life goes on slowly

或る大阪近鉄バファローズファンの
偏愛と放浪の記録

「ロング・グッドバイ」(著:レイモンド・チャンドラー/訳:村上 春樹)

2011-02-06 23:07:39 | 【書物】1点集中型
 文庫が本屋で面出しされてたのを見て、そういえばチャンドラー読んだことないなーと思って借りてみた。そしたらハードカバーだった(笑)。580Pくらい。重っ。
 なので長かった。久々に本当に長い物語を読んだ気がする。というのもひとつひとつの段落が長いのと、字もそこそこ小さかったからかと思うのですが。おかげで貸し出し延長かけました。(笑)

 アイリーンとテリー、そしてマーロウの心情の移ろいには寂寥感というか名残惜しさも感じる。失ってしまったもの(確かに交わし合った愛情であったり、通い合っていた友情のようなものであったり)を取り戻そうとはもう思わない。ただ少しだけ後ろ髪を引かれる、そんな雰囲気が、乾いたハードボイルド。
 私はたとえば高村薫作品のように、どんどんどんどん人の内面を掘り進んでいくタイプの、ある意味ちょっと湿った感じのハードボイルド(と私は勝手に思っている)のを好む傾向にあると自分では思ってるんだけど、この感じも面白い。

 村上氏のあとがきに非常にたくさんのことが書いてあって勉強させてもらった気持ちなんだけど、台詞も含めて、淡々と事象だけを積み重ねていって、それだけで人物とその人々が絡み合う事件を余すところなく語りきるというのは、なかなかできることじゃないと思う。
 つまりそれは、作中に語られる事象のひとつひとつが、確かにマーロウという個人のフィルタを通して見えるものではあるのだけれど、でも決してそれ以上のものとしては描かれていないということ。そこにマーロウの主観はあっても、感情はほとんどない。けど、明らかな感情の描写がなくても、人の心の機微をこんなにも豊かに描き出せるものなんだなぁという感じ。この雰囲気が多くの人を虜にするチャンドラー作品の魅力なのかなと、なんとなく思った。

「もうからっぽだ。かつては何かがあったんだよ、ここに。ずっと昔、ここには何かがちゃんとあったのさ、マーロウ。わかったよ、もう消えるとしよう」
(「ロング・グッドバイ」本文より)

 テリーはからっぽの自分を抱えて、アイリーンが死した後も生きていく。その先に何があるのかは、もうマーロウの関知するところではないのだろう。ギムレットを口にすることは、そのあとのマーロウにあったのだろうか。