今回の参議院選挙。メディア総がかりで、如何にして盛り下げるかに腐心している。
その為に、どのような話題をメディアに提供し、メディアはどうでもよい話題を如何にして大問題に仕立て上げ、それこそ重箱の隅をつついて、根掘り葉掘り報道し、国民の関心を選挙から遠ざけるかに苦心している。おそらく、官邸を中心にして、各メディア首脳たちの間で綿密な作戦が練られていると思われる。
そうでなければ、あれほど見事に「山本太郎」と「れいわ新選組」が黙殺されることはない。
7月9日にジャニー喜多川氏が死亡した。メディアが総力を挙げて、ジャニーズ特集を組んだのもむべなるかな、である。「ジャーニー喜多川と子供たち」の物語を美談仕立てで、それこそ朝から晩まで報道した。
たしかにジャーニー喜多川という人物は、戦後日本が生んだ新たな日本人の象徴である。米国育ちのバイリンガルの彼が、戦後、アメリカ文化を日本流にアレンジ。男性アイドルグループという新しい芸能ジャンルを発掘。一代で時代の寵児にのし上がった。
わたしは、彼の時代を見る目や創造力と先見性を高く評価しているが、朝から晩までTVを占拠するほどのものではない、と思う。
わたしは、この選挙における山本太郎の闘いぶりに、時代の先触れを見ている。
選挙前、わたしは、“現代のドン・キホーテか!それとも、現代の田中正造か!(山本太郎論)”で「ひょっとしたら大化けするかも知れない、という期待感を抱かせる。」と書いた。
この期待感はかなりの部分で現実のものになりつつある。その最大の要因が擁立した10人の候補者。
全国公的介護保険要求者組合書記長・木村英子氏、難病ALS当事者・ふなごやすひこ氏。重度身体障害を持つ二人を比例代表の特定枠に選び、比例代表の1、2位に指名した。山本太郎は、比例代表3位になっている。山本太郎が当選するには、約300万票の得票数が必要になる。
自分自身の当選より、重度身体障碍者が国会議員になる事により、国会の改修が必要になり、さらに重度の身体障害者の人を目の当たりにすることにより、障害者に対する理解を深めようとする意図である。
自分自身の当選より、障害者への理解、障害者の人権を守ろうという理念を優先させている。山本太郎の政治理念である【社会的弱者救済】の本気度が見える。
さらに東京選挙区から立候補している野原ヨシマサ氏。彼は、沖縄創価学会壮年部に所属している。辺野古基地建設の有無を問う住民投票の際、公明党や創価学会指導部の意向に背き、基地建設反対に立ち上がり、公然と公明党や創価学会指導部を批判した。
今回の選挙では、公明党党首山口邦津夫の選挙区である東京から出馬。正面切って公明党批判を行っている。特に、公明党本部がある信濃町で、堂々と公明党批判を繰り広げ、多くの創価学会人の共感を勝ち取っているようだ。「公明党が平和の党ならば、辺野古基地建設を止めて見ろ」と舌鋒鋭く批判している。
蓮池透氏も安倍晋三批判、東京電力批判(彼は東電の原子力発電関係の技術者だった)、原子力行政批判を行っている。
その他、金融行政の専門家、労働政策の労働者側専門家など多くの人材を発掘している。そして、島田雅彦氏をはじめ、多くの有識者、知識人も彼の闘いに注目している。
自民党や翼賛メディアが山本太郎と「れいわ新選組」を黙殺するのは、逆の意味で、さすが、と言える。
彼らは、前の選挙の時の「枝野幸男の孤独な戦い」に学んでいる。枝野幸男の鬼気迫る表情での演説に多くの国民が引き付けられた経験から、山本太郎が、枝野以上の闘いをする可能性に怯えている。
権力を持つ側の危機管理は、堤防決壊の蟻の一穴をどのように埋めるかが勝負。権力側の論理からすれば、山本太郎と「れいわ新選組」の黙殺は、最善の対抗策というわけである。
逆に言えば、それだけ山本太郎と「れいわ新選組」が、本物の革命性、破壊力を保有していると言う事の証明でもある。
わたしは、枝野幸男の場合は【戦い】と書き、山本太郎の場合は【闘い】と書き分けている。枝野幸男の場合は、永田町の政治的常識の範囲内での戦いであるという意味で【戦い】と書き、山本太郎の場合は、永田町の政治的常識を超えた、あるいは、破壊すると言う意味で、【闘い】と書いている。
