるのに。

考えられるのは、「子供が一番好きなのがアニメだから」でしょうか。
好きだから、他のコンテンツと比べ影響を受けやすい。だからアニメはダメ。
まさか「アニメにはずば抜けて高い教育効果があるから」とは思ってないでしょうし。

しかしこの発想は大きな問題をはらみます。
というのも仮にアニメを禁止した場合、娯楽を失った子供は次の何かに興味を持ちます。
そしてその「何か」(例:音楽とかドラマとか)にも、やっぱり悪影響を及ぼす要素はある。
例えば小説の「赤毛のアン」等にも、普通に児童ポルノ要素が含まれますし、かなりきつい差別発言等々をアンがやってたりする。

そもそも周囲のリアル環境自体が、児童ポルノ的にはよろしくない。
日本人が学校制服に性的興味を持ちやすい理由は、ほぼ間違いなく「思春期に周囲が制服の状況で過ごしたから」でしょう。
当たり前ですが、リアル世界の状況が最も人の成長に影響を及ぼす。

つまり「アニメを見た子供は悪影響を受けるから」理論に従うなら、「アニメに限らず全ての情報を遮断すべき」となりますし、「男女を同じ環境で育てるな」となる。
実際、「男女7歳にして…」という諺もありますし、ここまで言い切るなら(主張に賛同するかは別として)筋は通ってる。
逆にいえば、そこまで言い切れないなら、この理由による批判は破綻しているという事ですね。

●仮説2「アニメを見た大人は犯罪に走るから」

アニメを見ていると現実と非現実の区別がつかなくなるから。
あるいは、アニメを見ていると欲求が掻き立てられ発散したくなるから。

どういう理由かはさておいて、アニメと犯罪を結びつけたがる人は実際いる。
ただこれは理由づけとしてはかなりお粗末な部類ですね。
「現実との区別を見失う」可能性が高いのは、アニメよりも現実に近い実写映画やドラマ、スポーツの方でしょう。

そして最も強い影響力を持つのは、周囲の直接的な環境でしょう。
よって、筋を通そうとすると、仮説1と同じく「全ての情報から遮断すべし」となる。
そこまで言い切る覚悟がないなら、自己矛盾に陥ってしまう。

●仮説3「アニメは子供向けだから」

「子供向けのコンテンツだから、大人が見るのは奇妙で異常だ」論。

これに対する最も有効な存在は、キティだと思ってます。
キティ御大は、当初は紛れもなく女児をターゲットとして雇用されてます。
が、今では海外スターからも高い支持を得ています。

また、竹トンボや独楽なんかも気になるところ。
老人会が子供に遊びを教えたりする光景は、非難されるべき奇妙で異常な状況なのでしょうか。
いい年した老人が、子供の遊びに興じるなんて…。

もしも「子供向けだから」を理由にするなら、キティや独楽も批判する覚悟が出てきます。
そこまでやるなら(賛同するかは別として)論として筋は通る。
逆にいえば、言い張る覚悟がないのなら矛盾してしまう。

「女の子向けを男が好むのはおかしい」と性別を問題にすると、更に状況が厳しくなる。
一昔前は、学校教育で「創作ダンスは女子」「武道は男子」といった性別による区別がされてました。
しかし言うまでもなく、ダンスに打ち込む男性や、武道に打ち込む女性は珍しくない。

この論を採用すると、性別や年齢別に「何を好むべきか」を厳密に線引きしていく必要がでてきてしまう。
そこまで行くと、「一昔前なら隠居していたのに、60歳過ぎても働いているなんて…」といった批判も可能になります。
というか、批判しないと矛盾してしまう。

●仮説4「アニメはレベルが低いから」

小説と比べて、絵が描かれているので頭で考えることをしなくていいから。
もしくはあまりに非現実で、リアリティがないから。
理由としては大体そんなとこだと思う。

情報量や現実との近さを並べると、下記のようになります。
左にいくほど、「情報量が多く」「伝達方法が現実の体験に近い」。

 現実の体験>実写映画・ドラマ>アニメ>漫画>小説>思索

もしも「情報量が少ない方が、頭を使うから高級だ」(小説>漫画理論)ならば、小説よりも思索の方が崇高です。
書を捨てて内にこもれ。
哲学や宗教の例を考えるに、意外と極論でもなさそう。

