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日本軍敗戦の歴史に学ぶ 無責任の構図(組織の腐敗)(2)

2019-09-01 13:04:54 | 戦争・平和
「インパール作戦」

このような地獄の戦場を這いずり回った日本軍の中でも「インパール作戦」の悲惨さは他に類をみないものだった。

2017年9月NHKBSで放映された【無謀と言われたインパール作戦 戦慄の記録】は、新しく発見された英国側の資料も含めてかなり正確にインパール作戦の全貌を伝えている。

以下、この映像に基づいて書いてみる。

◎【インパール作戦】とは
ビルマ(現在のミャンマー)で行われた作戦。1944年3月に決行された。

(概要)
チンドウイン川(川幅600m)を渡河。2000m級の山を越え、ビルマから国境を越え、インドにある英軍の拠点「インパール」を3週間で攻略する作戦。

(結果)
日本軍は誰一人「インパール」にだどり着けず、3万人が戦死した。大失敗の作戦。

(作戦計画の歴史的経緯)
1942年1月、日本軍はイギリス領ビルマに侵攻。全土制圧。イギリス軍はインドに撤退。
大本営はインド侵攻を計画したが、戦線が拡大しすぎと見て、保留。
1943年、太平洋で日本軍は連敗⇒戦況悪化が顕著
同時期、体制を立て直したイギリス軍がビルマ奪還を目指し反撃。
戦況悪化の打開とイギリス軍への反撃のため、ビルマ侵攻作戦が再び浮上。
1943年 大本営 ビルマ方面軍を新設 司令官川辺正三。

※川辺正三
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E8%BE%BA%E6%AD%A3%E4%B8%89
彼は着任前、東条英機首相から事態の打開を指示されて着任。

同じ時期、牟田口廉也中将がビルマ方面軍隷下の第15軍司令官へ昇進。インパールへの進攻を強硬に主張した。
※牟田口廉也
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9F%E7%94%B0%E5%8F%A3%E5%BB%89%E4%B9%9F

当時、大本営では、牟田口の主張するインパール進攻作戦には、懐疑的な参謀が多かった。しかし、この無謀ともいえる「インパール」進攻作戦は裁可された。

その理由が振るっている。当時の大本営杉山参謀総長は以下のように語ったとされている。「杉山参謀総長が『寺内(総司令官)さんの最初の所望なので、なんとかしてやってくれ』と切に私に翻意を促された。結局、杉山総長の人情論に負けたのだ。」(眞田穰一郎少将手記)

こうして、1944年1月7日 「インパール作戦」は発令。

★インパール作戦の詳細

◎戦略目的
1944年当時、ビルマの制空権は連合国が握る。制空権を握った連合国軍は、中国との連絡網の奪還に動く。少数精鋭のゲリラ部隊をビルマ北部に潜入させ、これに空から補給を行なって、中国軍と連携させることに成功。

この情勢を放置しては、ビルマを征服した意味が無くなる。そこで、イギリスの最前線基地であるインパールを攻略し、彼らの意図を挫折させるのが目的。

※多くの人が間違えるのだが、日本陸軍の最大の敵は中国。南太平洋での米軍との戦いは、海軍・空軍主体。陸軍の作戦目的の主体は、中国戦線をどう有利に導くか、を主眼としている。
 
◎作戦計画
(A) 作戦の時間的計画⇒雨期の襲来を避けるため⇒3週間の短期決戦
(B) 人員⇒3つの師団と9万人の将兵
(C) 南⇒第33師団  ⇒インパールへ
   中央⇒第15師団 ⇒インパールへ
   北 ⇒ 第15師団 ⇒北部の都市 コヒマ攻略
(D)チンドウイン川(600m)と2000m級の山(アラカン山系)を越え、最大400kmを踏破する大作戦

(E)兵站計画
・食料 ⇒作戦計画では、インパール攻略までの期間は、3週間。⇒そのため、3週間分の食料しか持たされなかった。
・補給 ⇒標高2,000メートルを超える山が幾重にも連なるアラカン山系。車が走れる道はほとんどない。トラックや大砲は解体して持ち運ぶ。崖が迫る悪路の行軍は、想像を絶するものだったという。兵士たちは、戦いを前に消耗していった。

こういう戦場でどうやって補給路を確保するか。答えは一つ。【空路】以外にない。ところがインパール作戦では、空軍の支援はなかった。と言う事は陸路以外に補給路はない。これが容易にできないことくらい小学生でも想像がつく。

イギリス軍は、空路での補給路を確保しており、弾薬・物資・食料の確保に問題なく、日本軍との差は歴然としていた。インパール作戦大失敗の最大の理由が、兵站(食料と補給路の確保)ができなかった点に求められる。