“現代のドン・キホーテか!それとも、現代の田中正造か!(山本太郎論)”でも書いたが、彼は現在の日本を上下の関係で視ている。5%の支配層と95%の被支配層という上下の階級的視点で日本社会を把握し、95%の被支配層の立場に立つという明確な政治姿勢で闘っている。
この【闘い】は、自らの生存そのものがかかっていると言っても過言ではない。田中正造と同じで、この闘いの後には、彼には何も残っていない事を覚悟している。
厚顔さんが、山本太郎の学歴に触れられていたが、非エリートの彼が雑草のごとく芸能界でのし上がっていく過程で、何度煮え湯を呑まされてきたことか。彼は世の中の不条理を身体で感じて生きてきたのだと思う。
だから、彼の【闘い】には、踏みつけられ、弊履のごとく捨てさられてきた人々の滓のように溜まった鬱屈した思いや怨嗟の感情を掬い取り、解放し、新たな地平へと導く力がある。「上品な戦い」で何が変わる!という魂の叫びが聞こえる。
同時に彼は「権力を握る」という明確な目標を掲げる。
わたしは以前にも書いた事があるが、「権力」を握る事を目標にしない政治家や政党に何の意味があるのか、と問いたい。自らの政治理念や政治思想を実現するためには、権力を握らなければ何もできない。政治のリアリズムとはそういうものである。
まだ一人の国会議員も持っていない泡沫政党であるれいわ新選組が、政権を握る、などと叫べば、それこそ噴飯ものだし、ドン・キホーテも良いところである。
それを本気で語り、多くの聴衆に信じさせる。驚くべき光景である。そんじょそこらの政治家が同じことを語っても、誰も信じない。鼻であしらわれるのが落ちだろう。山本太郎には、それができている。山本太郎という人物のカリスマ性躍如の場面である。
21日までもう何日もない。山本太郎とれいわ新選組の躍進に期待しよう。
「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
流水
その為に、どのような話題をメディアに提供し、メディアはどうでもよい話題を如何にして大問題に仕立て上げ、それこそ重箱の隅をつついて、根掘り葉掘り報道し、国民の関心を選挙から遠ざけるかに苦心している。おそらく、官邸を中心にして、各メディア首脳たちの間で綿密な作戦が練られていると思われる。
そうでなければ、あれほど見事に「山本太郎」と「れいわ新選組」が黙殺されることはない。
7月9日にジャニー喜多川氏が死亡した。メディアが総力を挙げて、ジャニーズ特集を組んだのもむべなるかな、である。「ジャーニー喜多川と子供たち」の物語を美談仕立てで、それこそ朝から晩まで報道した。
たしかにジャーニー喜多川という人物は、戦後日本が生んだ新たな日本人の象徴である。米国育ちのバイリンガルの彼が、戦後、アメリカ文化を日本流にアレンジ。男性アイドルグループという新しい芸能ジャンルを発掘。一代で時代の寵児にのし上がった。
わたしは、彼の時代を見る目や創造力と先見性を高く評価しているが、朝から晩までTVを占拠するほどのものではない、と思う。
わたしは、この選挙における山本太郎の闘いぶりに、時代の先触れを見ている。
選挙前、わたしは、“現代のドン・キホーテか!それとも、現代の田中正造か!(山本太郎論)”で「ひょっとしたら大化けするかも知れない、という期待感を抱かせる。」と書いた。
この期待感はかなりの部分で現実のものになりつつある。その最大の要因が擁立した10人の候補者。
全国公的介護保険要求者組合書記長・木村英子氏、難病ALS当事者・ふなごやすひこ氏。重度身体障害を持つ二人を比例代表の特定枠に選び、比例代表の1、2位に指名した。山本太郎は、比例代表3位になっている。山本太郎が当選するには、約300万票の得票数が必要になる。
自分自身の当選より、重度身体障碍者が国会議員になる事により、国会の改修が必要になり、さらに重度の身体障害者の人を目の当たりにすることにより、障害者に対する理解を深めようとする意図である。