逆に「リアリティがある方が高級だ」(現実>アニメ理論)ならば、小説や思索は論外です。
いいから外に出よう。そして思考を停止しよう。
これも意外と極論ではない気がする。

よって「外界との情報を遮断し内なる思索に挑め」もしくは「心を無にして、ただただ目の前の体験に身を委ねよ」と主張するなら、(賛同するかはどもかくとして)筋は通る。
そこまで言えないなら理由としては破綻してる。

●仮説5「アニメが自分の趣向にあってないから」

自分にとって理解できないものが、評価されていると不快感を抱くものです。
何が楽しいのか分からないので、ただただ嫌悪感ばかりが募っていく。

この立場で主張されると、矛盾を突くのはちょっと難しい。
嫌いなものは、嫌いだからです。
それ自体は自由だし、完結してる。

しかし「公の場で流す」といったことに対する規制ではなく、「単純所持」すら禁止となると、もはや殲滅戦です。
自分と全く無関係の機会ですら、存在を許さん。
そこまで言われたら全面戦争ですね。まさに今の状況ですが。

そしてこの理由は「子供を守る」ことと全くの無関係です。
もしもこの理由づけを今回の件でしてしまったら、「法案の目的と関係ない」で終了です。

●仮説6「自分が嫌悪を抱く人が見ているから」

「アニメが嫌いというより、アニメを見ている層が嫌いだから、その人たちが好きなアニメも嫌いだ」論。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎し。
但しこの理屈は「では何でアニメを見ている層が嫌いなのか」に行きつくし、おそらく結果は仮説5と同じでしょう。

●仮説7「アニメを見ていると現実への興味を失うから」

仮説2の、ある意味逆パターン。
「アニメを見ていると非現実の方を好んでしまい、現実の犯罪に走らなさ過ぎるから」論です。
性犯罪が起こらない(=現実の異性に興味を持たない)から問題だ、という逆説。

要はアニメキャラに恋をしてしまうと、実際の人間との恋愛をしなくなる。
(アニメと現実は違うのだから、アニメキャラの代わりに好きになるなんて展開はない)
リアルを性対象にしなきゃいかんのかと問われれば、私らが生殖によって繁殖する生物である以上、「そうです」と答えるしかない。

ただこの立場に立ち、「実際の生殖を行えないからアニメはダメだ」と言ってしまうと、同性愛等々を否定することになってしまいます。
それどころから、生殖を伴わない関係(老夫婦とか子供を育てる予定の無い夫婦とか)も否定することになる。
「生物としての自然さ」を強調したら、人間性を否定することになってしまった。


…で、こうして考えて行くと、規制賛成派の理屈がどうにもこうにも筋が通らない。
規制すべき根拠が不明確な上に、当人たちの中でも消化しきれていない自己矛盾した感情で騒いだら、反発されまくるのも当然です。
せめて筋の通った首尾一貫した思考をして欲しい。本当に。

【追記】

最後にもう一つ気付いた。

●仮説8「規制に反対する人はロリコンの犯罪者なので、反対する人がいる以上は規制すべきだから」

「陰謀の証拠が見つからないのは、証拠隠滅が図られた証拠。証拠がないことが陰謀があった証拠だ」「無罪を主張するなんてあやしい。あいつが犯人だ」論。

本末転倒を通り越し、もはや戦いのための戦いです。
巷の規制賛成派を見ていると、最も多い理由はこれのような気がしてきた。
上の立場のつもりで軽い気持ちで抑えつけようとしたら、あっさり負けてしまったので腹立ち収まらないといったところでしょうか。

この理屈に普通に反論するならば「私は犯罪者ではない」を示せばOK。
ところがこの法案自体が、誰であろうと犯罪者に仕立て上げることができるもの。
なるほど、だから「単純所持」に拘るのか。

よく「自分の子供の写真を持つことが犯罪なのか」との批判がありますが、「その通り。お前が持ってるなら犯罪だ。だってお前は犯罪者なんだから」が規制派の信念なのかもしれない。
しかし現行ではこれを犯罪とする方法がない。
故に「お前が持っているなら犯罪」の裏付けのために、「単純所持禁止」が必要になる。

