安田純平氏が三年有余の監禁状態から解放され、ようやく帰国できた。それに対し、ネット上では、未だに「自己責任論」を主張する輩が後を絶たない。
【本然の性】という言葉がある。人間の自然の情とでも言うべき性質を表す言葉である。
その【本然の性】に従えば、生死の境目の状況を三年以上耐えて生還した人間に対し、「助かって良かったな」と声をかけるのが普通の人間。その人間の生還に対し、罵声を浴びせかけるのは、人間としての本然の性に反する。
わたしは、安田純平氏の帰国に対し、「自己責任」だという大合唱を浴びせかける人々は、人間の【本然の性】に反すると考えている。【本然の性】に反する言動をすれば、いつか自分自身に跳ね返ってくる。仏教用語で言えば、「因果応報」という。
本来、人間は日常のほとんどの事を「自己責任」で行っている。車の運転をするのも自己責任。昼飯に何を食べるかを決定するのも自己責任。仕事終わりに一杯飲むのも自己責任。大人の行動の大半は【自己責任】である。
安田純平氏もそう生きている。シリアの内戦地帯に入る事は、命の危険にさらされる事は常識。まして、彼は戦場ジャーナリスト。そんな事は誰よりも良く知っている。
それでも彼はシリアに入った。自らの命を犠牲にしても伝えたい事があると彼は信じていたのだろう。以前、「シリア内線の悲惨さは、世界がそれを積極的に知ろうとしなかったことが大変大きい」と彼は語っていた。
彼が自らの命をかけて伝えたかったシリア内線の悲惨さ、戦禍に翻弄されるシリアの子供たちへの支援の訴え。そういうものは、抽象的には理解できても、現場に出かけなければ、本当の意味での説得力は生まれない。
たしかに、「なんでお前がしなければならないのだ」とか「そんな事は誰かにさせれば良い」とか「そんな事はお前の責任ではない。国家や国連の責任だ」という意見は成立する。
だがよく考えてほしい。「あんな女と付き合うな」とか「あの男は駄目だ」という意見をする人はたくさんいる。それを聞く人間もいるだろうが、「あの女性でなくては駄目だ」と意見を振り切る人間もいる。
安田俊平氏は、「あの女性でなくては駄目だ」というタイプ。こういう生き方をする人の行為の評価は二分する場合が多い。失敗すると、「だから言わんこっちゃない。馬鹿なんだから」となる。成功すると、「あの人は純情で一途なんだから。惚れられた女は幸せだ」となる。
安田氏のようなフリーランスのジャーナリストは、そういう生死を分ける塀の上をつま先で歩いているようなきわどい位置で仕事をしている。彼らは、大手メディアの社員ではない。会社の縛りがない。大手メディアの社員の場合、そのような危険の大きい場所の取材はほとんどできない。何故なら、万が一社員が危険な目にあった場合、命じた会社の責任は免れない。だから、会社は万が一を恐れ、取材許可を出さない場合が大半。
彼らはその点は自由。危険を承知で取材する。それが彼らのアイデンティティと言って良い。だから、彼らほど「自己責任」意識の強い人間はいないと言って良い。
それと日本政府の【邦人保護】義務とは全く話が違う。外務省の所掌事務を定めた法令の第四条 八、九を書いておく。
八 日本国民の海外における法律上又は経済上の利益その他の利益の保護及び増進に関すること。
九 海外における邦人の生命及び身体の保護その他の安全に関すること。
・・・・・・・
邦人の生命及び身体の保護は、政府の仕事なのである。そして、その邦人の思想信条の遺憾を問わず、日本国民であればだれでも生命及び身体の保護を受ける権利がある。
ついでに自己責任論について外務省見解を紹介しておく。
・・「外務省としては、「自己責任」を主張することによって邦人保護という責務を回避しようとしているわけではありません。邦人保護は、政府の重要な任務であると考えており、国民の皆様が海外で危険に遭遇された場合には、その時々の状況を踏まえ全力を尽くして支援する方針に今後とも何ら変わりはありません。実際、イラクにおいて人質事件が発生した際には、人質となられた方々が一刻も早く無事に解放されるよう職員を総動員し、あらゆる外交努力を重ねるなど全力を挙げて取り組んできました。
しかし、外国においては、治安の確保は現地政府の責任であり、日本政府の取り組みにも国によって様々な制約があります。例えばイラクにおいては、テロリストなどの活動により、治安は非常に厳しい状況にあります。大使館員も常にテロの脅威に晒されているため移動を含め行動に大きな制約があります。このような状況の中では、邦人保護業務も極めて大きな制約を受けます。したがって、自らの安全を確保する上では、そもそも可能な限り危険に遭遇しないよう、危険を十分認識し、慎重に行動することが何よりも重要です。そして、このような自らの行動についての判断は、国民一人一人が、自らの責任において行うものであると考えています。」・・・