食糧確保と物資郵送の両方を解決できると牟田口司令官が考案したという作戦が、【ジンギスカン作戦】。

※ジンギスカン作戦 ウィキペディア

・・・・この作戦中、牟田口が要望した自動車等の補給力増強がままならないため、牟田口は現地で牛を調達し、荷物を運ばせた後に食糧としても利用するという「ジンギスカン作戦」を発案した。しかしもともとビルマの牛は低湿地を好み、長時間の歩行にも慣れておらず、牛が食べる草の用意もおぼつかなく、また日本の牛とも扱い方が異なったため]、牛はつぎつぎと放棄され、「ジンギスカン作戦」は失敗した・・・・

◎戦いの経緯
(A) 作戦開始から2週間目
 (イギリス軍との最初の衝突)=インパールから110kmの一帯。第33師団(南からインパールを目指す)の戦闘。
 (結果)
イギリス軍の戦車砲や機関銃をあび、1,000人以上の死傷者を出す大敗北。

第33師団 柳田元三師団長は牟田口司令官に「インパールを予定通り3週間で攻略するのは不可能だ」として【作戦変更】を強く進言。

他師団からも作戦変更の進言が相次ぐ。

🔷当時、牟田口司令官に仕えていた齋藤博圀少尉の手で、牟田口司令官と参謀との会話が記録されている。
「牟田口軍司令官から作戦参謀に『どのくらいの損害が出るか』と質問があり、『ハイ、5,000人殺せばとれると思います』と返事。最初は敵を5,000人殺すのかと思った。それは、味方の師団で5,000人の損害が出るということだった。まるで虫けらでも殺すみたいに、隷下部隊の損害を表現する。参謀部の将校から『何千人殺せば、どこがとれる』という言葉をよく耳にした。」(齋藤博圀少尉の回想録)

戦後、イギリス軍によるインパール作戦関係者17人の聞き取り

🔷コヒマの戦い(第31師団、佐藤師団長の証言)
第31師団、1万7千人が、イギリス軍と激突。
※佐藤師団長の証言
・・「コヒマに到着するまでに、補給された食糧はほとんど消費していた。後方から補給物資が届くことはなく、コヒマの周辺の食糧情勢は絶望的になった。」(佐藤幸徳師団長 調書より)・・・

コヒマの戦闘⇒2ケ月続く。日本軍兵士の戦死者⇒約3,000人。

この戦いは日本本土で華々しく報道される。

大本営は、この作戦の継続に執着していた。

インパール作戦の現地視察をした秦中将の報告を東条英機首相は聞き入れなかった。

・・・・「報告を開始した秦中将は『インパール作戦が成功する確率は極めて低い』と語った。東條大将は、即座に彼の発言を制止し話題を変えた。わずかにしらけた空気が会議室内に流れた。秦中将の報告はおよそ半分で終えた。」(元東条英機秘書官 西浦大佐の証言)・・・

※翌日の東条英機の天皇への上奏文
・・・「現況においては辛うじて常続補給をなし得る情況。剛毅不屈万策を尽くして既定方針の貫徹に努力するを必要と存じます」・・・・

1944年5月(作戦開始から2ケ月)
牟田口司令官⇒苦戦の原因は、現場の指揮官=(師団長)の無能さにあるとして更迭。
作戦中にすべての師団長を更迭するという異常な事態に陥った。

牟田口司令官は、第33師団を直接指揮。

(作戦方針)
全兵力を動員し、軍戦闘司令所を最前線まで移動させることで、戦況の潮目を一気に変える計画。

この作戦はイギリス軍の思惑通りの結果になった。(全て読まれていた)

・・・「われわれは、日本軍の補給線が脆弱になったところでたたくと決めていた。敵は雨期までにインパールを占拠できなければ、補給物資を一切得られなくなることは計算し尽くしていた。」(ビルマ奪還に当たっていたイギリス軍のスリム司令官の証言)・・

🔷レッドヒルの攻防(日本軍兵士のあまりに多くの血が流されたのでそう呼ばれている)

第33師団は、インパールまで15キロの小高い丘にあるイギリス軍の陣地を攻めた。作戦開始から2ケ月、日本軍に戦える力はほとんど残されていなかった。牟田口司令官は、残存兵力をここに集め、「100メートルでも前に進め」と総突撃を指示し続けた。武器も弾薬もない中で追い立てられた兵士たちは、1週間あまりで少なくとも800人が戦死した。

🔷白骨街道 (インパール作戦失敗後の撤退路をそう呼ぶ)

1944年6月 インド・ビルマ国境は雨期に入る。当時の降水量は、1ケ月の降水量は、1,000mmを超えていた。悪いことに、30年に一度の大雨だった、と言われている。作戦開始から3ケ月。死者数は、1万人近い。

6月5日 河辺ビルマ方面軍司令官が牟田口司令官を訪問。⇒お互いに作戦中止を考えながら、切り出せず、作戦中止命令を出せなかった。

戦死者は増加の一途

大本営が作戦中止を命令したのは、7月1日。

☆ここから「インパール作戦」の本当の悲劇が始まる。

🔷戦死者の6割が作戦中止後に集中している。

〇第33師団
レッドヒル一帯の戦闘で敗北⇒猛烈な雨の中、撤退を始める。⇒チンドウィン河を超える400kmの撤退路。⇒兵士は飢餓と疲れと病気や怪我で次々倒れ、死体が積み重なっていった。暑さと雨で腐敗が進行。ウジとハエが群がる死体。あっという間に死体は、【白骨】になった。兵士たちは自らの運命を呪って、【白骨街道】と呼んだ。