そう考えると、法案の危険性に無頓着なのも分かる。
反対する犯罪者を裁くための法案なのだから、賛成している非犯罪者の自分らは関係ない。
論理構造がぐちゃぐちゃ過ぎますが…。(反対する=犯罪者だからといって、賛成する=犯罪者ではないは成り立たないし、それ以前に無茶苦茶)

曖昧性も少なく法案の趣旨にも合致する「児童の性行為を記録した媒体を作成すること」よりも、グレーな上に何を守ってるかも不明な「非実在も含めて、それっぽく見えるものの単純所持禁止」に執念を燃やすのも、「単純所持禁止」に反対する人が多いからでしょうか。
強く反対されればされるほど、反対すべき根拠が出てくればくるほど、「だから規制すべきだ」と信念を固めてしまうと。

恐ろしいことに陰謀論は反論不能です。(宗教ですので)
どれほど反論されても、何の根拠も示さず理由も述べないまま、執念深く食い下がってくるのは、このせいか。
あの人たちの頭の中では、「反対する人がいる」ことが根拠となり、「だから規制すべき」と筋道立って主張してるつもりなのかもしれない。

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読んだので批判する その2:「プリキュアでカウンセリングを呼びかけるべき」(アゴラ)

2013年06月16日 | 王様の耳はロバの耳
コメントをいただいたので、書いてみる。
(ちょっと攻撃的な文章になったかもしれませんが、コメントが不快だったとかそういったことではないです。引用元の記事が不快なので、ついこうなった)

[前回の私の記事より]
 果たして「必要条件」(児童に性的興味があるものは、圧倒的大多数がプリキュアに興味がある)は正しいのか?
 答えは即答できますね。「NO」です。
[いただいたコメント]
 私も必要条件とは思わないが、即答で「NO」とは言えないのでは?

[発端の記事]
[引用]
私はプリキュアは「幼児性的犯罪の必要条件」と言ってよい(比喩)と思っています。
(中略)
「必要条件(比喩)」というのは、「幼児に性的魅力を感じない人」もプリキュアを観るかどうかは関係なく、「幼児に性的魅力を感じる人」は、ほぼプリキュアに釣られてしまうでしょう。ということを言ってるに過ぎません。
「必要条件とは言えない」というなら、「プリキュアなんて全く興味がないけれど、幼児には猛烈に性的魅力を感じる」という人が出てくるなら、反証できるのですけれど……。そんな比喩はどうでも良い。
[引用終]


といったわけで、即答で「NO」と言える理由を二つ書いてみる。

【一つ目の理由】

引用元の筆者が根拠を示していないから。

根拠がないのだから、「いや違うよ」「だって「必要条件だ」という根拠がないから」。
これで終わり。
根拠を示す必要があるのは、「ある」と主張する側。出せないのなら、その時点で否定して終了です。

…と即答して一切相手にしないのが最も効果的だとは思うのですが、せっかくなのでもう一つの理由も書いてみる。

【二つ目の理由】

まず話を整理します。
引用元の筆者は「児童に対して性犯罪をする者は、プリキュアにも興味を持っている」と主張しています。

根拠が示されていないので推測にならざるを得ませんが、「児童に興味があるのだから、児童が出ているコンテンツにも興味があるはずだ」という思考回路だと思われます。
ある特定の興味を持っていた場合、それと関連するものにも興味を持つだろうという発想ですね。
それなりに、筋は通っているようには見えます。

…ですが、この思考は正しいのでしょうか?

そこで以下の仮説を考えてみよう。

 前提:「特定の興味を持つ者は、それと関連したものにも興味を持つ」

 『女子中高生に対する性犯罪者Aがいるとする』

 仮説(1) 性犯罪者Aは、女性が好き
 仮説(2) 性犯罪者Aは、女子中高生が好き
 仮説(3) (性犯罪者Aは、ドラマが好き)
 仮説(4) 性犯罪者Aは、女子中高生が出るドラマが好き
 仮説(5) (性犯罪者Aは、アニメが好き)
 仮説(6) 性犯罪者Aは、女子中高生が出るアニメが好き
 仮説(7) 性犯罪者Aは、プリキュアが好き

