老人党リアルグループ「護憲+」ブログ

現憲法の基本理念(国民主権、平和、人権)の視点で「世直し」を志す「護憲+」メンバーのメッセージ

小沢一郎強制起訴で見えるこの国の暗部

2010-10-06 16:40:42 | 民主主義・人権
小沢一郎が検察審査会の議決により強制起訴された。何が何でも小沢一郎の政治生命を奪おうという目に見えない勢力の強烈な意志を感じるのは、私だけではないだろう。

何度も書いたように、図式は明確。植草一秀氏命名による「悪徳ペンタゴン」=既得権益層の謀略以外にない。ただ、問題は、彼らが情報空間の支配者であるメディアを味方につけている点にある。一年以上にわたる執拗な小沢バッシング。何の学問的正当性もない世論調査。小泉政権以降、メディアの世論操作は目に余る。もはや日本のジャーナリズムは死んだ、といって過言ではない。

今回の東京検察審査会の議決。顔も名前も分からない11人の人間が、「市民感覚」の代表者としてまかり通る。その事の異様さにメディアも政治家も疑義をはさまない。それどころか、世論を盾に毎日・朝日などは、社説で小沢氏に辞職を迫る。「推定無罪」原則などどこ吹く風。

はるか昔、古代ギリシャのアテネで「陶片追放」という話があった。・・・「僭主の出現を防ぐために、市民が僭主になる恐れのある人物を投票により国外追放にした制度で、しばしば政争の道具として使われて有能な政治家などが追放されることもあり、たとえばペルシア戦争におけるサラミスの海戦で活躍したテミストクレスも後に陶片追放によってその地位を追われている。そのため、陶片追放に古代アテナイが衰退する一因」・・・ウイキペデイア

歴史教科書風にいうならば、「衆愚政治」の象徴である。

今回の東京検察審査会の議決、メディア論調、政治家の動きなどを見ていると、日本流「陶片追放」としか思えない。一体、この国に法治主義はあるのか、この国に民主主義はあるのか、とうそ寒い気持ちに襲われるのは私だけではないだろう。

悲憤慷慨ばかりしていても始まらないので、今回の東京検察審査会議決に対する根本的疑問点を列挙してみる。

①検察審査会の本来の目的から逸脱していないのか。⇒検察審査会法総則第二条には以下のように規定している。

第2条 検察審査会は、左の事項を掌る。
1.検察官の公訴を提起しない処分の当否の審査に関する事項
2.検察事務の改善に関する建議又は勧告に関する事項
2 検察審査会は、告訴若しくは告発をした者、請求を待つて受理すべき事件についての請求をした者又は犯罪により害を被つた者(犯罪により害を被つた者が死亡した場合においては、その配偶者、直系の親族又は兄弟姉妹)の申立てがあるときは、前項第1号の審査を行わなければならない。《改正》平12法074
http://www.houko.com/00/01/S23/147.HTM

たとえば、明石歩道橋事件のように、行政責任を明確に問いたいが、警察・検察の捜査で責任の所在がうやむやになり、納得出来ない被害者の家族が申し立てをしたような場合なら、この検察審査会の制度は意味がある。本来、検察審査会制度導入の趣旨(司法に市民感覚を入れる)は、このような場合を指す。しかし、今回の小沢一郎のような政治家を強制起訴する場合、憲法違反の疑いがある。

「『日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、・・・そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。』日本国憲法前文 http://www.houko.com/00/01/S21/000.HTM

憲法が規定する国政選挙によって選ばれた民意の代行者である国会議員を、わずか11人の検察審議会の意見(※メデイアは民意と騒ぐ)で毀損する事が許されるのか。小沢一郎を選んだ選挙区の国民の民意とわずか11人の検察審議会の審査委員の民意との明らかな乖離をどう説明するのか。