第31師団⇒コヒマ攻略に失敗。⇒後方の村に補給基地があると信じて撤退。⇒しかし、補給は全くなかった。
※分隊長だった佐藤哲雄さん(97)の証言。
・・・「(インドヒョウが)人間を食うてるとこは見たことあったよ、2回も3回も見ることあった。ハゲタカも転ばないうちは、人間が立って歩いているうちはハゲタカもかかってこねえけども、転んでしまえばだめだ、いきなり飛びついてくる。」(佐藤さん)・・・

🔷作戦中止後、牟田口司令官は解任され、本国に召還される。残された部下たちは、悲惨な退却戦を戦う。(古来より、戦での死者は退却戦が一番多い)

牟田口司令官に仕え、「味方5千人を殺せば陣地をとれる」という言葉を記録していた齋藤博圀少尉は、前線でマラリアにかかり置き去りにされた。(当時の日本軍は、負傷者・病人は、置き去りにして、自殺用の毒物と武器を渡される)

雨期の到来後、マラリアや赤痢などが一気に広がり、病死が増えた。死者の半数は、戦闘ではなく病気や飢えで命を奪われていたのだ。

・・・「七月二十六日 死ねば往来する兵が直ぐ裸にして一切の装具・ふんどしに至るまで剥いで持って行ってしまう。修羅場である。生きんが為には皇軍同志もない。死体さえも食えば腹が張るんだと兵が言う。野戦患者収容所では、足手まといとなる患者全員に最後の乾パン1食分と小銃弾、手りゅう弾を与え、七百余名を自決せしめ、死ねぬ将兵は勤務員にて殺したりきという。私も恥ずかしくない死に方をしよう。」(齋藤博圀少尉の日誌)・・・

死者の3割は、作戦開始時に渡ったチンドウィン河のほとりに集中。いったい何人がこの河を渡ることができたのか、国の公式の戦史にもその記録はない。

※インパール作戦の責任の所在はどこにあるのか。(日本軍の無責任の構図)

日本軍の将校は馬鹿ばかりではない。【インパール作戦】決行前、補給担当の将校たちは必死で知恵を絞った。どうやって、前線部隊に武器弾薬や食糧医薬品を渡すのか?そして得られた結論は、「不可能」。しかし、この結論は無視された。

太平洋戦争前、「総力戦研究所」が出した結論。「米国と戦えば、必ず敗北する」。これを東条内閣は無視した。「インパール作戦」でも同様なことが行われた。

今も昔も、日本の権力者連中は、自分の意に沿わない研究結果を無視する傾向が強い。自分に都合の良い研究結果を出してくれる【御用学者】【御用官僚】【御用評論家】が重宝されるのは、現在も戦前と違わない。

安倍政権下の種々の統計の改竄、隠蔽は言うに及ばず、最近は責任追及されることを恐れて、資料を作らない、資料を捨てることまで行われている。この行為自体が、歴史に対する冒涜である。歴史修正主義者のやることは、今も昔も変わらない。

結果、1944年3月、10万の将兵が、ビルマ-インド国境に殺到した。そして、戦う事約4ケ月。参加将兵数約10万人。戦死者約3万。戦傷、戦病で後送されたもの約2万人。残存兵力約5万のうち半数以上が罹患(マラリヤなど)という惨憺たる結果に終わった。

(1) 作戦の問題
 
これは太平洋戦争の評価に関わるのだが、太平洋戦争を戦った主力は、海軍と空軍。陸軍の戦の主体は、【中国戦線】にあった。従って、インパール作戦の主目的は、中国戦線への援助にあった。制空権を奪われたミャンマー地域には、中国軍から送り込まれた少数民族のゲリラ部隊が活躍。連合国との連携を図っていた。

軍事的に見れば、中国軍と連合軍の連携を絶つ、という作戦目標自体は間違いではなかった。ただ、制空権を奪われた状況下で、作戦遂行が可能なのか、という検証が不十分だった。

◎最大の問題は、【兵站】を軽視した作戦を強行した点にある。⇒陸軍の【精神主義】重視の伝統の問題

【兵站】を無視した作戦遂行は、近代戦の常識を外れている。例えば、米軍は補給線を確保した後でないと、決して攻撃はしなかった。多少の時間はかかるが、兵の戦闘意欲の確保と無駄な兵力の損傷を避ける意味からも、最も合理的な戦略である。

一方、日本軍は兵站の問題を無視する傾向があった。問題は、陸軍上層部や指揮官たちの人間をどう考えるかという「哲学・理念・人間観」に収斂する。陸軍の伝統的思考に、「白兵戦」で相手を圧倒するには、気迫で相手を上回らなければならないという「精神主義」があった。