それぞれの仮説の確からしさは、
 『仮説(1)が最も可能性が高く』
 『下に行くにつれ順に低くなり』
 『仮説(7)が最も可能性が低い』
です。

直感的には、「女子中高生を狙った犯罪者ならば、仮説(2)の方が(1)より可能性が高いのでは?」と思うかもしれません。
が、それは典型的な論理の錯誤。
「女子中高生」は「女性」なのだから、仮説(2)を満たす場合は、必ず(1)も満たします。
したがって、必ず仮説(1)>仮説(2)となる。
(元記事の筆者もこの錯誤を起こしてる気がする。だから訳の分からんことを言いだしてるんだろう)

仮説(2)>仮説(4)となるのは、「性質が近いものを好むはずだ」の前提があるから。
「生身の女子中高生」の方が、「フィクションのドラマ」よりも、「性犯罪の対象にした女子中高生」に近いので、この大小関係が成り立ちます。
仮説(4)>仮説(6)も同様。

仮説(3)>仮説(4)の理由は、「女子中高生が出るドラマ」は「ドラマ」なので、(4)が成り立つときは必ず(3)も成り立つから。
仮説(5)>仮説(6)>仮説(7)も同様。

ここまでは(前提を正しいとすると)根拠を示さずとも確実に即答で言える。(※1)
否定しようとすると、前提の「特定の興味を持つ者は、それと関連したものにも興味を持つ」が否定されてしまいますので、自動的に「児童性犯罪者とプリキュアは必要条件である」の主張も崩れ去ります。

対面で議論する際には、上手いこと挑発して相手自らにこれを否定するように持っていくことになるでしょうね。
例えば「性犯罪者はドラマよりもアニメを好むはずだ」と言わせることができたら、そこで終了です。

ここからの展開の仕方は概ね2つ。
「仮説(1)>(2)>(4)>(6)>(7)は成り立たないことを示す」(=前提と矛盾するので、前提は誤りとなる)か
「仮説(7)の可能性は非常に低いことを示す」(=前提とは直接的には矛盾しないが、関連性は非常に薄い)です。

まず前者。
材料なしでやるその場限りの議論では、これが一番有効です。
前述したとおり、アホな人なら論理構造に気が付かず、勝手に墓穴を掘って自爆してくれるでしょう。
(あまりにアホすぎると、敗北を理解してくれない可能性がありますが…)

ぱっと見て簡単そうなのは、仮説(4)>仮説(6)を崩すことでしょうね。
これ、言いかえると「アニメ好きはドラマも好きである」と言ってる。
普通に考えて違うでしょうね。(※2)

ちゃんと数字を調べてやるのなら、後者の「仮説(7)の可能性は非常に低いことを示す」。
もっとも、本来は相手が先に「仮説(7)は非常に高い」ことを示さないといけないのですけれど。
そして結局は前者と同じ理由で否定できるでしょう。

よって、いたって簡単に即答で「NO」と言える。


(※1)
 但し、(2)>(3)および(4)>(5)は不確定。
 生身の人間に危害を加えていることから、「女子中高生であること」よりも「現実の女性であること」への依存度が高いと感じたので、とりあえずこう置いてみた。
 故に括弧つきで書いています。
 (違ったとしても、後続の内容に特に影響はなし)

(※2)
 ここでは「(1)>(2)>(4)>(6)>(7)が成り立つかどうかは、犯罪者か一般人かで左右されない」ことを前提にしています。
 要は、「一般人の場合、ドラマを好きな人の内、40%がアニメも好き」だとしたら、犯罪者の場合も同じく40%で好むとする。
 犯罪者にのみ特殊な仮説が成り立つと主張すると(犯罪者はアニメを好む割合が高いはずだ、とか)、自動的に前述の「前提」が崩れます(児童が好きだから児童アニメが好きなのではなく、犯罪者特有の理由で好きなことになる)ので、いずれにせよ論が破綻します。
 
【まとめ】

まとめると、「児童性犯罪者ならばプリキュア好きである」の主張が、「女の子が好きなのだから、女の子の出てくるアニメも好きだろう」(関係性のあるものを好む)という前提によるものならば、即答で「NO」といえる。

