老人党リアルグループ「護憲+」ブログ

現憲法の基本理念(国民主権、平和、人権)の視点で「世直し」を志す「護憲+」メンバーのメッセージ

転形期の政治家の資質

2012-11-06 19:55:20 | 政治
今日、田中良昭のブログを読んでいたら、刺激的な言葉に出会いました。
「政治はアートである。サイエンスにあらず。」
http://www.the-journal.jp/contents/kokkai/2012/11/post_322.html#more
わたしは知りませんでしたが、陸奥宗光が伊藤博文に出した手紙の一節だそうです。

この言葉、様々な含みがあるので、解釈は人によって違うでしょう。田中氏の解釈は、以下の通り。

・・「意味するところは「政治は理屈や理論ではなく、職人芸の技(わざ)の世界」という事である。どんなに正しい理屈を言っても実現しなければ政治にならない。実現させる「技(わざ)」こそが政治なのである。
 私の経験で言えば、政治は「理屈」より「経験」、「知識」よりも「知恵」が大事で、「手触りの感触」や「感性の鋭さ」を磨き、「俯瞰で見る能力」と「歴史に学ぶ姿勢」が必要である。そして「目的に真っ直ぐ進む」より「紆余曲折をして見せる」方がゴールに先に到着できる。 」・・・
http://www.the-journal.jp/contents/kokkai/2012/11/post_322.html#more

この解釈、わたしは非常に納得できます。実は、教師が一人前に育ってく過程がこの解釈の通りなのです。

わたしは新任教師の時、吉備高原の学校に赴任しました。全校生徒50人足らずの小さな学校なので、部活動は女子のバレー部と男子のテニス部と陸上部しかありませんでした。わたしは一番若い教師なので、元気があるだろうと、バレー部の監督を任されました。新任教師で張り切っていたわたしは、連日、朝練習、放課後の練習、日曜祝日も練習という具合に懸命に指導していました。バレーの本を何冊も買い、それこそ毎日研究をしたものです。

ところが、どう教えても、子供がアタックをうまく打てないのです。どこが悪いのか、自分でもよく分からない状態が続きました。ある日、教頭(体育教師でスポーツの専門家だった)が練習を見に来ました。そしてエースアタッカーの子を手招きして、耳元で一言二言囁いたのです。そうすると、その子は、次の瞬間から、目を見張るようなアタックを打ち出しました。何を囁いたのかは、不明ですが、どうも技術的な指導ではなくて、精神的アドバイスだったようです。

どうしてそう思うかと言うと、チームが地区の優勝戦に臨んだ時、田舎の子なので上がりきって、ミスを連発して苦戦に陥りました。当然、タイムを取り、子供を落ち着かせようとしたのですが、なかなかうまくいきません。二回目のタイムを取った時、教頭(コーチとしてベンチに入ってもらっていました)が、子供たちの肩を抱いて一言囁きました。「大丈夫。このセットを取られても、次のセットは勝てる。安心して自分のプレーをしなさい。」

不思議な事にこの言葉を聞いた子供たちは、見違えるようなプレーをし始め、見事に地区優勝を成し遂げ、県大会出場を勝ち取りました。教頭は何も特別な言葉をかけたのではないのですが、子供たちは魔法にかかったみたいに次の瞬間から見違えるような動きを見せたのです。

この教頭の凄さをもう一度見せられたのは、子供が練習中骨折をした時です。みるみる青ざめていく子供の表情を見て、正直わたしはあわてました。その時、教頭が来て、骨折した場所を見ながら、「ああ、これは骨折だな。心配いらない、手当をすれば直る」と語りかけたら、みるみる血の気が戻り、子供が安心したような表情に変わりました。

わたしは、この時、「この人にはかなわない」と思い知らされました。理屈や理論でなくて、人間としての存在感が全く違うという事をつくづく思い知らされたのです。

政治家も同じだと思います。どんなに理屈や理論に優れていても、わたしの指導と同じで、ピントがずれていては、結果がでないのです。何より大切なのは、人々に【安心感】を与える存在であり続ける事なのだと思います。

【政治はアートである。サイエンスではない】という陸奥宗光の言葉の意味は、そこにあるのだろうと思います。先ほどの教頭の例で言うと、骨折して不安にさいなまされている子供に一言で安心感を与え、不安を払拭できる存在こそが政治家の役割なのだ、という事なのでしょう。(※この場合、骨折の治療の期間は同じでも、わたしと教頭の対処の仕方の違いは決定的だと思います。)

【手触りの感触】とか【感性の鋭さ】とは、上記のように子供の気持ちを瞬時に感じ取る能力を指します。これは、新米教師にはできません。多くの失敗を重ねて初めて身に付くものです。【経験】が大事なのです。

田中氏が最後に書いている能力、【目的に真っ直ぐ進む」より「紆余曲折をして見せる」方がゴールに先に到着できる。】というのも、大変納得できる論理です。

教育も同じです。目的まっしぐらの教育(過去の受験教育や勝利至上主義の部活動など)は、零れるものが多すぎるのです。わたしはこれを【新幹線教育】と呼んでいました。新幹線は、結局、通過駅の疲弊を招きます。この手当に膨大な時間とコストがかかります。また、新幹線に乗りなれた人間は、各駅停車の列車の遅さにいらだちます。各駅停車がなければ生きていけない田舎の人々の思いが理解できません。このエリートの意識が、【官僚支配】を生み出したと言っても過言ではありません。

教育者も同じですが、政治家は特にこの事に敏感でなければならないと思います。【効率性】一点張りの行政では、大地を這うように生きている生活者の思いを掬い上げる事は出来ないのです。政治は【サイエンスではない】のです。

現在の日本の苦境、政治・官僚・財界・メディアの劣化は、その根本を辿れば、【政治はサイエンス】だという思想に起因しているといっても過言ではないと思います。21世紀の政治家たち、特に転形期の政治家たちは、もう一度【政治はアートである。サイエンスにあらず】という言葉を深く噛み締める必要があると思います。

「護憲+BBS」「 メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
流水

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