「心頭滅却すれば 火もまた涼し」。この種の精神主義は、陸軍内の暴力、いじめ体質に容易に移行する。殴ったりけったりされながら、「我慢」の精神を涵養し、それが「203」高地のような戦場で、一死を省みず突撃する勇猛果敢な兵の育成に役立つ、と信じられた。

戦後、この【精神主義】は、学生スポーツの世界に色濃く残された。昨年問題になった日大のアメフト部のような大学スポーツの閉鎖的・暴力的体質。これと同様な体質が、高校や中学などの部活動にも、未だに残っている。

これが伝統になり、陸軍に受け継がれていく。

🔷203高地攻略戦 乃木希典とは

この伝統は、日露戦争時、「旅順」攻略の要として、旅順要塞の背後にある「203高地」を陥落させたところから生まれている。「203」高地攻略は、陸軍が犠牲を省みない「白兵戦」を敢行した歴史が大きく影響している。

「203」高地の争奪戦では、戦死者5,000人、負傷者10,000人以上と言われている。
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%8C%E3%80%87%E4%B8%89%E9%AB%98%E5%9C%B0-110042

第三軍を率いた乃木希典の指揮で、猛烈な白兵戦を展開、乃木希典の次男保典も戦死。ようやく、「203」高地を落とした。

ある所で、乃木希典の軍服をみる機会があったが、あまりに小さくて驚いた。彼が、意外なほど小柄だったことが良く分かる。もし、彼が突撃し、白兵戦になったら、とてもじゃないけれど、ロシア兵に勝てないだろうと思えるほどだった。

乃木が名将か愚将かは評価が分かれるが、彼が生涯この戦争で戦死させた兵たちの【死】という重荷を背負い続けたのは事実だろう。彼が明治天皇崩御の一報を聞いた後、自決したのも何となく理解できる。「明治天皇」に殉死したことになっているが、わたしには、彼の心に滓のように残っている「203高地」の死者の姿が、彼を死に導いたのだと考えている。

203高地を攻略し、次男の死を聞いた日の乃木希典の日記。
・・・・ 
爾霊山(にれいさん)は険なれども豈(あに)攀(よ)じ難からんや
男子の功名克艱(こっかん)を期す
鉄血山を覆いて山形改まる
万人斉(ひと)しく仰ぐ爾霊山
・・・・・

「万人斉(ひと)しく仰ぐ爾霊山」とは、多くの人命が失われた爾霊山(203高地)を全ての人が拝み仰ぎ見るだろう、と言う意。正直、乃木の胸は悲しみにうち震えていたのだろうと思える。

乃木希典は文人肌の人だと思う。文人肌の人間が、多数の兵を死地に追いやる。おそらくこの後悔は、終生消えなかったと思う。ここがインパール作戦を決行した牟田口廉也との決定的な違いである。

「203」高地の突撃の評価はさておき、これ以降、日本陸軍に「白兵戦」信仰が根付いた。つまり、日本陸軍に【精神主義】信仰が、根付いたのである。

🔷牟田口司令官、河辺司令官、東証英機の関係とは

「インパール作戦」を強行した牟田口司令官、その上司にあたるビルマ方面軍河辺司令官、大本営最高責任者東条英機首相の関係は、支那事変の契機になった昭和12年の盧溝橋事件の時にもあった。

「盧溝橋の一発」が日中戦争を引き起こした、と言われているように、これが日本を終わりの視えない戦争に引きずり込んだ。今でも、この一発は、日本軍が撃ったのか、中国軍が撃ったのかは判然としないが、この事変が以降の日本の運命を決めたことは間違いない。

当時、牟田口は支那駐屯歩兵第一連隊の連隊長。所在不明の銃撃に反撃するよう命令している。通常、連隊長クラスでは、中国軍と戦争になる危険性が大きいこのような行為を上官の許可なく行うような事はあり得ない。事実、盧溝橋事件の結果、いわゆる支那事変(15年戦争=日中戦争)に突入した。

牟田口本人の意図に関わらず、その責任は重大である。その後、日本を泥沼の戦争に引きずり込んだ責任の一端は彼にある。

牟田口はいわゆる「イケイケどんどん」の典型的タイプ。世界情勢の認識、彼我の戦力の分析とか兵站とかそういう合理的(科学的)思考が全く欠落している。そうではなくて、精神力を重視する。典型的な「心頭滅却すれば 火もまた涼し」を信じているタイプ。

それに比べ河辺旅団長は、牟田口の勇猛果敢な心情をどことなく評価し、「任せてみるか」と言うタイプ。何となく優柔不断なところがある。

だから、牟田口の攻撃命令を河辺旅団長が追認。その時の関東軍参謀が東条英機。彼も牟田口の暴走を叱責することなく、事後承認している。「インパール作戦」と全く同じ構図だった。

(2) 中止の決断ができない官僚組織

インパール作戦で悲劇が拡大したのは、中止を決断できない、ビルマ方面軍川辺司令官の優柔不断や大本営や参謀本部の責任逃れ体質がある。

戦争前の大本営や陸軍参謀本部は、陸士・陸大などのエリートコースの将校たちで占められていた。2・26事件までは、「統制派」「皇道派」などの派閥争いが盛んだったが、事件以降はいわゆる「統制派」連中が実権を握った。