わたしは、今回の議決は、国民の権利を愚弄し、民主主義の根幹をないがしろにする愚行だと考える。少なくとも、国政選挙で選ばれた国会議員には、検察審査会の審査は適用されるべきでない、と考える。

②なぜ、議決発表が10月4日だったのか。⇒検察審査会の議決は9月14日民主党代表選当日朝だったことが明らかになっている。⇒空白だった補助員弁護士の選任が選ばれたのが9月7日と云う説がある⇒もしそうなら、9月1日からの審査は補助員弁護士なしに行われたことになる。⇒小沢一郎関係資料だけでも、約2000頁。難しい法律用語で書かれている資料を検察審査会の素人が短期間で本当に仔細に検討したのか。きわめて疑問。

さらに、9月14日代表選当日の朝、議決が出たとするならば、この議決内容が事前に官邸に報告されていた可能性は大。ここから類推できる事は、二つ。
(A)小沢一郎が勝利した場合⇒即座に議決内容を公表。小沢一郎が内閣総理大臣になり、強制起訴議決が困難になる。それを避けるため、早目に議決した。同時に、小沢内閣への批判をかきたて、政局を大混乱に落とし込む。
(B)小沢一郎が敗れた場合⇒菅内閣が失政で苦境に陥った場合、「強制起訴」カードを切り、批判をそらす。現に、菅内閣は、検察の証拠改竄問題・尖閣問題の処理で苦境に陥っていたが、今や小沢問題一色へ、変わりつつある。議決発表が何故今なのかを考えれば、上記のような憶測をされても仕方がない。

③今回の議決文の最後に以下のような記述がある・・「検察審査会の制度は、有罪の可能性があるのに、検察官だけの判断で有罪になる高度の見込みがないと思って起訴しないのは不当であり、国民は裁判所によって本当に無罪なのかそれとも有罪なのかを判断してもらう権利があるという考えに基づくものである。そして、嫌疑不十分として検察官が起訴に躊躇(ちゅうちょ)した場合に、いわば国民の責任において、公正な刑事裁判の法廷で黒白をつけようとする制度であると考えられる。よって、上記趣旨の通り議決する」
http://www.the-journal.jp/contents/newsspiral/newsspiral101005.pdf

難しく書いているようだが、要するに黒か白かはっきりしない場合、全て裁判にかけて、白黒つけろ、と言っている。黒とする明確な証拠がなくても、起訴して裁判にかけろ、というのである。要するに、裁判所に丸投げしましょう、と言っている。

裁判所は、証拠収集機関ではない。証拠は捜査機関が集め、裁判所はその証拠の妥当性を判断し、有罪・無罪を決定する。ところが、検察審査会は、明確な証拠がないが、ただ疑いがあるので起訴するから、裁判所で白・黒つけろと言っている。判断を任される裁判所も困るが、そんな曖昧な根拠で起訴される被告人も困る。

刑事訴訟法では、人を起訴するには、明確に黒と断定する証拠が必要。それなくして、起訴されたら、起訴される人間はたまらない。この論には、日本における刑事被告人の立場に対する配慮は一切ない。

起訴された刑事事件の有罪率が99%を超えるという現実から、日本社会では起訴=有罪という「推定有罪」の風潮が異様に高い。ノリピー事件でもそうだが、起訴される前から、メディア挙げて「推定有罪」の大合唱。裁判にかかる前から、酒井法子はメディアで裁かれ、社会的リンチにかけられた。彼女の社会的生命は裁判前からほとんど失われている。

こういう状況下で、疑わしい奴は、全て裁判にかけろ、というのは暴論に近い。これでは、三角帽子をかぶせ民衆の前に引きずり出した文化革命当時の紅衛兵となんら変わらない。いわゆる「人民裁判」を行うに等しい。検察審査法の精神をこの論理で捉えるなら、冤罪事件は後を絶たなくなる。裁判にかけられた被告人の名誉・人権は守れない。きわめて危険な思想である。

