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デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



ハンス・マンネチェ「燃えさかる木」(2007)

西教会には「燃えさかる木」という作品が展示されていた。別の教会でも写真展とかやってたり、スペースをいろいろ有効に使っているように思った。
画像の「燃えさかる木」というのは、ユダヤ経典(モーセ五書)や新約聖書、コーランに出てくる「神の存在」の象徴で、モーセが燃えさかる一本の木の中から神の声を聞いて、エジプトにいたイスラエルの民をカナンの地に導くエピソードからきているという。


墓石!?







12時を過ぎて、空腹を覚えた。

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教会もいろいろだが、プロテスタントの西教会は本当に質素であった。レンブラントが埋葬された教会にちなんで、その頃のオランダの歴史についてちょっと考えてみたくなった。






ローマ教会が君臨する中央集権的なカトリック教会に反対するプロテスタントの教えは、ネーデルラントで大きな反響を巻き起こした。
宗教改革者にジャン・カルヴァンという人がいるが、彼も免罪符の教会による販売を非難した一人であった。カトリックに対するカルヴァン派の抵抗は激烈で、1566年には町から町へと広がったイコノクラスム(聖像破壊運動)の波によって各地の教会堂でステンドグラスや彫刻や絵画が破壊された。
また、この頃起こった戦争に「八十年戦争」がある。これは北ヨーロッパにおけるプロテスタント勢力の拡大を食い止めようとしたネーデルラントの支配者スペイン王フェリペ2世(カトリック)に対する、ネーデルラントの貴族と改革派による反乱であった。この反乱は1568年に始まり、1648年のミュンスターの和約締結まで続くが、宗教問題だけでなく、政治的理由からもスペインの支配から開放を目指すものであった。



1648年までに、今のオランダとほぼ地理的に重なる北部ネーデルラントの7州は共和国の樹立にこぎつけた。オランダ共和国は「国教」を定めなかったが実状はカルヴァン派国家であった。オランダにおいてプロテスタントの教義だけでなく、国家として新たに独立したことは、人間個人の責任の強調のみならず、実験科学や経験哲学が促進されることとなった。自らの力で神の言葉を読んで学ぶことができるための信者の教育を目指した宗教改革者の教義が人口に膾炙したオランダで著述生活の大半を過ごした人物がデカルトである。レンブラントもそういった時代に生きた画家であった。

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レンブラント(1606-1669)は西教会の賃貸墓に埋葬された

アンネ・フランクの家のあと、その傍にある西教会に入ってみた。
現地にいたときには西教会についてガイドブックの分の説明すら見なかったが、帰国後なんと画家のレンブラントが埋葬された教会であったことには正直驚いた。
現地では無自覚であったが画像にはレンブラントが埋葬されたことを示す盾が写っている。西教会にはレンブラントの身内の人間も埋葬されているそうだ。

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時間が迫ってきたので橋を後にする…



なにかあるようだ。



1988年9月23日の単語だけは読めた

文を翻訳すると橋のひずみ発見と修復に一役買えてとても光栄であったみたいな感じだった(違ってたらすいません(笑))。


これは判読できなかった



ピクニック目的で訪れる人も



名残惜しい…

このつづきが、バス停で迷う話となる。

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ポン・デュ・ガールは現在のニームに水を供給するための水道橋であったが、この水道橋を含む導水路の全長は約50km、平均の傾斜角は1kmあたり34cm、一日の給水量は約2万立法メートルであった。
橋は上段(水道)が長さ275m、幅3m、高さ7m、中段が長さ242m、幅4m、高さ20m、下段が長さ142m、幅6m、高さ22mである。ということは、橋自体の高さは47mぐらいとなる。


導水路入口

博物館に入ったら導水路もガイド付きで見学できるらしい。


ここからでもなんとなく分かる(笑)

橋の導水路の部分は簡単に言えばトンネルになっているのだ。それはローマのクラウディア水道橋とも共通している。



ここから見ると水道橋に接して造られている人の歩ける石橋があるのがわかる。しかしこの石橋はローマ時代とほとんど同質の石で造られているのだという。なので遠くから一見しただけでは、それがわからないようになっているそうだ。

