今、高等学校(特に地方のいわゆる「進学校」)の「履修不足」が大きな問題となっています。http://www.asahi.com/special/061027/
これらのニュースを見るにつけ考えさせられたのは「高等学校(特に普通科)は何のためにあるのだろう」ということでした。
学校教育に「競争原理」が導入され、「少子化」の中「生徒の確保」のため「大学受験のための効率的な学習」という父母(あるいは生徒)のニーズに応えるという「顧客満足度」を争ったためかもしれません。あるいはひとつの学校がそうした「ズル」を始めたのを見て「それだったらウチも」と次々と拡がっていったのでしょう。(さもなければこんなに多くの学校でこのような事態にはならないと思います。)それにしても「教育機関」たる学校がこのような「不正」をやることの「教育効果」というものを、先生方は考えなかったのでしょうか?
私は今日、本社で「コンプライアンス」に関する研修をしてきました。民間でさえ、昨今このような問題に真剣に取り組まなければならないのに「学校」というところは特殊な世界のようです。実際「学校の先生」の多くは大学という「学校」を卒業するとすぐに「学校」を職場としていますので、「学校」以外の社会を知らずにいる人も多いかもしれません。また同僚がすべて「大卒」という不思議な職場でもあります。
自分が「学校」で経験してきたことに疑問を持たずに、同じことを自分もやっているということもあるのではないでしょうか。生徒を「子どもたち」と呼び、自分が「保護すべき存在」ととらえて「一個の人間」として見ることができなくなってはいないでしょうか。学校での「いじめ」の問題の根もそのようなところにあるような気がしてなりません。
私より年上の人たち(特に地方出身の人たち)は「金の卵」と呼ばれ、中学を卒業するとすぐに働く人たちがたくさんいました。私は東京の出身ですが、それでも級友の1割ほどは中学を出てすぐに働きました。そして4年制の大学へ行ったものも2割とはいませんでした。多くの級友は高校を卒業すると就職しました。その方が中卒よりもずっとよい条件で就職できたからです。つまり「高卒」という資格を取ることが高校へ通う目的(すべてとはいいませんが・・・)になってしまったようです。現在ではおそらく中卒ではまともな「就職」は不可能でしょう。
一方、昔から「大学へ行く」ために高校へ通う人たちもいます。私も「進学校」でしたので夏休みや冬休みにも「講習」があり、浪人しているOBも含めた模擬試験もしばしば行われました。成績の上位100名は試験のたびに張り出されました。(私の母校は1学年9クラス、450名いました。)高校なのに履修する教科が選択できて、私は「日本史」を習っていませんし、数学も「数ⅡB」まで、3年生で2回目の「地理」「生物」「美術」を履修しています。(それでも週に4時間の「空き時間」がありました。)
また、私の母校には「定時制」があり、1学年4クラスもの人々が私たちと同じ教室で働きながら学んでいました。(机を使って定時制の生徒と「文通」することができました。)彼らは単に「高卒」の資格のために夜学んでいたのでしょうか。私は高校で「古文」や「漢文」、「倫社」「政経」といった中学では学ぶことのできなかった分野を学べたことに感謝しています。「受験技術」としての「英文法」や様々な公式、定義はすっかり忘れてしまったけれど、「平家物語」や「方丈記」、「史記」、中央公論社の「世界の名著」「日本の名著」を読んで学んだ素養は今でも活きています。
今回の問題が「何のために高等学校へ通うのか」「高等学校は何のためにあるのか」を高校生たちや教師、そして多くのおとなが考え直す機会になればと願っています。
「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
千葉の菊
これらのニュースを見るにつけ考えさせられたのは「高等学校(特に普通科)は何のためにあるのだろう」ということでした。
学校教育に「競争原理」が導入され、「少子化」の中「生徒の確保」のため「大学受験のための効率的な学習」という父母(あるいは生徒)のニーズに応えるという「顧客満足度」を争ったためかもしれません。あるいはひとつの学校がそうした「ズル」を始めたのを見て「それだったらウチも」と次々と拡がっていったのでしょう。(さもなければこんなに多くの学校でこのような事態にはならないと思います。)それにしても「教育機関」たる学校がこのような「不正」をやることの「教育効果」というものを、先生方は考えなかったのでしょうか?
私は今日、本社で「コンプライアンス」に関する研修をしてきました。民間でさえ、昨今このような問題に真剣に取り組まなければならないのに「学校」というところは特殊な世界のようです。実際「学校の先生」の多くは大学という「学校」を卒業するとすぐに「学校」を職場としていますので、「学校」以外の社会を知らずにいる人も多いかもしれません。また同僚がすべて「大卒」という不思議な職場でもあります。
自分が「学校」で経験してきたことに疑問を持たずに、同じことを自分もやっているということもあるのではないでしょうか。生徒を「子どもたち」と呼び、自分が「保護すべき存在」ととらえて「一個の人間」として見ることができなくなってはいないでしょうか。学校での「いじめ」の問題の根もそのようなところにあるような気がしてなりません。
私より年上の人たち(特に地方出身の人たち)は「金の卵」と呼ばれ、中学を卒業するとすぐに働く人たちがたくさんいました。私は東京の出身ですが、それでも級友の1割ほどは中学を出てすぐに働きました。そして4年制の大学へ行ったものも2割とはいませんでした。多くの級友は高校を卒業すると就職しました。その方が中卒よりもずっとよい条件で就職できたからです。つまり「高卒」という資格を取ることが高校へ通う目的(すべてとはいいませんが・・・)になってしまったようです。現在ではおそらく中卒ではまともな「就職」は不可能でしょう。
一方、昔から「大学へ行く」ために高校へ通う人たちもいます。私も「進学校」でしたので夏休みや冬休みにも「講習」があり、浪人しているOBも含めた模擬試験もしばしば行われました。成績の上位100名は試験のたびに張り出されました。(私の母校は1学年9クラス、450名いました。)高校なのに履修する教科が選択できて、私は「日本史」を習っていませんし、数学も「数ⅡB」まで、3年生で2回目の「地理」「生物」「美術」を履修しています。(それでも週に4時間の「空き時間」がありました。)
また、私の母校には「定時制」があり、1学年4クラスもの人々が私たちと同じ教室で働きながら学んでいました。(机を使って定時制の生徒と「文通」することができました。)彼らは単に「高卒」の資格のために夜学んでいたのでしょうか。私は高校で「古文」や「漢文」、「倫社」「政経」といった中学では学ぶことのできなかった分野を学べたことに感謝しています。「受験技術」としての「英文法」や様々な公式、定義はすっかり忘れてしまったけれど、「平家物語」や「方丈記」、「史記」、中央公論社の「世界の名著」「日本の名著」を読んで学んだ素養は今でも活きています。
今回の問題が「何のために高等学校へ通うのか」「高等学校は何のためにあるのか」を高校生たちや教師、そして多くのおとなが考え直す機会になればと願っています。
「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
千葉の菊