これはイラクでの高遠さんらの事件が尾を引いている時に書かれたもの。さすが官僚の作文で、「このような自らの行動についての判断は、国民一人一人が、自らの責任において行うものであると考えています。」と【自らの行動の判断】は【自己責任】ですよ、と書いている。ここに書かれているのは、【行動の判断】は「自己責任」ですよ、といっているに過ぎない。【行動の結果】についての「自己責任」論はない。
当たり前で、「行動の結果」についてまで「自己責任論」を広げると、邦人保護の責務回避だと批判されても仕方がない。
たしかに外務省は「自らの安全を確保する上では、そもそも可能な限り危険に遭遇しないよう、危険を十分認識し、慎重に行動することが何よりも重要です。」とできればこのような戦争地帯に踏み入らないように危険情報も出している。
その外務省の立場と真実を伝えようとするジャーナリズムの立場は相反する。しかも、日本の場合、そういうジャーナリストはたいていの場合、フリーランス。つまり、組織の論理に逆らっても真実を伝えようとする個人だと考えられる。
現在喧伝されている「自己責任論」は、外務省のいう「行動の判断」の自己責任論ではない。「行動の結果」の自己責任論である。これは外務省(国)の邦人保護の責務の免除論に他ならない。
安田純平氏はきちんと税金を納めている日本国民であり、邦人保護を受ける権利がある。それを自己責任論で同じ国民が責め立てる。わたしには、同じ日本人とは思えない。
現在の安倍政権の政策を見たら、国の本音は、生活保護など出したくない、雇用保険も出したくない、健康保険もやめてしまいたい、年金など削れるだけ削る。すべて「自己責任」にしてしまいたい。それを国民の側から「自己責任」だと言ってくれる。こんな素晴らしい国民はいない。
誰かがうまいことを言っていた。こういう国民を【肉屋を支持する豚】と。
「護憲+BBS」「新聞記事などの紹介」より
流水
【本然の性】という言葉がある。人間の自然の情とでも言うべき性質を表す言葉である。
その【本然の性】に従えば、生死の境目の状況を三年以上耐えて生還した人間に対し、「助かって良かったな」と声をかけるのが普通の人間。その人間の生還に対し、罵声を浴びせかけるのは、人間としての本然の性に反する。
わたしは、安田純平氏の帰国に対し、「自己責任」だという大合唱を浴びせかける人々は、人間の【本然の性】に反すると考えている。【本然の性】に反する言動をすれば、いつか自分自身に跳ね返ってくる。仏教用語で言えば、「因果応報」という。
本来、人間は日常のほとんどの事を「自己責任」で行っている。車の運転をするのも自己責任。昼飯に何を食べるかを決定するのも自己責任。仕事終わりに一杯飲むのも自己責任。大人の行動の大半は【自己責任】である。
安田純平氏もそう生きている。シリアの内戦地帯に入る事は、命の危険にさらされる事は常識。まして、彼は戦場ジャーナリスト。そんな事は誰よりも良く知っている。
それでも彼はシリアに入った。自らの命を犠牲にしても伝えたい事があると彼は信じていたのだろう。以前、「シリア内線の悲惨さは、世界がそれを積極的に知ろうとしなかったことが大変大きい」と彼は語っていた。
彼が自らの命をかけて伝えたかったシリア内線の悲惨さ、戦禍に翻弄されるシリアの子供たちへの支援の訴え。そういうものは、抽象的には理解できても、現場に出かけなければ、本当の意味での説得力は生まれない。
たしかに、「なんでお前がしなければならないのだ」とか「そんな事は誰かにさせれば良い」とか「そんな事はお前の責任ではない。国家や国連の責任だ」という意見は成立する。
だがよく考えてほしい。「あんな女と付き合うな」とか「あの男は駄目だ」という意見をする人はたくさんいる。それを聞く人間もいるだろうが、「あの女性でなくては駄目だ」と意見を振り切る人間もいる。
安田俊平氏は、「あの女性でなくては駄目だ」というタイプ。こういう生き方をする人の行為の評価は二分する場合が多い。失敗すると、「だから言わんこっちゃない。馬鹿なんだから」となる。成功すると、「あの人は純情で一途なんだから。惚れられた女は幸せだ」となる。
安田氏のようなフリーランスのジャーナリストは、そういう生死を分ける塀の上をつま先で歩いているようなきわどい位置で仕事をしている。彼らは、大手メディアの社員ではない。会社の縛りがない。大手メディアの社員の場合、そのような危険の大きい場所の取材はほとんどできない。何故なら、万が一社員が危険な目にあった場合、命じた会社の責任は免れない。だから、会社は万が一を恐れ、取材許可を出さない場合が大半。
