老人党リアルグループ「護憲+」ブログ

現憲法の基本理念(国民主権、平和、人権)の視点で「世直し」を志す「護憲+」メンバーのメッセージ

高等学校は何のためにあるのだろう?

2006-10-31 09:19:21 | 教育
今、高等学校(特に地方のいわゆる「進学校」)の「履修不足」が大きな問題となっています。http://www.asahi.com/special/061027/
これらのニュースを見るにつけ考えさせられたのは「高等学校(特に普通科)は何のためにあるのだろう」ということでした。

学校教育に「競争原理」が導入され、「少子化」の中「生徒の確保」のため「大学受験のための効率的な学習」という父母(あるいは生徒)のニーズに応えるという「顧客満足度」を争ったためかもしれません。あるいはひとつの学校がそうした「ズル」を始めたのを見て「それだったらウチも」と次々と拡がっていったのでしょう。(さもなければこんなに多くの学校でこのような事態にはならないと思います。)それにしても「教育機関」たる学校がこのような「不正」をやることの「教育効果」というものを、先生方は考えなかったのでしょうか?

私は今日、本社で「コンプライアンス」に関する研修をしてきました。民間でさえ、昨今このような問題に真剣に取り組まなければならないのに「学校」というところは特殊な世界のようです。実際「学校の先生」の多くは大学という「学校」を卒業するとすぐに「学校」を職場としていますので、「学校」以外の社会を知らずにいる人も多いかもしれません。また同僚がすべて「大卒」という不思議な職場でもあります。

自分が「学校」で経験してきたことに疑問を持たずに、同じことを自分もやっているということもあるのではないでしょうか。生徒を「子どもたち」と呼び、自分が「保護すべき存在」ととらえて「一個の人間」として見ることができなくなってはいないでしょうか。学校での「いじめ」の問題の根もそのようなところにあるような気がしてなりません。

私より年上の人たち(特に地方出身の人たち)は「金の卵」と呼ばれ、中学を卒業するとすぐに働く人たちがたくさんいました。私は東京の出身ですが、それでも級友の1割ほどは中学を出てすぐに働きました。そして4年制の大学へ行ったものも2割とはいませんでした。多くの級友は高校を卒業すると就職しました。その方が中卒よりもずっとよい条件で就職できたからです。つまり「高卒」という資格を取ることが高校へ通う目的(すべてとはいいませんが・・・)になってしまったようです。現在ではおそらく中卒ではまともな「就職」は不可能でしょう。

一方、昔から「大学へ行く」ために高校へ通う人たちもいます。私も「進学校」でしたので夏休みや冬休みにも「講習」があり、浪人しているOBも含めた模擬試験もしばしば行われました。成績の上位100名は試験のたびに張り出されました。(私の母校は1学年9クラス、450名いました。)高校なのに履修する教科が選択できて、私は「日本史」を習っていませんし、数学も「数ⅡB」まで、3年生で2回目の「地理」「生物」「美術」を履修しています。(それでも週に4時間の「空き時間」がありました。)

また、私の母校には「定時制」があり、1学年4クラスもの人々が私たちと同じ教室で働きながら学んでいました。(机を使って定時制の生徒と「文通」することができました。)彼らは単に「高卒」の資格のために夜学んでいたのでしょうか。私は高校で「古文」や「漢文」、「倫社」「政経」といった中学では学ぶことのできなかった分野を学べたことに感謝しています。「受験技術」としての「英文法」や様々な公式、定義はすっかり忘れてしまったけれど、「平家物語」や「方丈記」、「史記」、中央公論社の「世界の名著」「日本の名著」を読んで学んだ素養は今でも活きています。

今回の問題が「何のために高等学校へ通うのか」「高等学校は何のためにあるのか」を高校生たちや教師、そして多くのおとなが考え直す機会になればと願っています。

「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
千葉の菊
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歴史的概念としての「法の支配」

2006-10-31 06:28:55 | 憲法
学生時代から憲法学や法の哲学を学んで来ましたが、いわゆる教科書とされている本には(あれもこれも書き込まないといけないので)法の支配や立憲主義の定義は書かれてあるのですが、肝心の「なぜそのような原理、概念が成立したのか」つまり、「歴史的な成立事情」は省略されています。

まず、法の支配の概念ですが、これは何人も法以外のものには拘束されないという概念であり、英国の16世紀から17世紀にかけて成立されたものであり、「人の支配」と対置されると定義されています。

しかし、この説明ではこのマグロはインド洋で捕れましたという魚屋の説明と同じで味も素っ気もありません。探偵がこの時代の英国で起こった事件として記憶に残っているエピソードとして次のようなものがあります。

トーマス・モアという聖職者が時の国王ヘンリー8世の逆鱗に触れてロンドン塔に幽閉された事件です。映画化されたので記憶されている方も多いと思います。この事件こそ「法の支配」に関連するものであると思います。

その内容ですが、国王ヘンリー8世は皇后に愛想が尽きて愛人を作り、皇后と離婚して愛人と結婚したいと考えました。しかし、当時の英国の法はカソリックの教義に基づき、離婚は許されていません。国王といえども国法に従うとされていたので聖職者のモアは国王の勝手な離婚に反対して幽閉されたのでした。

こうした事件では多分英国の裁判所もたとえ国王といえども法に従ってもらう、という先例を慣習法として定着させたのではないでしょうか。(英米法は原則的に成文法は持たない国で判例によって法律を作っています。)こうして「法の支配」という概念が「歴史的に」成立したはずです。

翻って現在の日本に視点を移してみます。そうすると、小泉さんが毎年公式参拝を重ねた靖国神社の問題がすぐに想定されると思います。小泉さんは中国韓国などとの外交に亀裂が走ることを十分に承知していて「靖国に参拝するのは個人の自由であり、心の問題なので」干渉するのはおかしいとご託を並べています。しかし、この態度は中世の国王ヘンリーも驚くような勝手な言い分です。

憲法で政教分離原則を定め、特定の宗教団体を利するような行為は禁止されています。小泉さんほど「法の支配」を逸脱し「人の支配」の論理を声高に叫ぶ首相も珍しい。この場合の「人の支配」というのは自分勝手に法を破り、恣意的な行為を正当化することを端的に表現するものです。こうした首相なので共謀罪に代表される悪法を制定しようと策動することになるわけです。

アメリカ映画に「ダーティ・ハリー」という人気映画がありましたが、この映画の中でハリーは「俺が法律だ。」と言って犯人を捕まえる場面がありました。これが「人の支配」です。映画の中ならいいですが、実際に権力者が「皆俺の言うことが法律だ」といい始めたら大変です。靖国参拝、共謀罪の制定策動は「法の支配」ではなく「人の支配」であると考えることができます。

立憲主義も同じような思想、原理でこれは18世紀の後半に「絶対王政の下にあった国王の権力を制限しようとする動き中で成立した概念であり」、そこから国民の人権保障と権力分立の原理が成立したとされています。こうした歴史的な概念の成立事情は重要です。

安倍首相の言うように何でも憲法の解釈で出来るとされると、憲法もたまったものではありません。安倍首相も小泉元首相も、憲法の解釈にはルールがあり、何でも解釈自由と言うことではないということが全然分っていないのでしょう。即刻リコールされるべき政治家なのです。

「護憲+コラム」より
名無しの探偵
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