“満塁男”駒田氏が、最近の虐待事件に怒り露わ(Sports Watch)
元プロ野球選手で、現在は野球解説者の駒田徳広氏。「満塁男」の異名を持った往年の名プレーヤーが、自身の公式ブログ「駒田徳広の一言いわせて」(26日更新分)において、最近報道が続く幼児の虐待事件に怒りをぶつけた。
「また、幼児虐待の事件が。」というタイトルでブログ綴った駒田氏は、同事件を「90年以降、どんどん増える傾向にある」とし、「90年と言うと、僕らが親になった世代。親や先生にビンタを食らった最後の世代だ。それから、どんどん大人が子供に手を上げる事がなくなり、今の幼児の親達は全くそんな経験がない人がほとんどだ」と述べると、「それなのに、なぜ虐待が減らないのか。自分がされた事がない、一番嫌な事をなぜ子供に出来るのか、全く理解出来ない」と持論を展開する。
また、その持論に賛否こそあるだろうが、ブログの最後では「原因は何であれ、甘やかされた子供が大人になって虐待事件を起こしているのは間違いない。綺麗事の教育では、今後もこのような事件が減らないと思うのは僕だけか」と語る駒田氏だった。
親にされた方法でせっかん 埼玉少年殺害、社長供述(産経新聞)
埼玉県八潮市の中川で、元派遣作業員、永津隼さん=当時(18)=の遺体が見つかった事件で、殺人と死体遺棄の疑いで再逮捕された千葉県松戸市古ケ崎、派遣会社社長、豊嶋貴博容疑者(46)が「自分が幼いころ親にやられていた方法でせっかんした」と供述していることが21日、捜査関係者への取材で分かった。
県警草加署捜査本部によると、豊嶋容疑者ら逮捕された3人は6月3日夕、豊嶋容疑者のマンションで永津さんの両手足を縛り、風呂に沈めるなどして殺害するなどした疑いが持たれている。捜査関係者によると、豊嶋容疑者らは永津さんの服を脱がせて全裸にした上で犯行に及んでいたが、豊嶋容疑者自身も幼いころ、親に同様の方法でせっかんを受けた経験があるという。
永津さんは約2年前から豊嶋容疑者の会社で働き、豊嶋容疑者宅や事務所で寝泊まりしていたこともあったが、事件当時は実家近くの公園などで野宿していた。捜査関係者によると、豊嶋容疑者は「面倒を見ていたのに何度も逃げ出した。真人間にしたくてせっかんしたかったが、方法が分からなくて自分と同じ方法でやった」と供述しているという。
最初に引用した方のニュースはちょっと前のものですけれど、記事に出てくるのと似たような感覚は少なからず世間に蔓延しているのではないでしょうか。しかるにその感覚が現実と符合するものかと言えば、その辺は2番目に引用した記事を見比べた上で判断していただければと思います。
しばしば体罰肯定論者は過去と現代の双方を歪曲して語るものです。現代の体罰を禁止する教育はダメだなどと説かれることもあるわけですが、制度上のことを言うなら現代だけではなく、戦前の学校教育でも体罰は禁止されていました。そしてこの辺は、現代も戦前も大して守られていないのが実態ではないでしょうか。体罰事件がメディアを賑わすことは児童虐待事件と同じくらいにありふれたことですし、児童虐待は昔から珍しくなかった(参考)、嬰児殺は昔の方がずっと多かったわけでもあります(参考)。体罰の効能などない、むしろ悪影響を類推した方が妥当というものです。
駒田氏は自らのブログで「殴られた事がないから、痛さや辛さが分からないのか?」とも書いていますけれど、殴られたことがあるからこそ、相手を痛めつける方法を知っていると見るべきだと思います。体質の古い運動部であれば、いかにして下級生を苦しめるかというノウハウが受け継がれているものですが、学校教育や家庭教育、しつけにおける体罰も同様の役割を果たしているのでしょう。「真人間にしたくて」という自己正当化の論理を盾に暴行を加える、そこに親から(もしくは教師から、先輩から)教わった折檻の技術を用いるわけです。「甘やかされた子供が大人になって」暴行事件や虐待事件を起こしているのではなく、幼少期から暴行や虐待に親しんできたからこそ事件を起こすのだということを認識する必要があります。あるいは、「しつけのための体罰は許される」という世論に甘やかされてきたからこそ暴行や虐待に至るとも言えるでしょうか?