彼らはその点は自由。危険を承知で取材する。それが彼らのアイデンティティと言って良い。だから、彼らほど「自己責任」意識の強い人間はいないと言って良い。
それと日本政府の【邦人保護】義務とは全く話が違う。外務省の所掌事務を定めた法令の第四条 八、九を書いておく。
八 日本国民の海外における法律上又は経済上の利益その他の利益の保護及び増進に関すること。
九 海外における邦人の生命及び身体の保護その他の安全に関すること。
・・・・・・・
邦人の生命及び身体の保護は、政府の仕事なのである。そして、その邦人の思想信条の遺憾を問わず、日本国民であればだれでも生命及び身体の保護を受ける権利がある。
ついでに自己責任論について外務省見解を紹介しておく。
・・「外務省としては、「自己責任」を主張することによって邦人保護という責務を回避しようとしているわけではありません。邦人保護は、政府の重要な任務であると考えており、国民の皆様が海外で危険に遭遇された場合には、その時々の状況を踏まえ全力を尽くして支援する方針に今後とも何ら変わりはありません。実際、イラクにおいて人質事件が発生した際には、人質となられた方々が一刻も早く無事に解放されるよう職員を総動員し、あらゆる外交努力を重ねるなど全力を挙げて取り組んできました。
しかし、外国においては、治安の確保は現地政府の責任であり、日本政府の取り組みにも国によって様々な制約があります。例えばイラクにおいては、テロリストなどの活動により、治安は非常に厳しい状況にあります。大使館員も常にテロの脅威に晒されているため移動を含め行動に大きな制約があります。このような状況の中では、邦人保護業務も極めて大きな制約を受けます。したがって、自らの安全を確保する上では、そもそも可能な限り危険に遭遇しないよう、危険を十分認識し、慎重に行動することが何よりも重要です。そして、このような自らの行動についての判断は、国民一人一人が、自らの責任において行うものであると考えています。」・・・
これはイラクでの高遠さんらの事件が尾を引いている時に書かれたもの。さすが官僚の作文で、「このような自らの行動についての判断は、国民一人一人が、自らの責任において行うものであると考えています。」と【自らの行動の判断】は【自己責任】ですよ、と書いている。ここに書かれているのは、【行動の判断】は「自己責任」ですよ、といっているに過ぎない。【行動の結果】についての「自己責任」論はない。
当たり前で、「行動の結果」についてまで「自己責任論」を広げると、邦人保護の責務回避だと批判されても仕方がない。
たしかに外務省は「自らの安全を確保する上では、そもそも可能な限り危険に遭遇しないよう、危険を十分認識し、慎重に行動することが何よりも重要です。」とできればこのような戦争地帯に踏み入らないように危険情報も出している。
その外務省の立場と真実を伝えようとするジャーナリズムの立場は相反する。しかも、日本の場合、そういうジャーナリストはたいていの場合、フリーランス。つまり、組織の論理に逆らっても真実を伝えようとする個人だと考えられる。
現在喧伝されている「自己責任論」は、外務省のいう「行動の判断」の自己責任論ではない。「行動の結果」の自己責任論である。これは外務省(国)の邦人保護の責務の免除論に他ならない。
安田純平氏はきちんと税金を納めている日本国民であり、邦人保護を受ける権利がある。それを自己責任論で同じ国民が責め立てる。わたしには、同じ日本人とは思えない。
現在の安倍政権の政策を見たら、国の本音は、生活保護など出したくない、雇用保険も出したくない、健康保険もやめてしまいたい、年金など削れるだけ削る。すべて「自己責任」にしてしまいたい。それを国民の側から「自己責任」だと言ってくれる。こんな素晴らしい国民はいない。
誰かがうまいことを言っていた。こういう国民を【肉屋を支持する豚】と。
「護憲+BBS」「新聞記事などの紹介」より
流水
彼は単に戦場ジャーナリストとしての危機管理能力が欠如している2流ジャーナリストなだけです
1度や2度、人質となったというのならまだしも、5回も人質になったのですから、戦場ジャーナリストとしての危機管理能力が無いことは否定しようがありません
そして、彼は社会人なのですから、その能力は実績で評価されます
彼は人質として3年間、閉ざされた空間に閉じ込められ、戦場の悲惨さを取材することはできませんでした
よって、少なくともシリアでの戦場ジャーナリストとしての仕事の実績はゼロです
ただ、戦場の悲惨さではなく、監禁生活の悲惨さを伝えることはできるでしょう
監禁生活ジャーナリストとしては合格です