「アニメの女性が好きだからって、現実の女性が好きとは限らない」「現実の女性が好きだからといって、アニメの女性が好きとは限らない」、この恐ろしく当たり前の事実を、理解できないものなのかしら。
多分、「現実の女性に相手にされないので、アニメの女性で我慢している」とか、そんな認識なんでしょうけど。
実際には「現実の女性の代替物としてプリキュアが好きなのではなく、プリキュアはプリキュアだから好きだ」なんです。

そして「いや、主張の根拠は違うものだ」とか「性犯罪者と一般人は違う」(性犯罪者はアニメを好む等)と言うのなら、「性犯罪者は特徴的にプリキュアを好む」というかなり極端な仮説を、根拠も述べずに書いたことになる。
いずれにせよ、終了ですね。

…というか長々書きましたが、「プロ野球ファンは「ドカベン」も好きだ」「ドカベンは必要条件だ」程度の話なんですよ、これ。
「プロ野球ファンで、漫画も好き」なら「ドカベンも好き」の可能性は比較的高くなるでしょうが、「漫画好き」という「プロ野球」と直接関係のない要素が必要になってきちゃう。

【蛇足】

そういえば書いてなかったので、追記。

引用元の記事では「プリキュアでカウンセリングを呼び掛けるべき」とあります。
性犯罪者とプリキュアは必要条件でも十分条件でもないので、全くの無意味です。
「全てのコンテンツで呼びかけるべき」ならば、説得力がなくはないですが。

また、そこに目をつぶって『仮に』必要条件だったとします。
それでもやっぱり、カウンセリングを呼び掛ける理由としては不足しています。
何故なら同様の構造は、他の趣味にも当てはまるから。

暴力衝動を格闘技で昇華するとか、独占欲を原動力に商売に励むとか、別段珍しい話ではありません。
従って、筆者の理屈に従えば、柔道教室では「暴力を抑えるようにカウンセリングを受けよう」とアピールし、ビジネス研修では「仕事が好きな貴方は独占欲の塊かもしれません。一度、カウンセリングを受けては?」と勧める必要が出てきます。
少なくとも、この程度の説得力しかない。

実際に言動がおかしい(暴力を振るったり、違法営業をしたり)のなら、この言い分もわからなくはない。
ですが、内面に限ったことを(しかも昇華しているのに)とやかく言われる筋合いはありませんし、犯罪傾向の無い多数の人にとっては迷惑以外の何物でもありません。

時代劇の冒頭に「刃物を使った犯罪者は時代劇が好きです。殺陣が好きな貴方はカウンセリングを受けましょう」、カーアクションのシーンが出るたびに「違法運転に興味がおありですか?カウンセリングを受けましょう」と表示するような社会は、誰も望んでいないと思うのです。

【蛇足2】

「女の子が好きだから、女の子の出てくるアニメも好きだろう」というシンプルな根拠を前提に書きました。
(そしてそれが間違いであることを示した)

筆者が根拠を示していないので、それ以上の「反論」は困難(反論する相手がいない)です。
ただ推測するに、次に来る言いわけはおそらく「女の子が好きだから、女の子が好きなアニメも好きだろう」かなと思います。
それなりにシンプルに妥当性があるように見えます。が、これもやっぱり事実とは違う。

本当に「自分の好きな人が好きなものを、その人も好きになる」のだとしたら、世のカップル・夫婦間の趣味や価値観を源とした対立は存在しません。
夫が野球好きだと、妻もほぼ例外なく野球好きになるとでも思ってるんですかね…。(※3)


(※3)
「二人とも野球が好きなので、趣味や価値感が似通っていたので惹かれあい、結果的に夫婦になった」は上記とは逆の現象なので含まれません。
「プリキュアが好きなので、子供とも会話があい、仲良くなった」のパターンですね。

念のために書きますが、そこから「プリキュアが好きなので、子供に対して性犯罪をした」には繋がりません。
それは「野球を好きな男は、野球を好きな女を見たら性犯罪に走る」「だから野球好きはカウンセリングを受けるべき」とほぼ同じことを言ってる。
筆者の言う必要条件と十分条件が入れ替わっちゃいますね。

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