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マウリッツハイス美術館展にて

先月のことだが、マウリッツハイス美術館展エル・グレコ展を一日の間にはしごしてきた。
マウリッツハイス美術館展は、オランダの方で大規模な改修工事が行なわれるゆえ、美術館の主要作品が来ているそうなのだが、たしかにかなりの有名作品が来ていた。私個人は「デルフト風景」が来てほしかったが(笑)。
有名作品が多いゆえか来館者も多く、全体的にゆっくり見れなかったのは、毎度の事ながらやっぱり出かけたかいが無いように思えてしまう。
しかしフランス・ハルス「笑う少年」を間近で見れたのはよかった。この人の作品は荒いタッチでのびのびした豊かな表情を描くのが本当に上手いところに特徴がある。荒いタッチで大胆に描くのは絵を描くときのリスクが大きく、一瞬にして描きなおさねばならないことがわかってしまうほど危険なことなのだが、荒いタッチでバシッとキマっている作品というのは絵の中の人物が生き生きとする作品であるように思うのだ。ある意味、名画であるための条件の一つ、画家の技量およびセンスのバロメータといっていいかもしれないとも思う。画面を構成しているものすべてを、むちゃくちゃ細密に描いている絵も確かにすごいのだが、硬さとぎこちなさがどこか目に付いてしまう。


エル・グレコ展を後にする

「良き比例を備えた美しい人物像とは、立っている場合と馬に乗っている場合とでは同じではない……。というのも、馬に乗っている時には、彼は我々の視点よりも高い位置にいるからである……。その時はどうしても人物の比例を変更することが必要である。」(エル・グレコ)

「もし女性の(背の高さから比例の)一部分を取り除いてしまったら、その美しさなど跡かたもなくなってしまうであろう。また、彼女たちが高い靴をはくことによって得たいと願っている効果(つまり背を高く見せること)も、よく理解できる。」(エル・グレコ)


エル・グレコ展の方は、開館時間を延長している曜日であり、またTVで特集番組を見て行ったこともあったので非常に楽しかった。
展の見せ方もまたよかった。グレコが自分の作風について確固たる信念を持っていたことを示すグレコ自身の言葉も紹介されていたが、画家という職業が身分的に決して高くない時代にそこまで自己を主張しつづけて、大丈夫だったんだろうかと思えるほどであった(笑)。自分の絵に対する支払いをめぐって、何度も訴訟を起こしていることも、それを物語っているように思う。
印象に残った作品は「芸術家の自画像」「聖母を描く聖ルカ」「修道士オルテンシオ・フェリス・パラビシーノの肖像」「聖ヒエロニムス」「悔悛するマグダラのマリア」「受胎告知」「無原罪のお宿り」などたくさんあったが、これまで神秘主義に走ったことで人物の体が引き伸ばされた画風になったとされてきたことが、近年発見されたグレコ本人の言葉から教会内で飾る位置を考慮し、鑑賞者が見上げたときに最も絵の人物を美しく見せるための計算の結果、あのような画風になったことを踏まえて見ると、俄然楽しい鑑賞になった。

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ユベール・ロベール「ポン・デュ・ガール」(1787)、ルーヴル美術館蔵



ヴィジェ=ルブラン「ユベール・ロベールの肖像」(1788)、ルーヴル美術館蔵

ポン・デュ・ガールについては、古代ローマのインフラのすごさと美しさを見に行くという目的以外にも、ロココ期に描かれたルーヴル美術館蔵のユベール・ロベール作「ポン・デュ・ガール」(1787)のモデルでもあることから、実物の遺跡見学を楽しみにしていた、というところがあった。
旅先で絵画に描かれた場所を訪ね、その場所から絵を再現するような風景を見たり写真に収めたりするような観光というか行為は、正直ナンセンスであると思うこともある。そんなことをしても絵の中に入れるわけでなし、絵とまったく同じような風景や光景が存在するわけでなし、そもそもロベールの絵に描かれたポン・デュ・ガールは、ナポレオン三世が修復するよう命令を出す前の姿を留めてるので、決して今の姿ではない。
しかし私は、短い時間中に冒頭の絵と同じような写真が撮れるかどうかのチャレンジしてしまうのであった(笑)。









