今朝、愛犬ゴンタとお散歩にでかけたときは、雲間から青空も見えていましたが、帰る頃になると小雨がぽつり、ぽつり。今では大粒の雨が思い出したように降っています。最近の天気予報は良く当たります。この雨と風で近所の公園の桜もだいぶん散ってしまいました。桜の花って、ほんとうに儚いものです。それを儚いと思う心が日本の心なんでしょう。きっと。そんな4月最初の日曜日、きょうはブラームスのバーラード集と2つのラプソディをグレン・グールドのピアノで聴きながらのブログ更新です。

さて、桜と言えば本居宣長。本居宣長といえば小林秀雄。季刊誌「考える人」2013年春号は、生誕111年・没後30周年記念特集「小林秀雄 最後の日々」です。なんと特別付録CD「小林秀雄×河上徹太郎:歴史について」が付いています。時は1979年7月23日、場所は福田屋。「文學界」創刊500号を機会になされた対談の音源だそうですが、好きなお酒を飲みながら自由奔放な話が踊ります。ずいぶんお酒が進んでいたんでしょう。長女の白洲明子さんのエッセイ「よっぱらい」には、「父の声からお酒のまわり具合が手に取るように感じとれ、酔っぱらった姿が目に浮び、懐かしさで胸がいっぱいになりました」とありました。これは、二人の最後の対談であり、小林秀雄最後の対談と記されています。昨晩は、ウイスキーを片手に楽しい時間を過ごしました。

そうそう、先週日曜日は大阪ビジネスパーク(OBP)のTWIN21で開催された「ツイン21古本フェア」に行ってきました。京橋駅から徒歩5分と意外に近い場所にあります。広い1階フロアには整然と本棚が並べられ、三々五々人々がやってきては品定めです。難しそうな本から趣味の本、昔の少年漫画雑誌まで多彩な品揃えでした。時間をかけてじっくりと見て回りました。なんどか行ったり来たりしながら、今回は少し奮発して4冊をお持ち帰りでした。グレン・グールドの「著作集2」、小泉節子・小泉一雄著「小泉八雲」、K.クロスリイーホランド著「北欧神話物語」、そして学芸総合誌「環」2010年夏号(特集:多田富雄の世界)です。ちなみに「環」は、雑誌のくせに1冊定価3600円もしますから、500円の古本でしか購入しません。
こうして購入した古本は、自分なりにお手入れをした後、とりあえずベッド横の、手の届く位置にある本棚に並べます。そして、気の向くままに眺めることになります。最近、仕事の本は部屋では読まないことにしているので、眠る前のひとときが読書の時間になります。

まず手にしたのは「小泉八雲」でした。その第一編は、八雲を温かく支えた節子夫人の「思い出の記」です。夜な夜な明治20年代の日本の世相を思い浮かべながら読みました。
「その頃東京から岡山辺りまでは汽車がありましたが、それからさきは米子まで山また山で、泊まる宿屋も実にあわれなものです。村から村で、松江に参りますと、いきなり綺麗な市街となります」。その当時、松江から東京に向かうのは結構たいへんだったんだと改めて思いました。明治5年生まれの私の祖父は東京の学校で学びましたが、岡山までは歩いて行ったのでしょうか。それとも.....。そんな取りとめのないことを思いながら眠ってしまいました。
この本は、松江、熊本、東京での生活を振り返りながら、八雲の人となりが綴られています。何年か前、松江のお城端にあった小泉八雲旧宅を家内と見学したことがありますから、なんとなく立体的に思い浮かべることができました。読んでいて意外に思ったのは、八雲の日本語でした。「本を見る、いけません。ただあなたの話、あなたの言葉、あなたの考えでなければいけません」。日本人以上に日本の文化に関心を寄せた八雲は、子供のような素直な心と好奇心に満ち溢れていたのでしょう。50頁足らずの小編ですが、楽しく目を通しました。
八雲は死の直前、子供たちと夕食を共にしています。機嫌がよく、冗談などいいながら大笑いなどしていたようですが、子供らと別れ、いつものように書斎の廊下を散歩していたようですが、一時間ほどで節子夫人のところにやってきて言ったそうです。「マアさん。先日の病気また参りました」と。寝床についたあとしばらくしてこの世を去ったと記されています。そこには文筆家の八雲ではなく、一人の人間としてのパトリック・ラフカディオ・ハーンの姿がありました。
第二編は長男一雄氏の「父八雲を憶う」です。

私も八雲に劣らず好奇心旺盛です。あっちを見たりこっちを見たり。何冊かを同時に、場面を変えて読み進む私の癖は直りそうにありません。おそらく仕事のストレスを本を読むことで解消しているのでしょう。
ではリタイアしたら集中して読めるかと言えば、必ずしもそうではない気もします。それはそれでまた違った状況に置かれるような気がしないでもありません。要するに、どれだけ現実社会に向き合って生きているかどうかということだろうと思います。激動する時代環境の中に自らを置くこと。生きることに関心がなくなれば、読書も遠ざかるのではないかと思ったりしています。そういう意味で、私にとって読書は生きている証なのかもしれません。
なんだか今日は、硬軟織り交ぜた私の読書術の一端をご紹介してしまいました。