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或る大阪近鉄バファローズファンの
偏愛と放浪の記録

「神の棘(I)(II)」(著:須賀 しのぶ)

2015-09-13 21:42:43 | 【書物】1点集中型
 本屋で文庫を見かけて、題材が気になったので図書館で単行本(しかなかった)を借りてみた。←買えよ
 互いに、幼いころは想像もしなかった人生を歩むナチSDのアルベルトと、修道士マティアス。アルベルトはかつてはひ弱で仲間内でも目立たたない存在だったのに対し、マティアスはかつて子どもたちの中で「将軍」であり、傲慢であり弱い者を見下す「皇帝」だった。2人は、社会的には罪とされる同性愛者であり修道士であったアルベルトの兄テオの死によって、再び相まみえることになる。ドイツの、果ては全ヨーロッパを支配せんがために突き進むナチスと、ユダヤ人を含む信徒である人々を守るべき教会の人間という、まるで逆転した力関係のもとにある者同士として。

 ナチといえばユダヤ人迫害のことしか知らず、当時の教会との関係に関しては全く知識がなかったので、題材そのものがとても興味深い物語。アルベルトはナチの考え方そのものというよりは、兄やマティアスへの憎悪こそが自身を職務に駆り立てているように見える。だからこそ根が深い。
 マティアスはマティアスで、家族を失った痛みをいつしか信仰に昇華させ、だからこそ自分欺き罪のない師や信徒たちを冷酷に追い込む「死神」となったアルベルトへの復讐心と信仰の間で葛藤する。

 冷酷さばかりが目立つアルベルトも、極秘計画≪E計画(エー・アクツィオン)≫に関わり、その実情を知るに至って人間的な嫌悪をのぞかせるようになる。家庭では、蜜月だった妻が女優業に精を出すようになるにつれ、結婚生活が破綻していくのをただ眺めている。それでも妻を愛している気持ちだけは変わっていないという自覚がある。なのに、アルベルトを待っていたのは妻への反政府組織加担の容疑と、それをアルベルト自身が手引きしたという容疑。その先に待っているのは自白の強要のための拷問だった。
 それはあっという間の転落である。ナチスであれ末期のソ連であれ「北」であれ中国共産党であれ、全体主義社会の行き着くところは同じだと感じる。「事実」はそこにあるから「事実」なのではなく、誰かが決めたことが「事実」になり、その事実を構築するための別の「事実」が作られていく。それを社会が行う。そしてその社会を構成するのは人間たちだ。それも始末に負えないことに、誰よりも強く信じるものを持った人間と、それを信じる人間たち。

 アルベルトのように最初はただ社会を新しくしたいと時流に乗っただけのつもりが、気づけば残虐の坂を転げ落ちていたという人もいたのだろうなとは思う。だからといってその非道が肯定されるわけではないけれども。
 後半に入ってアルベルトは前線に赴き親友を喪い、マティアスもまた、司祭の道を進む途中で衛生兵として戦場にある。2人の関係は変わらないが会話を交わす機会が増えることによって、マティアスがアルベルトの今を少しずつ認識していくようになる過程が見える。

 それにしても、なんでこの物語がハヤカワミステリなのかなぁと思っていたのだけども、終章でその理由がわかった。謎解き要素を全く感じないままで読んでいたので、そういう収拾のつけ方をするか、というところではあったが。
 神を信じる者が、神を棄てた者が何に拠って立つのか。どちらも自らを貫き通すためにそれぞれの戦い方で戦っていたことは言うまでもなく、であるが故にアルベルトは死にゆく部下の魂を救おうとした。自分は神を信じていなくても、守りたいものはある。それが神ではなくても、そのためにこそアルベルトは生きたのである。そのアルベルトの姿と、信仰があるが故のマティアスの苦悩との対比が、人間にとっての神のありようを考えさせられる。

 しかしだ。初版だけなのかもしれないけど、誤植があまりに多くてちょっと萎えた。変換間違いや脱字くらいはご愛敬だが、主人公2人の取り違えなんてあり得ない事態が一度ならず二度までもあったのはさすがに酷すぎる。ここにマティアスいたっけ? ここにアルベルトいたっけ?? っていきなり惑わされたら、せっかくの物語の腰を折られる感じがして仕方なかったし。だから文庫はハヤカワから出なかったのか?