それだけならまだ良いのですが(いや、あまり良くないのでしょうが)、人間しばしば自分の経験してきたことこそが最良の手段だ(なぜなら自分は真人間だから自分と同じように育てば自分のような真人間が生まれるだろう)、と考えてしまうのが問題をより大きくしているような気がしてなりません。
殺人容疑の社長も「方法が分からなくて自分と同じ方法で」とのことですからね。やはり自分で経験してきた方法論が使われてしまうし、自分の経験によって正当化が図られてしまうところもあるのでしょう。
ところで、戦前の日本では軍隊での「いじめ」がひどかったとか、占領地での住民虐待や捕虜虐待は一種の「虐待の連鎖」なのかも知れません。「平和ボケ」の今日、もし自衛隊が戦地に派遣されて戦闘に巻き込まれたら、駒田氏によれば「いじめ」にあってない軍人は虐待の痛みや恐怖を知らないから、住民や捕虜に虐待をするということになるのでしょうね。
虐待親が、これは虐待じゃありません、躾です愛のムチですと言えば、その行為は肯定されるというのでしょうか。
ところで「あいのむち」を変換したところ「愛の無知」と出てきた。
たぶんこれで正しいのでしょう。
あるいは「愛の無恥」でも正解かな。
ここで殴ることをやめたら、自分の辛かった過去が全否定される、それは我慢できない、という。
日本全体が他人に対して異様に不寛容なのもこれと同じ仕組みだと思います。
「自分はガマンをたたき込まれてイヤイヤながら従った。だから若い世代の連中がガマンしないのが許せない。それを認めると自分たちのガマンが無駄だったことになる。」
「自分はおとなしくお上/上司/先生に従って生きてきた。そういう「偉い人たち」(爆笑)に逆らうやつらは、自分の過去の苦痛もまた否定する連中だ。」
まあ実際の虐待については個々のケースをひとつひとつ見ていかないといけないでしょうが、「虐待した親だけが悪いので、そいつを罰しておしまい」で終わるのは最悪です。
体罰によって真人間ができるなら、戦前の旧日本軍は聖人君子の集団だったでしょうね。もっとも歴史修正主義者の間では本当にそういう設定になっている、旧日本軍は高潔な集団ということになっていそうですが。
>yazakikumiさん
実際、虐待の疑いがある親は概ね「しつけです」と言い逃れして、周りもそれ以上は追求できないことも多いようですね。しつけと称した暴力が許容されているからこそ、虐待も防げないところがあるのだと思います。
>yさん
そのような自己正当化の論理があるだけに、負の連鎖が続いてしまうんですよね。どこかで断ち切らなければならないのですけれど、結果的に人を死なせてしまった人を見せしめ的に断罪するだけで済ませているようでは、今後も似たような惨事は続きそうです。
それから、管理人さんがコメント欄で言及されているように、旧日本軍の中国での残虐行為は(余談ですが、体罰を肯定している連中って、こんなことすら認めていないのがものすごく多いってのは、非常に興味深いですね)下級兵への私的制裁がものすごく影響しているってのもいわば常識に近いんじゃないんですかね。
http://blog.goo.ne.jp/mccreary/e/4525ca4decc7b030eba6407293d5e4d4
↑の記事に紹介しているイベントはかなり笑えます。まあ人間のクズとはこういう奴らです。
今の体罰の事件は、全て「相手が悪い」と言われますが、犯罪の厳罰化にも影響している気がします。
その辺は日本でも変わらないはずなんですけれど、日本人の頭からは抜け落ちているようですね。
>Bill McCrearyさん
いやはや体罰は教育、ですか。こういうことが公然と主張されるから、しつけと称した体罰=虐待が行われやすくなっているところもあると思うんですよね。結果的に死者が出たりして騒ぎになれば糾弾されますけれど、そうした結果に繋がる可能性のある行為に関しては待望論も根強いとしたら、まぁ負の連鎖が絶えないのも無理からぬことなのでしょう。
>シトラスさん
昔からあったことを、さも現代になって急に発生したかのように語る手合いも多いですからね。誰かを罰する口実を作るためには、そうやって危機を煽った方が都合がいいのかも知れませんが……