当然ながら、お互い同窓で、しかも軍隊以外の社会をあまり知らない連中の集まり。しかも、それこそ上意下達の典型的な縦社会。いわゆる組織の「空気」を読むことが、組織で生き抜く要諦。こういう組織は、どうしても硬直化して柔軟な思考ができにくい。

インパール作戦の決行も、牟田口と河辺の人間関係に拠るところが多い。同時に、東条英機には、南太平洋での相次ぐ敗戦などで政治的に追い詰められていた。そのため、どうしても、何か「華々しい戦果」が欲しかった。だから、現地を訪問した秦中将の報告(戦果は挙げられない可能性が高い)も考慮に入れなかった。

(3) 徴兵制の罠―差別思想の助長―

「志願兵制度」なら、軍上層部は、兵の利益を考えなければ、兵が集まらない。上官に殴られ蹴られ、日常的な暴力にさらされる組織に、志願する連中はいない。戦争に行ったら、食事は現地調達、装備は滅茶苦茶。靴などは足を靴に合わせろ、という組織に誰が志願するのか。戦争に行ったら、捕虜になるな。捕虜になるくらいなら死んでしまえ、という組織に誰が志願するのか。

少し考える力のある人間なら、この程度の事は誰でも理解できる。ところが、日本軍(特に陸軍)では、そんな常識は通用しない。いくらでも、兵は集められる。赤紙一枚(一銭五厘の葉書)あれば良い。

※戦後、暮らしの手帖社の花森安治は、「一銭五厘の旗」という長編詩を書いた。軍指導部の意識と徴兵で招集された兵たちとの意識の「絶望的な乖離」が良く分かる。
https://kogotokoub.exblog.jp/24682149/

陸軍上層部(海軍も含め軍上層部)連中は、【兵は消耗品】という意識が拭いきれなかった。だから、理不尽な要求の限りを尽くした。

インパール作戦が象徴的だが、大河を渡り、補給もままならない、峻険な2000m級の山々を歩き、雨期に入ると世界でも有数の雨が降り、マラリアなどの疫病が蔓延するジャングル地帯をわずか【三週間分の食料】で進軍させるのだから、「死ね」というのと同じ。兵を消耗品だと考えている。それもこれも、兵隊を赤紙一枚で招集できる【徴兵制】の持つ「罠」だと言わざるを得ない。

「齋藤博圀少尉の回想録」で書かれている牟田口司令官と参謀の会話
・・「牟田口軍司令官から作戦参謀に『どのくらいの損害が出るか』と質問があり、『ハイ、5,000人殺せばとれると思います』と返事。最初は敵を5,000人殺すのかと思った。それは、味方の師団で5,000人の損害が出るということだった。まるで虫けらでも殺すみたいに、隷下部隊の損害を表現する。参謀部の将校から『何千人殺せば、どこがとれる』という言葉をよく耳にした。」・・・・

これこそが、軍上層部の徴兵された兵士に対する認識である。戦場経験の長い兵ほど「俺たちは消耗品」という認識を強く持った。だからこそ、若い将校が生意気に振る舞うと、戦場ではその将校に後ろから弾が飛んだ。

ところが、牟田口クラスになると、将校も消耗品。「5,000人殺せば・・・」の中に将校も入っている。【差別思想】と言えば、典型的な「差別思想」だが、これは、軍隊と言う組織に付きまとう【病理】と言ってもよい。

どんなに民主的な軍隊でも、戦況によっては、多くの兵を犠牲にしなければならない。戦場の指揮官は、多くの「犠牲」を払ってでも、勝利するために決断しなければならない瞬間がある。考え方によって、それは「差別」そのものと言って良い。

乃木希典の時にも書いたが、たとえ勝利をしても、多くの兵を犠牲にした指揮官は、兵の犠牲が滓のように心の中に沈殿する。逆に言えば、そういう心根の持ち主だけが、指揮官の名に値する。

兵の犠牲を自らの心の奥底で「罪」として意識できない指揮官は、それだけで失格だと思う。兵の生殺与奪の権を握る指揮官だからこそ、心の底から人の命を大切にする【ヒューマニスト】で【人格者】であるべきだと思う。

日本陸軍(日本軍と言ってもよい)は、徴兵制であまりにも簡単に兵員を集めることができるがゆえに、【一人の人間の命は地球より重い】というヒューマニズム精神が完全に欠落していた。人の生殺与奪の権を握る将校や指揮官を育成する時に、徹底的な【人間教育】と【ヒューマニズム精神】を涵養しなかった事が、太平洋戦争時、多くの悲劇を生んだと思う。

人の命を何よりも大切にする指揮官だからこそ、全ての人間関係、上下関係などを考慮せず、勝利のために必要な最も合理的な作戦を実行できる。命を何よりも大切にするからこそ、慎重すぎるほど慎重に考え、行動する。命を何よりも大切にするからこそ、自らの作戦、行動に責任を持つ。決して、人のせいにしない。