たぶん、ロベールは午後の太陽の光が橋を照らす方向から橋を描いたと思う。川の形や岩の位置からしても、この方角からだろう。
でも私はやっぱり素人であった。絵にある橋の角度を意識するあまり、手前の人物が立っている川岸の岩のことに思い至らなかったのだ。絵の橋はもう少し遠いところから橋の全体を捉えているから、まだまだ離れた位置それも対岸でロベールは絵を描いたであろうと思う。できるなら事前によく構図を見ておいて行ける地点か判明させて、それが無理なら時間をかけて自らの足で見つけたいところだったが、時間的の余裕の無い旅行というのは、探索の意欲を自ら断念せねばならなくなるからつらい(笑)。
その点、帰国後にネット上で検索して出てきたこちらこちらこちらなどの画像は、絵の構図的にはかなり近いのでは、と思えるし、正直これらの写真を撮った人たちをうらやましく思う。ただ、ここからだと橋が正面過ぎてしまい、絵のように橋は見えない。それに絵の橋の右端と接する岩壁の感じは午前に陽のあたる方向の岩壁の感じじゃないかとも思えてしまう…。
結局のところ、絵の構図とぴったり合う場所はあっても、絵が風景の見た目どおり描かれているとは限らないのは当たり前だし、それでなお絵に見入ってしまうところに絵画の面白いところがあるのである。最も美しく見えるよう絵としてバシッときまったものになるよう構図に多少の変更を加えたり、特定の位置からでは絶対に見ることのできないものを描きこんだり、生い茂った木々を絵ではカットしたり(ロベールが見たときはそもそもなかったのかもしれない(笑))、岩の形を変えたり(単に現在では形が変わっているだけかも)、そこにはいなかった可能性の高い俗的な人物を加えたり、"廃墟のロベール"の特徴が絵画の「ポン・デュ・ガール」でもいかんなく発揮されているという結論に私の中では収まる。
なにはともあれ、昔の有名画家の絵は昔の有名画家の貴重な絵であり、訪れる人々の撮る写真はその人々個々人の貴重な写真なのだ。カメラをお手軽な価格で手にし旅行先に持ってこれる現代では、誰でも自分だけの美しい風景像、ポン・デュ・ガールの像を形に残せるのである。自分でこんなことを書いて手前味噌なところもあるが、短い時間であっても現地でいろいろなところから橋の姿を撮っておいてよかったと思える画像がいくつかあり、それは何物にも換えがたいものだと思う。


見上げると本当に大きく感じる


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『アンネの日記(増補新訂版)』深町眞理子訳(文藝春秋)を再読した。実のところアンネ・フランクの家に関する一連の記事を書き始めた時点で、かなりの分量を読んでいた。
高校のころに読んだときとは異なり、こんなエピソードあったっけか?と思えるような内容が少なくなかった。それは単に私が『アンネの日記』の内容を忘れているだけのこともある。また当時は前の版(たしか決定版でもなかった)での読書だから、思い出せるはずが無いエピソードを増補新訂版で初めて目にした内容があってもおかしくはない。
「日記」は、13~15歳の感受性が強くて少し大人びていて表現力が豊かな少女の潜行生活の手記であることはいうまでもないが、彼女が将来文筆で身を立てたいという希望を持っていたことを考えると、やはり「日記」もいつか公開される事を見越した創作物として書かれた面があることを看過できないと今回は思った。(尤もこれは多かれ少なかれ、訳文の表現(日本語のそのものの印象)が影響している面もあるかもしれない。)
一般の15歳の少女はアンネではないが、アンネは15歳であったことには変わりない。彼女の葛藤の処理の仕方、自分への自信、自分を見つめ成長する力は、一般の少女が大きくなっていくプロセスの速度とあまり変わりないのかもしれないが、そのプロセスを表現する力はたゆまぬ勉強と観察眼、そして文章を書く上での構成について創造力を常に働かせた結果、非凡なものになったことは否めないであろう。もちろん、ときには支離滅裂な気持ちで書いてしまい前後不覚のような文もある。それはそれで書くという立場にあっての現実感を覚えさせているように思う。
子どもにこんな日記が書けるのか、と疑いの目で「日記」を読む人も少なからずいるかもしれない。しかし、あのマルセル・プルーストだって小学生の頃の作文でかなり老獪な文章を書いていたり、ピカソの子どもの頃に描いた漁師の肖像画のことなどを思い出すと、そこまで「日記」に対し不思議な気持ちを覚えなくなった。若くして大人が驚くようなものをこしらえてしまう人は少なからず存在している、と「日記」を再読し、改めて思った。

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