④検察審査会法第41条の7で以下のような規定がある。「検察審査会は、起訴議決をしたときは、議決書に、その認定した犯罪事実を記載しなければならない。この場合において、検察審査会は、できる限り日時、場所及び方法をもつて犯罪を構成する事実を特定しなければならない」
http://www.houko.com/00/01/S23/147.HTM

百歩譲って③で書かれた検察審査会の論理を是としても、少なくとも、検察審査会法の条文規定は守らなければ、議決の正当性は担保できない。つまり、検察審査会は、できる限り日時、場所及び方法をもつて犯罪を構成する事実を特定しなければ、起訴相当議決はできない。

下のブログで検察審査会法1条、2条、41条の7を内容を交通違反にたとえて分かりやすく解説しているので紹介しておく。
・・・・・
(1)第1条は「交通安全のために、交通警察官を置く」
(2)第2条「交通警察官はスピード違反を取り締まる」
(3)第41条の7「スピード違反で検挙した時は、スピード違反の事実を記載しなければならない。交通警察官は、できる限り日時、場所及び速度の事実を特定しなければならない。
・・・・・
http://www.olive-x.com/news_ex/newsdisp.php?n=97593

では、今回の議決で、小沢一郎の「スピード違反の事実を記載しなければならない。交通警察官は、できる限り日時、場所及び速度の事実を特定しなければならない」事が書かれているのか。否である。

議決書のまとめには以下のように書いてある。「以上の直接証拠と状況証拠に照らし、検察官が小沢氏と大久保被告、石川被告、池田被告との【共謀を認めるに足りる証拠が存するとは言い難く】、結局、本件は嫌疑不十分に帰するとして、不起訴処分としたことに疑問がある。検察官は起訴するためには、的確な証拠により有罪判決を得られる高度の見込みがあること、すなわち、刑事裁判において合理的な疑いの余地がない証明ができるだけの証拠が必要になると説明しているが、検察官が説明した起訴基準に照らしても、本件において嫌疑不十分として不起訴処分とした検察官の判断は首肯し難い。 」
http://www.the-journal.jp/contents/newsspiral/newsspiral101005.pdf

そこまで言うのなら、検察官の判断を覆す「共謀を認めるに足りる証拠」を提示しなければ、説得力がない。しかし、この議決文を読む限り、なるほどと思われる証拠は提示されていない。たしかに、土地取引に関する状況証拠は提示されているが、これについては、多くの識者が指摘し、おそらく、裁判の過程で明らかになるだろうが、重大な事実誤認(農地法などに関する)がある。

さらに、この状況証拠については、元東京地検特捜検事郷原氏が以下のように指摘している。

・・昨日の段階では、議決書の冒頭の被疑事実(不動産取得時期、代金支払時期の期ズレだけ)が、当然、そのまま起訴すべき犯罪事実になっていると思っていたが、よく見ると、添付されている別紙犯罪事実には、検察の不起訴処分の対象になっていない収入面の虚偽記入の事実が含まれている。(続く) 約2時間前 webから
https://twitter.com/nobuogohara/status/26405250884

(続き)検察の公訴権独占の例外として検察審査会議決による起訴強制が認められている趣旨に照らして、不起訴処分の対象事実を逸脱した被疑事実で起訴相当議決を行うことは許されない。今回の起訴相当議決は無効であり、強制起訴手続をとることはできない。 約2時間前 webから
https://twitter.com/nobuogohara/status/26405407747

郷原氏の指摘している問題については、小沢一郎弁護団も認識しており、おそらく裁判前整理手続きの段階で、起訴相当議決の無効性を訴える可能性が高い。

今回の東京検察審査会の議決には、素人のわたしが、見ただけでも多くの疑問が残る。おそらく、これからのメディア、政治は、このニュースで持ちきりになるだろう。特に、小沢一郎に対する離党勧告をどうするかが、最大の焦点になる事は間違いない。