組織は人である。自立した【近代的個人】の育成という発想も理念もない日本陸軍は、近代戦を戦う軍としての【近代化】に失敗したと思う。

戦場(特に中国大陸)で日本兵の数々の非人間的行為が行われた(多くの記録が残っている)のも、その全てを兵の責任に帰する事はできない。

① まず、兵站線が伸び切り、食料を現地調達せざるを得ない状況を作り出せば、現地の人との軋轢が生じるのは当然。※「人は食べ物と水がなければ生きられない」という単純な真実を【精神論】で乗り切れなどと命令するのは、誰がどう見ても戦争指導者や指揮官の間違い。【水と食料】がなければ、それを得るためには、人間は獣になる。人の生存本能を馬鹿にしてはいけない。

② 家庭内暴力(DV)のありようを見れば一目瞭然だが、家庭内で暴力を受けて育った子供の多くは、悲しいかな、その後自分自身も暴力を振るう場合が多い。軍隊内で理不尽な暴力を受けた兵士は、敵に対して理不尽な暴力を振るだけでなく、民間人に対しても理不尽な暴力を振るう傾向が強く出る。⇒暴力的に食料を奪う。歯向かうものを射殺する。強姦するなど。

③ ベトナム戦の時、米軍は、誰がゲリラか分からず、恐怖心に駆られて、多くの民間人を殺した。イラク戦争時、ファルージャなどでの米軍の蛮行は耳目に新しい。この最大の要因は、誰が敵か分からない「恐怖」にある。同様に、日本軍も中国戦線で数々の蛮行を行っている。当然だが、誰が敵か分からない恐怖に苛まれた結果としか言いようがない。

わたしの父は中国戦線に出征していたが、あまり戦争体験は語らなかった。しかし、ある時こんな話をしてくれた。

「中国戦線では日本兵は強かった。昼間敵と遭遇すると、すぐ敵は逃げるので、あまり戦闘はなかった。しかし、夜、その辺りの田舎町で野営をして、朝起きると、墨で黒々と「東洋鬼」と書いてある事がしばしばあった」と述懐していた。

親父から言わせると、非常に怖かったという。それはそうだろう。夜になるとゲリラが自由自在に出入りしているのである。いつ、襲われるか分からない恐怖に苛まれたのだと思う。この恐怖が、日本兵の蛮行の心理的要因であったことは間違いない。

※(注)「東洋鬼」とは、トンヤンキと読み、日本兵を指す。つまり、中国民衆から見れば、日本兵は鬼に見えたと言う事である。

戦後、A級戦犯の話はよく聞くが、B・C級戦犯の話はあまり聞かない。B・C級戦犯の大半は、下士官・兵・少数の民間人なのであまり語られないが、かれらこそ、戦争の被害者なのだと思う。自らの意志ではなく、徴兵によって招集され、上官の命令で犯罪的行為を行い、「戦争犯罪者」として裁かれる。彼ら一人一人は、故郷に帰れば、良き夫、良き青年として、平凡な人生を送れたはずなのに、戦犯として裁かれ、死刑判決を受けたものも多数いる。

わたしは、A級戦犯連中に対する同情心は全くないが、B・C級戦犯の人たちには、同情を禁じえない。彼らが裁かれた戦争犯罪は、日本軍の体質と構造から導き出されたもので、全てを彼ら個人の責任にするのは酷だと思う。

・・・・
【A級戦犯】
戦争指導者を対象としたA級戦犯は国際軍事裁判、BC級戦犯は中国をはじめ米英蘭仏豪フィリピンなどの関係7カ国がそれぞれの国の法規をもとに軍事裁判をおこないました。

【B・C級戦犯】
B級戦犯は日本も結んでいたハーグ陸戦法規などで規定する捕虜虐待など、C級戦犯は一般の国民に対する非人道的行為、となっていますが、B級は残虐行為の命令者、C級は実行者とする場合もあり、BC級と一括する言い方が一般的です。
 
BC級戦犯裁判は戦場となったアジア各地を中心に国内外49カ所でおこなわれ、被告は5千7百人、死刑判決は984人、死刑執行は920人とも934人ともいわれています(他は減刑や執行前死亡)。被告は、少尉以上が約30%、下士官が約51%、兵が約8%で、他は軍人以外です。被告には、日本の植民地支配化にあった朝鮮や台湾出身者を含む軍人軍属とともに、たとえば秋田の花岡鉱山で中国人が蜂起した際に虐殺した現場関係者や警官、九州大学で米兵を生体解剖した医師なども含まれています。・・・2006年 新聞赤旗 
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-08-31/20060831faq12_01_0.html

※A級戦犯 https://origamijapan.net/origami/2018/02/27/tokyo-trial/
※B・C級戦犯 https://home.hiroshima-u.ac.jp/utiyama/ISIS-12.4.W.html

