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或る大阪近鉄バファローズファンの
偏愛と放浪の記録

「アウシュヴィッツの地獄に生きて」(著:ジュディス・S・ニューマン/訳:千頭 宣子)

2021-04-30 22:38:48 | 【書物】1点集中型
 題材の重さに比して意外にコンパクトな頁数だけれども、記されているのは目を覆いたくなる苛烈と残酷と悲しみと麻痺。タイトルそのままである。ナチスのいわゆる絶滅収容所に送られた人々は、そこに送られる前から過酷な迫害を受けていた。にもかかわらずそれに飽き足らず大量虐殺へとエスカレートした中で何が行われていたのかを、体験者がつぶさに語っている。

 人としての尊厳を根こそぎ奪われ、死ぬために生きていた、あるいは殺されるために生かされていた人々。虐殺のための場に送られるのだとわかっていながら、焼却炉やガス室に向かって歩くしかなかった人々がいる。辛さのあまり、自らガス室行きを申し出た人もいる。ともに収容所に連れて来られながら引き離され、殺されてしまった家族が、いつ死を迎えたのか知ることもできなかった人々がいる。著者の語るひとつひとつががあまりにもリアルで、けれどだからこそこの地獄を生きた人々に自分を重ね合わせることができない。自分だったらどうだっただろうか、と考えることすらできない。それほどに、本当にこんなことがあったとは信じたくないできごとばかりである。
 フランクル「夜と霧」にもあったと思うが、虐殺された人々の髪や皮膚や骨を使って作られた家具などの話などは怖気をふるうもの以外の何ものでもない。その話がこの本にも出てきて、やはりそれが現実だったのだと改めて認識させられ、人間が何故人間に対してここまで感覚を麻痺させられるのかとやっぱり考えてしまう。そしてやっぱり答えは得られない。収容者にとって救済者でもあったロシア軍兵士の蛮行も然り。

 また、話は収容所にいたときのことばかりではない。ロシア軍侵攻によりアウシュヴィッツから撤退することになって以降のことも記されている。ラーフェンスブリュックという別の収容所に向かうこの撤退はナチスドイツの劣勢を示すものではあったが、それもまた死の行軍である。そこからまたマルコフへ移っていくことになり、さらにライプチヒへ。空襲を受ける危険の中での移送でもあったが、収容所での環境は次第にましになっていく。たた行軍は終わりを見せず、歩けなくなれば殺されてしまうことには変わりなかった。肉体に限界の来ていた著者が、ここで脱出を決心しなければこの本は世に出ていなかっただろう。
 それでも「悪をもって悪に報いてはならない」。復讐や憎しみを連鎖させてはならない。頭ではそれを理解できても、それを本当に実践するのは簡単なことではなかったはずだ。そう思うと、信仰が人を支えることの実例をも示している記録でもあるようにも思う。著者が家族をすべて失い、婚約者も亡くなった。友人とも別れ、独り戻った故郷で、それでも同じ境遇の伴侶を見つけることができたことをただ祝福したいと思う。

 社会から未だ差別やヘイト行動はなくならない。それが暴力に発展することすらも。人間が過ちを繰り返さずにいられないのだとしたら、なおのことこうして生き抜いた人々の言葉を世界中が受け継いでいかねばならない。