不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

老人党リアルグループ「護憲+」ブログ

現憲法の基本理念(国民主権、平和、人権)の視点で「世直し」を志す「護憲+」メンバーのメッセージ

国家主義者の発想(安倍流政治の毒)

2018-03-21 17:17:52 | 自民党政治
文科省の前次官、前川喜平氏が行った名古屋市立中学での講演内容や実態について、文科省が問題視、市教育委員会に何度もメールを送っていた。この背後に、自民党文科部会会長の赤池誠章参院議員(比例)と部会長代理の池田佳隆衆院議員(比例東海)の2人の露骨な関与があった。自民党文科部会のトップ2人が、教育現場に露骨な“政治介入”した事になる。

この2人には、戦後教育の出発点がどこにあったか、という知識もなければ、戦前教育の反省点がどこにあったかという歴史的な問題意識もないのだろう。だから、平気で教育現場に対する“政治介入”ができる。2人は典型的な安倍チルドレンで典型的な「国家主義的思想」の持主らしい。

カーリング女子と裁量労働制法案」でも触れたが、欧州(特にオランダ)の民主主義的思想は、公(国家)・公共(PUBLIC)・私 とをきちんと分けて考える。間違っても、私≒国家などという思考は取らない。ところが、日本の民主的思考は、公(国家)・私はあるが、「公共」という考え方が弱い。特に西欧流の「PUBLIC」という思考が希薄である。

戦後民主主義は、昭和20年代は「PUBLIC」思想を構築するために、公立学校で積極的に子供たちの「自治活動」が奨励された。わたしたちの年代では、「生徒自治会」が盛んにおこなわれ、積極的に子供たちが参加した。

ここでのキーワードは「自治」。子供たち自身が「話し合い」、自分たちの手で自分たちの学校生活の秩序やルールを作り上げていく過程で、「西欧流PUBLIC」≒「日本流公共」を学び、自分たちの血肉と化していくことで、戦前の戦争を主導した「国家主義的思考」を克服するという願いが込められていた。(※ オランダ流民主主義の原点である洪水の防ぎをどうするかという話し合いのやり方の追体験)

ところが、戦後復興が進み、日本が経済大国に成長するにつれ、国内では戦前の深刻な戦争体験が風化。政治的に、自民党一党支配が固定化するにつれ、教育現場では「自治会」という言葉が消えていった。代わって使われたのが、「生徒会」。教育現場から、「自治」という言葉がじょじょに消え失せていった。

この傾向はじょじょに地域共同体にも浸透し、「各の自治体」だったものが、「部落会」という名称に代わっていった。それにつれ、「地方自治体」の力が減殺され、国の力が大きくなった。中央政府から補助金をもらい、何とか地方の行政をやりくりするいわゆる「補助金行政」が当たり前になった。戦前型、否戦前より強力な「中央集権国家」の成立である。

安倍政治は、戦後強力になった「中央集権型民主国家」を、「中央集権型独裁国家」に変貌させるのが目的である。

冒頭に述べた自民党代議士の教育現場への介入は、この文脈で行われている事を忘れてはならない。

「愛国無罪」という言葉がある。例えば、誰が見ても非道で、反国民的で、自らの利益のためなら平気で国益を売り渡す売国的政治家を暗殺したとする。暗殺者の動機は、国を愛するがゆえに、このような政治家を許せないと思った点にある。

近代的法治国家なら、たとえ動機が正しくても、暗殺者の行為は「殺人」である。「殺人罪」で起訴され、裁かれる。これが常識。ところが、法的には殺人でも、動機が「愛国心」に満ち溢れているのだから、暗殺者の行為は罪を減ぜられるべきである、という議論がある。

実はこの思考は意外に感覚的賛同者が多い。右派的思考に絡めたとられた人間にもこの傾向が強いと思う。

今回、教育現場に“政治介入”した自民党議員2人も同じだと思える。彼らの動機が何かは、議論があるようだが、彼らは平気で戦後教育のタブーを破った。自分は愛国者で、前川前文科事務次官は、自分たちに逆らう反逆者。少々のことをしても問題ない、と考えたに相違ない。

この思考法を見れば、彼らの脳裏に「PUBLIC≒公共」という視点が全くないことが良くわかる。彼らの脳裏にあるのは、「国家=自民党=私」と「前原前次官=国家に対する反逆者」という図式しかない。だから、平然と教育現場への“政治介入”ができる。

もし、彼らの頭に「PUBLIC≒公共」(皆で考え、話し合い、みなで決めた事柄を尊重し、政治はそれを法制化するのが仕事)という思考があれば、国が教育現場を支配し、国の思い通りに国民を扇動したことがあれだけ悲惨な戦争を招いたのだから、決して国が“教育現場”へ介入し、教育を一元的に支配するようなことをしてはならない、という戦後教育の出発点の真の意味を分かったはずである。

財務省の公文書改竄事件(森友問題)も根は同じ。財務官僚たちが、「PUBLIC≒公共」の視点を忘れているからである。

たとえ、総理大臣の妻が背後にいたとしても、国有財産を適正な価格で売買するというのは、「PUBLIC≒公共」の利益である。官僚はこの「公共の利益」に従わなければならない。「官僚は国民全体の奉仕者」というのは、そういう意味である。

わたしたちは、今こそ「PUBLIC≒公共」の意味と重要性を考え見直さなければならない。「公=公共」では決してないことを、安倍政権の暴政が可視化された今だからこそ、国民一人一人が考え直す好機である。

「護憲+BBS」「政権ウォッチング」より
流水
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする