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偏愛と放浪の記録

「ドキュメント戦争広告代理店―情報操作とボスニア紛争」(著:高木 徹)

2014-09-09 23:58:56 | 【書物】1点集中型
 ボスニア紛争というかそもそも旧ユーゴ連邦の解体について全く明るくなかったが、秀逸なタイトルにまんまと乗せられて読んでみる。描かれるのは、独立したばかりのボスニアと隣国セルビアにおけるモスレム人とセルビア人の民族対立から生まれた、東西冷戦時代の諜報戦とは違った意味での「情報戦」。そしてその情報戦を、ボスニア側から「操作」し、国際世論をボスニア優位にみごと誘導してみせた「PR」の仕事を描いたノンフィクションである。
 この「情報戦」の戦略を担ったのは、アメリカの大手PR会社ルーダー・フィン社のジム・ハーフ氏。報道の世界の手法を知り尽くし、ひとつひとつの場面で最大限の効果をあげるための戦術を繰り出し続ける彼の戦略は、何といっても人間の心理を熟知している。スポークスマンとなるシライジッチ外相のルックスや話しぶりの有効活用しかり、ナチスの対ユダヤ人政策を想起させるイメージを、ユダヤ人の逆鱗に触れる言葉を使うことなしに作り出すコピーワークしかり。「民族浄化」という言葉は、なるほど確かに広く訴えかける絶大な威力を持っている。

 ハーフのPR手法に、嘘は一切存在しない。いわゆる「都合の良い」情報だけをメディアに乗せることによって、自らの望む方向に世論を誘導していくのである。中立を旨としたカナダ人国連部隊指揮官マッケンジー将軍や、ECの和平特使キャリントン卿の正論を遠ざけたやり口など、一種のえげつなささえ感じさせられるときもある。ボスニア=善、セルビア=悪というような極端な構図をめざすPRはいかにもアメリカ的であるともいえようが、しかし極論を言えば倫理観や中立性を云々するのはPRの仕事ではないということなのである。トヨタとホンダであろうが、アップルとサムスンであろうが、ボスニアとセルビアであろうが、PR戦略の根底にあるものは同じなのだ。
 その意味では、日本の国際社会における地位の低下は、自らを演出するPR手法が立ち遅れていることも大きいということなのだろう。「文庫版あとがき」で、著者は「はっきりしていることは、『PR戦争』の倫理を問い、その答えを見つけ出すまで、(中略)日本という国、そこに住むわたしたち国民が待っている余裕はもうない、ということである」と述べている。善悪の問題ではなく、やるかやられるかの世界でしかない。
 情報がどのようにして報道に乗るかということの一端が垣間見られたからには、ますます人は自らの頭を使って情報を判断する知見を身につける必要がある。しかしそれすらも、与えられる情報の精査だけでは不十分だ。その情報さえもがすでに操作されているものであると考えるべきでもあるからだ。ハーフの鮮やかな手法を見るにつけ、世論とはかくも容易に方向づけられてしまうのかと思わずにはいられない。

 ただ、PRの問題とは別に、「(前略)たしかにセルビア人も非情な連中だった。しかし、好むと好まざるとにかかわらず、結局は私たちもセルビア人とともに生きてゆかねばならんのだ。ひとつの国に“悪”のレッテルを貼ってしまうことは、間違いなんだ」というキャリントン卿の言葉も、「セルビア」を別の国に入れ替えれば、ほかのどんな国でも通じる真理であるはずだろう。この本の趣旨とは相容れないものではあるだろうが、やはり心に残る言葉ではあった。