先週は雨の多い1週間でした。きょうは持ち直したものの、お陽さまは曇の影にお隠れです。でも、今週から気温があがり、桜の開花予報もそろそろお目見えなんでしょう。我が家の庭では、クリスマスローズが開花期を迎えています。
ブルーベリーやライラックの枝先には、花芽が大きく膨らんでいます。カリンの苗木を寄せ植えした鉢は、早くも芽吹きの季節。知らない間に着実に春は近づいています。3月も半ば、卒業シーズン真っ盛りですが、あと半月もすれば真新しいスーツを着た若者たちが、緊張した面持ちで通勤電車に乗り込んできます。
通勤電車といえば、ここ1週間、電車の中で、角川文庫「伊勢物語」(ビギナーズ・クラシックス日本の古典)を、ぱらぱら捲っています。隣の御方が日本経済新聞を熱心に読んでいる横で、「からころも 着つつなれにし つましあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思う」なんて、現実離れした歌を眺めている私がいます。京の都を離れ東下りをする昔男が、八橋という所で、晴れやかに美しく咲く杜若に出会い、都にいる妻を思って歌ったものです。時間と空間の違いは受け止めながら、人の心の奥に在り続ける何か普遍的なものを感じ、また考えたりしている私がいます。この伊勢物語を題材にした能の作品には「杜若」や「井筒」があります。
手元に別冊宝島「鳥獣戯画の謎」があります。人の思いと行動を、兎や蛙、猿などの動物の行動を通して表現しようとしています。そのタッチの素晴らしさ、表情の豊かさ。作者の時代精神を見る思いがいたします。
表紙は「誰が何のために、この不思議な世界を描いたのか」と読者に語りかけます。時代に対する痛烈な風刺、批判精神を読み解くこともできなくはありません。作者の心は墨絵を通じて800年後の今も生き続けています。この鳥獣戯画の本物を、私は昨秋、京都国立博物館の特別展で観ました。
年代を追っていくと、伊勢物語が平安初期、鳥獣戯画が平安末期から鎌倉初期。相前後して方丈記や平家物語が誕生します。西洋は十字軍の時代ですから、グローバルな視点で眺めると、なんとも不思議な、しかし人間の生き様をこうした作品を通じて知ることになります。
長い仕事人生、様々な人の生き仕方が走馬灯のように浮かんでは消えて行きます。先週は、かつて国の施策の中枢にいた御方と一献傾ける機会がありました。国を動かす者と動かされる者の、哲学、感性の違いのようなものを思いました。両者、いずれも間違ってはいないのだけれども、こうして右往左往しながら人間は歴史を刻んで行くということなんでしょう。
そう言えば最近、家内がそっと言います。「見てごらん。ゴンタが黄昏れているよ」と。何?覗いてみると、ぼんやりと遠くを見つめているゴンタ爺さんがいます。身動きもせずに、じっと遠くを見つめています。
広辞苑を開くと、「黄昏れる」とは「たそがれ(黄昏)」を動詞化したもの。夕方になる。「黄昏」を調べると「たそがれどき」の略。比喩的に、物事が終りに近づき、衰えの見える頃。「人生の―」。ゴンタ爺さん、人間で言えば、後期高齢者の仲間入りをしています。でも、元気に散歩もするし、食欲も旺盛。まだまだ元気ではあるのですが。
ふと、ダニエル・レビンソンの「ライフサイクルの心理学」を思い浮かべました。文庫2分冊のこの書のメインテーマは、中年期(40~60歳)で終わっています。後は、およそ2500年前の古代ヘブライの「タルムード」、古代中国の「孔子」、ギリシャの「ソロン」を引き合いに、人間の年表を紹介するなかで60歳以降のことに簡単に触れています。ゴンタ爺さん、発達段階を超越したということなんでしょうか。黄昏期に入ったと?
雑文を書き上げアップしようとするこの時間になって、窓の外が明るくなってきました。きょうは内田光子のショパン・ピアノソナタをLPレコードを聴きながらのブログ更新でした。