心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

それぞれの晩秋

2007-12-09 23:50:19 | Weblog
 通勤途上の公園に聳える一本の銀杏の樹が、きれいに黄色に染まります。でも、次の朝には、地面いっぱいに黄色い葉っぱが敷きつめられて、銀杏の葉っぱの一生は終わります。その落差に、いつも心が痛みます。手許に「葉っぱのフレディ」というCDがあります。大きな樹の1枚の葉っぱの生涯をメルヘンチックに綴ったものですが、「こころ」が萎えているときには、わたしのような大の大人でも、感動をもって聴くことができます。
 いずれにしても、「落葉」の儚さは、桜花とは違う意味で、ずきんと心に迫ってくるものがあります。その落差が嫌だから、わたしは小さいときから、楽しいときも目いっぱい楽しもうという気持ちにはなれなかった。この卑屈さが今もわたしの心の奥底に巣食っています。幼少の頃、わたしは企業戦士だった父親と離れ、母親と兄弟と田舎で暮らすようになりました。妻子は仕事には足手まといだったのでしょう。そのぶん、お正月や5月の連休や、我が家の守護神を祭る夏祭・秋祭には、1週間ほど休暇をとって帰ってくる父を、わたしは、指折り数えて待っていました。帰ってくると、それまでの出来事を報告し、父親の意見を求めました。父も真剣に聞いてくれましたから、ほんとうに楽しいひと時でした。でも、そんな楽しいひと時も、1週間ほどで終わる。その落差が怖くなって、ある時期から、再開の喜びを自制するようになりました。別れの落差が怖かったからです。
 ふと、思います。銀杏の葉っぱの落葉も同じなのです。まっ黄色に染まった美しい紅葉が、この激動の1年を思わせます。でも、次の一瞬に、さあっと落葉してしまう。わたしの、この1年っていったい何だったんだろうかと、急に寂しくなってしまいます。そう、秋の儚さを実感する瞬間です。楽しいことと、寂しいことの落差、そのあまりにも大きな落差に、わたしは耐えられない。いつまでも、大人に成りきれない、わたしが、そこにいます。
 きょうは、めずらしく日曜日の夜の更新作業になりました。家内と二人、神戸界隈を散策したあと、「神戸ルミナリエ」を見学して、さきほど帰宅したところです。特設サイトには、「阪神・淡路大震災犠牲者の鎮魂の意を込め、都市の復興・再生への夢と希望を託し、大震災の起こった1995年の12月に初めて開催しました。以来、神戸ルミナリエは震災の記憶を語り継ぎ、都市と市民の希望を象徴する行事として、毎年開催しています」と、紹介されています。暗闇に浮かぶ光の芸術を堪能してきました。と同時に、「生きる」ことの意味を考えました。
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