戦後BC級戦犯の話が一番語られたのは、1958年にTBS系で放映されたフランキー堺主演の【わたしは貝になりたい】というドラマが話題を呼んだ時。わたしもその時初めてBC級戦犯の話を知った。戦争に翻弄された名もなき庶民の苦しみが伝わる名作だったと記憶している。

※わたしは貝になりたい・・・ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/私は貝になりたい

(4) インパール作戦の責任者のその後

戸部良一氏(帝京大学教授)は、『「悲劇のインパール作戦」を生んだ牟田口・河辺・東条』
https://bizgate.nikkei.co.jp/article/DGXMZO3416702015082018000000
で、東条英機について、以下のように述べている。

・・・「東条首相は優秀な軍事的テクノクラートでした。インパール作戦についても作戦開始前に(1)英軍がビルマ南部に逆襲上陸した場合の備えがあるか、(2)兵力の増加は不要か(3)劣勢の航空兵力で地上作戦に支障はないか、(4)補給は作戦に追いつけるか、(5)作戦構想は堅実か――と的確な質問をしていました。作戦開始後も(1)インド・中国ルートの遮断、(2)ビルマ南西岸沿いにタイを攻撃する作戦線を英軍に与えないことが任務だと指摘していました」(「昭和史講義 軍人篇」(ちくま新書))

 「問題は現地の苦境を知った時です。現地を視察した参謀次長が遠回しに作戦中止を示唆したときには『弱気』を叱責しました。インパール作戦の初期の成功は日本国内でも華々しく伝えられていました。ほかの戦場では、どんどん戦況が悪化していました。東条は、戦争指導の継続と政権維持を、インパール作戦の成功にかけつつありました」

 「東条は参謀次長を叱責したあと別室で『困ったことになった』と頭を抱えていたそうです。しかし中止命令は出さず、現地からの要請を待っていました。東条に責任感が欠如していたというより、積極的にイニシアティブをとる明確な戦略ビジョンを持っていなかったためでしょう」・・・

あるエピソードを書く。第31師団の佐藤師団長の話である。

解任された後、師団長は、日本刀をひっさげ、牟田口司令部に乗り込んだそうだ。「牟田口司令官」を「叩っ斬る」と物凄い剣幕だった。

牟田口が逃げ回って事なきを得たが、その時、佐藤師団長は軍法会議で死刑になる事を覚悟していた。軍法会議の席上で「牟田口司令官」や「河辺司令官」の犯罪を弾劾する準備をしていた。結局、裁判は行われず、佐藤中将は退役になった。大本営が問題を隠すために、彼を「精神病」にしたのである。

結局、東条英機や杉山参謀長などを除き、インパール作戦の関係者は、戦犯にもなっていない。よく考えたら、たしかに、彼らは敵の捕虜とか敵兵に対する人道上の罪は犯していない。

インパール作戦で戦死したり、病死したり、自決を迫られた兵士たちは、結局犬死だった。

陸軍の意思決定のメカニズムは良く分からない。たしかに、インパール作戦の司令官は牟田口廉也中将だったが、作戦決行を承認した大本営の書類には、多くの将校の印が押してある。つまり、牟田口廉也に全ての責任を負わすわけにはいかない形になっている。

日本人の「空気」を読む研究で有名な評論家山本七平は、フィリピンの戦争最前線で分隊長だった。(部下10人程度)彼は、非常に興味ある証言をしている。

・・・・・
≪帝国陸軍では、本当の意志決定者・決断者がどこにいるのか、外部からは絶対にわからない。その決定が「命令」との形で下達されるときは、それを下すのは名目的指揮官だが、その指揮官が果たして本当に自ら決断を下したのか、実力者の決断の「代読者」にすぎないのかは、解らないからである。

そして多くの軍司令官は「代読者」にすぎなかった。ただ内部の人間は実力者を嗅ぎわけることができたし、またこの「嗅ぎわけ」は、司令部などへ派遣される連絡将校にとっては、一つの職務でさえあった。・・・・・(中略)

一体この実力とは何であろうか。これは階級には関係なかった。上官が下級者に心理的に依存して決定権を委ねれば、たとえ彼が一少佐参謀であろうと、実質的に一個師団を動かし得た。

戦後、帝国陸軍とは「下剋上の世界」だったとよく言われるが、われわれ内部のものが見ていると、「下が上を剋する」のでなく「上が下に依存」する世界、すなわち「上依存下」の世界があったとしか思えない。このことは日本軍の「命令」なるものの実体がよく示している。多くの命令は抽象的な数カ条で、それだけでは何をしてよいか部下部隊にはわからない。ただその最後に「細部ハ参謀長ヲシテ指示セシム」と書いてあるから、この指示を聞いてはじめて実際問題への指示の内容がわかるのである≫(『一下級将校の見た帝国陸軍』P319)・・・・・・

この形は、現在も日本の官僚システムの通例である。わたしのような教育制度の末端に位置していた現場教師でも、文部省の教育制度や教育内容の改変のたびに、文部省の文書はきわめて簡略で抽象的であることに驚かされた。具体的内容は、各県の教育委員会から下される形になっている。文部省はどの方向からつつかれても、言い抜け出来る文章を出していた。

