妊娠中絶、20年で6倍に 超音波検査の精度向上で(共同通信)
胎児が順調に育っているかを調べる妊婦の超音波検査(エコー)の精度が向上した影響で、2000年代後半の人工妊娠中絶の推定件数は、1980年代後半の6倍超になったとの調査結果を日本産婦人科医会が23日までにまとめた。
妊娠初期に胎児の異常が見つかり、中絶を選ぶ例が増えたとみられる。
調査をまとめた平原史樹横浜市立大教授(産婦人科)によると、異常の種類や状態により新生児の障害の程度は異なる。平原教授は「どれぐらい深刻なのか、医師の説明が不十分で妊婦もちゃんと理解しないまま、中絶したケースが少なくないとみられる」と指摘している。
なんだか色々と注意が必要な記事を見つけました。他紙でも概ね似たような見出しを掲げているところが多く、その伝えるところに依ると人工妊娠中絶件数が20年で6倍になったのだとか。 ……あれ? どこかで妊娠中絶件数が過去最低を記録したなんてニュースも見た記憶がある、というかそれについてエントリを書いた記憶もあるのですが、本当に20年で6倍なのでしょうか。気になったので、厚労省の統計を調べてみました。それによると2009年度は221,980人です。20年前に1989年の場合は466,876人でした。なぜこれが6倍? 6割減の間違いじゃなくて?
もしかして、調査結果をまとめた日本産婦人科医会とはECRRみたいに公的機関が出している統計と全く矛盾する独自データを出しては自分たちこそが真実を語っているのだと主張して回るようなヤバイ団体なのではないかとか、マトモに論文を出したこともなく学会では相手にされない異端というより窓際の研究者が発表したデータなのではないかとか、まぁ色々な可能性が頭をよぎりました。ともあれ公のデータと明らかに異なる数値が掲げられているわけです。こうした従来の見解とは異なる「新事実」を掲載する以上、メディアには従来の統計から得られた数値を併記するとか、なぜ今までの認識とは大幅に異なる数値が出てきたのか、その辺をも説明する責任があるように思います。
胎児の染色体異常などを調べる「出生前診断」で、2009年までの10年間、胎児の異常を診断された後、人工妊娠中絶したと推定されるケースが前の10年間に比べ倍増していることが、日本産婦人科医会の調査でわかった。
妊婦健診の際に行われるエコー(超音波)検査で近年、中絶が可能な妊娠初期でも異常がわかるためとみられる。技術の進歩で妊婦が重大な選択を迫られている実態が浮き彫りになった。
調査によると、染色体異常の一つであるダウン症や、胎児のおなかや胸に水がたまる胎児水腫などを理由に中絶したと推定されるのは、2000~09年に1万1706件。1990~99年(5381件)と比べると2・2倍に増えた。
調査は横浜市大国際先天異常モニタリングセンター(センター長=平原史樹・同大教授)がまとめた。
全国約330の 分娩 (ぶんべん) 施設が対象で、毎年100万件を超える全出産数の1割をカバーする。回答率は年によって25~40%程度だが、調査では回答率が100%だったとして「中絶数」を補正した。
人工妊娠中絶について定めた母体保護法は、中絶が可能な条件に「胎児の異常」は認めていない。だが「母体の健康を害する恐れがある」との中絶を認める条件に当たると拡大解釈されているのが実情だ。平原教授は「ダウン症など染色体異常の増加は妊婦の高年齢化も一因だ」と話す。
調査結果は22日から都内で開かれる日本先天異常学会学術集会で発表される。
玉井邦夫・日本ダウン症協会理事長の話「個々の選択がどうだったかわからないが、エコー検査が、ダウン症児は生まれてこない方が良いという判断を助長していると考えられる」
さて、こちらは同じ調査を元にしているであろう読売新聞の報道です。全体としての人工妊娠中絶件数が一貫して減少を続けている中で、何が増加しているのかというと「胎児の異常を診断された後、人工妊娠中絶したと推定されるケース」が該当するようです。おそらく共同通信他が報じる「20年で6倍」という数値も同様のものと推測されます。単純に妊娠中絶そのものが急増しているのか、それとも中絶件数が減る中で「胎児の異常を診断された後、人工妊娠中絶したと推定されるケース」が倍増しているのか、両者の意味するところは大きく異なるはずですが、共同通信は肝心な部分を調べずに記事を表に出しているのでしょう。公式ツィッターの件といい、チェックの甘い報道機関もあったものです。
共同の記事は大いにミスリーディングを誘うものですが、「どれぐらい深刻なのか、医師の説明が不十分で妊婦もちゃんと理解しないまま、中絶したケースが少なくないとみられる」との指摘は重要です。この辺は放射「能」問題でも同様ですが、どれぐらい深刻なのか理解しないまま拙速な判断を下してしまった人も多いのではないでしょうか。説明する側の力不足もありますし、妊婦なり母親なりの不安を外部から焚きつける人もいるのかも知れません。ただ最終的な判断が本人に委ねられるにせよ、それは適切な知見に基づいて行われるべきですよね。
加えて日本ダウン症協会の理事長は「個々の選択がどうだったかわからないが、エコー検査が、ダウン症児は生まれてこない方が良いという判断を助長していると考えられる」と述べたと伝えられています。アメリカですと妊娠中絶の問題は(女性の)選択する権利を重んじるか宗教的価値観を重視するかで分かれるようですけれど、日本の場合は優生思想の観点から割と中絶には寛容でもありました。やがて優生保護法は母体保護法と名前を変え中絶件数は減少を続けてきたわけですが、その根底にある発想は絶えてはおらず、それが再燃しようとしているところもあるのかも知れません。