自分自身の当選より、障害者への理解、障害者の人権を守ろうという理念を優先させている。山本太郎の政治理念である【社会的弱者救済】の本気度が見える。
さらに東京選挙区から立候補している野原ヨシマサ氏。彼は、沖縄創価学会壮年部に所属している。辺野古基地建設の有無を問う住民投票の際、公明党や創価学会指導部の意向に背き、基地建設反対に立ち上がり、公然と公明党や創価学会指導部を批判した。
今回の選挙では、公明党党首山口邦津夫の選挙区である東京から出馬。正面切って公明党批判を行っている。特に、公明党本部がある信濃町で、堂々と公明党批判を繰り広げ、多くの創価学会人の共感を勝ち取っているようだ。「公明党が平和の党ならば、辺野古基地建設を止めて見ろ」と舌鋒鋭く批判している。
蓮池透氏も安倍晋三批判、東京電力批判(彼は東電の原子力発電関係の技術者だった)、原子力行政批判を行っている。
その他、金融行政の専門家、労働政策の労働者側専門家など多くの人材を発掘している。そして、島田雅彦氏をはじめ、多くの有識者、知識人も彼の闘いに注目している。
自民党や翼賛メディアが山本太郎と「れいわ新選組」を黙殺するのは、逆の意味で、さすが、と言える。
彼らは、前の選挙の時の「枝野幸男の孤独な戦い」に学んでいる。枝野幸男の鬼気迫る表情での演説に多くの国民が引き付けられた経験から、山本太郎が、枝野以上の闘いをする可能性に怯えている。
権力を持つ側の危機管理は、堤防決壊の蟻の一穴をどのように埋めるかが勝負。権力側の論理からすれば、山本太郎と「れいわ新選組」の黙殺は、最善の対抗策というわけである。
逆に言えば、それだけ山本太郎と「れいわ新選組」が、本物の革命性、破壊力を保有していると言う事の証明でもある。
わたしは、枝野幸男の場合は【戦い】と書き、山本太郎の場合は【闘い】と書き分けている。枝野幸男の場合は、永田町の政治的常識の範囲内での戦いであるという意味で【戦い】と書き、山本太郎の場合は、永田町の政治的常識を超えた、あるいは、破壊すると言う意味で、【闘い】と書いている。
“現代のドン・キホーテか!それとも、現代の田中正造か!(山本太郎論)”でも書いたが、彼は現在の日本を上下の関係で視ている。5%の支配層と95%の被支配層という上下の階級的視点で日本社会を把握し、95%の被支配層の立場に立つという明確な政治姿勢で闘っている。
この【闘い】は、自らの生存そのものがかかっていると言っても過言ではない。田中正造と同じで、この闘いの後には、彼には何も残っていない事を覚悟している。
厚顔さんが、山本太郎の学歴に触れられていたが、非エリートの彼が雑草のごとく芸能界でのし上がっていく過程で、何度煮え湯を呑まされてきたことか。彼は世の中の不条理を身体で感じて生きてきたのだと思う。
だから、彼の【闘い】には、踏みつけられ、弊履のごとく捨てさられてきた人々の滓のように溜まった鬱屈した思いや怨嗟の感情を掬い取り、解放し、新たな地平へと導く力がある。「上品な戦い」で何が変わる!という魂の叫びが聞こえる。
同時に彼は「権力を握る」という明確な目標を掲げる。
わたしは以前にも書いた事があるが、「権力」を握る事を目標にしない政治家や政党に何の意味があるのか、と問いたい。自らの政治理念や政治思想を実現するためには、権力を握らなければ何もできない。政治のリアリズムとはそういうものである。
まだ一人の国会議員も持っていない泡沫政党であるれいわ新選組が、政権を握る、などと叫べば、それこそ噴飯ものだし、ドン・キホーテも良いところである。
それを本気で語り、多くの聴衆に信じさせる。驚くべき光景である。そんじょそこらの政治家が同じことを語っても、誰も信じない。鼻であしらわれるのが落ちだろう。山本太郎には、それができている。山本太郎という人物のカリスマ性躍如の場面である。
21日までもう何日もない。山本太郎とれいわ新選組の躍進に期待しよう。
「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
流水