山本が書いているように、内部の人間は上位者の意図が奈辺にあるのかを嗅ぎ分ける能力が求められる、というわけだ。

それから、山本が指摘している・・・「上が下に依存」する世界、すなわち「上依存下」の世界」・・は、荒れた学校時代では、日常だった。

おとなしく、強引な荒事が苦手な校長連中は、体育会系の荒っぽい教師(生徒指導担当)に依存する場合が多かった。そうなると、生徒指導担当の教師の発想で学校体制それ自体が動かされる場合が多くなった。

一般の教師は、山本の言う誰が実力者か嗅ぎ分ける能力が重要になる。それで問題が起きた場合は、校長が釈明をせざるを得ない。しかし、校長は、ほとんど事情を知らずに釈明する事になり、問題をさらに大きくする場合もあった。

これと同様に、軍内部でも、戦争のような非日常の世界(荒事)に向いている司令官とそうでない司令官では、部下に対する姿勢が全く異なっていたはずである。河辺司令官と牟田口司令官の関係がそれを物語っている。

軍隊の序列と責任の序列が判然としない官僚的組織の弊害が日本軍の弱点だったと言える。

最後に牟田口中将について述べておく。

彼の「精神主義」が如何に荒唐無稽であったか。彼の演説が克明に物語っている。兵隊たちに語って曰く。「周囲の山々はこれだけ青々としている。日本人はもともと草食動物。これだけ碧山を周囲に抱えながら、食料に困るなどということは、ありえない事だ。」と大真面目に訓示したそうだ。

野草がいくらでもあるのだからそれを食べれば飢えるはずはない、という論理。指揮官がこれでは兵はたまったものではない。

もう一つ紹介しておく。インパール作戦失敗後の7月10日の訓示。「皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口でかみつけ。日本男子には大和魂があることを忘れちゃならん。・・・・」

こんな訓示を延々と続けた。戦闘と敗走のため、疲れ果てた将兵たちは次々とぶっ倒れた。

まあ、「精神主義」もここまでくると、「宗教」以外の何物でもない。事実、彼はインパール作戦の最後の方では、神頼みを繰り返していたという。本人が神頼みをするのは勝手だが、指揮官に命を託している下士官・兵にとっては、たまったものではない。

戦後、牟田口はインパール作戦の正統性を語り続けていたようだが、最後まで自らの非を認めず、反省もしていなかったようだ。

「勇ましい話をする奴ほど裏切る。勇ましい話をする奴は決して信用するな!」わたしの家で親父と戦争中の話をしていたおじさん連中の結論はいつもこうだった。

まあ、今でも牟田口と似たような話をする連中は、掃いて捨てるほどいる。ネット上で牟田口そこのけの精神論を垂れ流す連中も掃いて捨てるほどいる。ネトウヨと呼ばれる連中は、牟田口の後継者と思って間違いない。

歴史は誰の立場で見るかで、様相が一変する。人は馬鹿だから、どうしても指揮官の立場でものを見がちだが、現実には指揮される兵になる人間が圧倒的に多数。皆、自分が兵になる事を想像していない。

前に、「志願制」と「徴兵制」における兵士の扱いの心理的違いについて述べてきたが、現在の自衛隊が全く同じ状況に直面している。

自衛隊志願者が激減しているのである。人手不足が深刻なため、自衛隊志願者が減少している。同時に、【同盟の深化】の名目の下、米国の戦争の下請けとしての「自衛隊」の存在がじょじょに明らかになるにつれ、海外での戦争に参加する危険性が高まっている。本当の戦争などしたくない若者は自衛隊に志願しない。そのため、自衛隊も高齢化が深刻になりつつある。

今、安倍政権内で静かに【徴兵制復活】の話が持ち上がっているという噂が絶えない。現在の自衛隊志願状況を考えれば、【徴兵制】復活以外、兵の補充が難しくなる可能性が高い。

もう一つ現実に考えられ、実行されている可能性が高い政策が、戦前の日本がそうだったように、若者たちを貧困状況に落とし込み、食うために「自衛隊」入隊を考えさせることを主眼に行われているという可能性だ。

結婚もできない若者たちを大量に生み出している現在の経済政策や「働き方改革」の名のもとに行われている「奴隷政策」。どれもこれも、【徴兵制復活】の臭いがプンプンとしている。

こんなことを考えたり、発言したりする連中は、自分が【兵】になる事を想定していない。おそらく、自分の子供も兵にならそうとはしない。イラク戦争の時、米国の上下院の議員の子供で戦場に出かけたのは、ほとんどいなかったはず。自分や自分の息子が痛まなければ、他人や他人の息子が犠牲になっても心が痛まない、というのが、人間の性。

「勇ましい言葉に騙されるな!」は、今も昔も真実。であるなら、兵の立場で戦争を学ばなければ、何の役にも立たない。21世紀になっても、「インパール作戦」のような愚行に熱狂する国民では進歩がない。

「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
流水

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