原発事故後の電力不足の中で、とかく「今までが便利すぎた/明るすぎたのだ」「我慢すればいい」みたいなことが左右双方から頻繁に語られるようになりました。しかるに、こうした言葉が常に健常者の目線で発せられていることには注意が払われてしかるべきでしょう。加えて「奇形児が増える」みたいなことを言い出す人もいるわけです。広島と長崎の妊娠例を調査した限り、重い先天性の障害が出る確率は他地域の妊娠例と変わらなかったようですが、それでも「奇形児が増える」とまことしやかに語って憚らない人がいます。放射線の影響とは無関係に障害を持って生まれてくる子供はいるものですけれど、その辺が「放射能のせいだ」と後付けで解釈されることも今後は出てくると考えられます。
随所で勝手に盛り上がっている反原発デモでも、やれ奇形児が増える、奇形が産まれると主張し、挙げ句の果てには「奇形児」のコスプレを呼びかけた人もいたそうですが(これは流石に顰蹙を買ったとのこと)、これこそ障害を持って生まれた人への明確な差別であり、紛れもない優性思想の発露でもあります。こういう傾向は福島の事故に限らず反原発論にはつきまとうもので、チェルノブイリで事故があった際にも頻繁に見られたようですが、それが今も尚繰り返されていると言えるのではないでしょうか。原発事故の影響で障害児が増えると宣う人が群れをなし、それを真に受ける人も増えるばかりだとすれば、これから優生思想を「実践」する人もまた増加していくことが懸念されます。ダウン症児は生まれてこない方が良い、障害者は産まれてこない方が良い、と……
この子に兄弟がいたり私たちに兄弟がいて、その子供が少しでも気にかけてくれるなら…。でも私達には他に子供はいませんし、兄弟もおりません。
もしも国がひとりぼっちになってしまった障害のある子供を必ず面倒を見てくれるなら…そう思います。一人で生きていけない子供を、高齢の親が生むのはとても不安なのです。自分たちが死んでしまったら終わりでは済みませんから…。昔と違ってダウン症の子供の寿命は延びています。ですから悩むのです。検査をするのも危険が伴います。多分前日まで悩むと思います。何年も何年も望み続けた子供なのに、こうやって悩まなきゃならない事が悲しいです。ダウン症や障害者が生まれて来ない方が…ではなく、そういう子供も安心して出産出来る日本になる事を祈っています。妊婦や家族がどんな子供でも、この国なら大丈夫と思える国では今はないのだとおもいます。
自分の体で生きる命を、障害があるからと簡単に中絶出来る親は少ないと思います。みんな悩み苦しみギリギリの選択をしなければならないのです。コメントを反映していただきたくて書いたものではありません。一妊婦としての意見を聞いていただきたかったのです。最後まで読んでいただけて幸いです。
コメントありがとうございます(反映してしまって差し支えなかったでしょうか?)。月並みではありますが、難しい問題ですよね。産むにしても堕ろすにしても、どちらを選んでも悩むことにはなるのではないかとも思いますし。仰るように障害があっても安心して産める、生きられるようであってほしいと願うほかありません。
当方の妻もいわゆる「高齢出産」でした。また自分(=夫)もかつて高齢出産で生まれ、かつ子供の妊娠も人工授精でしたからダウン症などもリスクには夫婦ともども悩まされました。
ただやはり私たち夫婦も何年も待ち続けた子供であっただけに、子供がどうあろうと最大限受け止める覚悟と親としての責任を自覚し、用水検査などはしませんでした。
非国民通信管理人さん同様、今回の原発事故によって妊婦さんの中絶増加や不幸にして障害を持ったお子さんへの差別や偏見が生まれることを大変危惧しています。チェルノブイリの時もロシア、ベラルーシなどで中絶が増えたことが報告されています。その理由はやはり障害を持つ子が生まれることへの恐怖でした。恐怖をことさら煽る方々はこうした現実があったことをよく考えてほしい。
色々と不便な思いをせざるを得ないこともあるのでしょうけれど、やはり障害があるという理由で一概に否定されるようなことは、あって欲しくないと思いますね。簡単なことではないのかも知れませんが、障害があってもその人には命があるわけですから。
「五体満足でよかったね。」という言葉はよく聞かれますが、それがそうでない人々を「よくないもの」として傷つけているという話を思い出しました。
まあ、このような結果は起こるべくして起きたことではないでしょうか。日本(以外にも同様の国もあるでしょうけど。)では何事も競争で、子どものころから受験戦争に勝ち残り、良い学校に行き、良い会社に入り、「社会人の常識」を身につけなければなりませんから。そこから脱線したものは例えダウン症などがなくても「失格者」認定。それらが困難な人(できる人ももちろんいるのですが。)はすでに「失格者」なのでしょう。逆にこれらの症状が、免罪符となる場合もあるのですが、社会的な要因であって本人の意思ではありませんし。やはり、生き方の多様性を認めない社会では障がい者でなくとも生きにくいです。
元からそういう傾向はあった、元から優生思想の強い社会ではありましたからね。それでも、そういう考え方は良くないという建前はあったはずですが、原発事故後はすっかり箍が外れてしまったようです。