以前から何度も指摘してきたが、この一連の動きを見ていると、明確なシナリオの存在が感知できる。
(A)「政権交代」以前・・・政権交代阻止のため、西松建設事件で小沢一郎の影響力を削ぐ(※最低でも小沢一郎が民主党代表を辞職。彼が総理大臣になる事を避ける)
(B)「政権交代」以降・・もはや自民党復権はあり得ない。民主党政権を存続させながら、政権中枢を握り、換骨奪胎する。⇒この為に、小沢一郎と鳩山由紀夫の「政治とカネ」キャンペーンを張り、科学的正当性の薄い内閣支持率を隔週に実施。⇒鳩山内閣を追い詰める。
(C)これが成功し、菅内閣成立。(※民主党内反小沢勢力を結集し、小沢排除に乗り出す)⇒同時に、内閣支持率上昇の操作⇒のぼせた菅直人が消費税増税を言い出す。⇒参院選挙大敗北⇒ねじれ現象がおき、菅内閣の政権運営困難
(D)小沢派中心に菅内閣打倒の動きが顕在化⇒メディア中心に異様な反小沢キャンペーンを張り、菅直人総裁選辛勝。⇒(※今回の小沢強制起訴決定は、この中で行われている)⇒ここから以降始まるのは、小沢一郎の政治生命抹殺、小沢派排除の徹底。⇒つまり、「国民生活が第一」の理念の抹殺・排除が始まる。⇒同時に、国会運営が行き詰った菅直人も使い捨て⇒前原などを中心とした「隷米・新自由主義」政治家たちによる政界再編⇒「政権交代」で追い詰められた既得権益層主導による政治の復権・・・・・・⇒この先に待ち受けているのは、米国との抱き合い心中。日本沈没の道だろう。

以前から指摘しているように、日本における「政権交代」とは、他国における「革命」に匹敵する。「革命」には、「反革命」がつきもの。戦後、政治を真剣に考えてこなかった日本人には、「政権交代」が他国における「革命」に等しい、という認識が希薄である。なぜ、「革命的大変換」が必要とされたのかも、真剣に考えてこなかった。だから、現在のような「メディアファッシズム」状況に陥った。

よく認識しておかねばならないのは、既得権益層にとって、小沢一郎率いる民主党政権は、悪夢である。自らの足元が根底から崩される危険性がある。だからこそ、彼の政治生命を完全に奪いつくさないと、枕を高くして眠れない。今回の東京検察審査会の議決は、その文脈でとらえなければならない。

どんな国でも「反革命」の策動とはそういうものである。つい先だっても、エクアドルでクーデターが起こった。エクアドル大統領ラファエル・コレアは、催涙ガス弾が当たって負傷。首都のキト・メトロポリタン病院に軟禁状態にされ、ここから携帯でベネズエラのチャベス大統領と会話。「たとえ死ぬことになっても、譲歩はしない」と語ったとのこと。
・・八木啓代のひとりごと・・

このクーデターの背後に、CIAがいる、という噂がある。南米では毎度おなじみの光景である。

日本人が本当の意味でまだ理解していないのは、日本の「南米化」という視点だろう。以前、チリのアジェンデ大統領の話(※人生よありがとう)を書いたのも、「革命」には必ず強烈な「反革命」が起き、犠牲になるのは常に一人一人の弱い国民である。しかし、それを跳ね返すのも、国民一人一人の賢さであり、強さ以外にない。「人生よありがとう」の歌には、どんな迫害にも負けないで、生き続けた人々の想いが込められている。

わたしは、今回の小沢一郎に対する政治的謀略は、戦後「政治なんて!」と馬鹿にしてきた日本人が、もう一度根底から「政治」を考え直す好機だと考えている。【一歩前進、二歩後退】。進むためには、退かなければならない。今はその時である。「政権交代」に込めた国民の思いを諦めるには早い。

「護憲+BBS」「政権ウォッチング」より
流水

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