(承前)シマノフスキー作曲「王ローゲェ」にはその舞台に関して事細やかにその光の扱いまでが指示されているようである。今回の演出では男性の裸踊りも無く飽く迄も抽象的に扱われた故に余計にその音楽に耳が向くことになった。すると合唱は兎も角、ピットからはどうしてもそのアンサムブルの核と質が問われることになるのだが ― 現在の第二カペルマイスターの位置にはアシスタントとしてタケシ・モリウチと言う人が就任している ―、残念ながら市立劇場の管弦楽団は、ペトレンコ指揮のミュンヘンのアンサムブルの様には到底いかない。因みにキリル・ペトレンコは、ここで浪人中に新制作を二つも振っているが、こけら落としなどで余程のことでもないことには戻ってくることは無いであろう。
そもそも劇場の指揮者カムブレランの指揮の冴えもその域を超えないことから、例えばサイモン・ラトル指揮や先日ヴァイオリン協奏曲を指揮していたネルソンズ指揮のボストン交響楽団とは比較のしようが無い。なによりも物足りなく感じたのは、全音階であろうとも調性であろうとも、またはクラスターの響きであろうともそこでの管弦楽上の差異を付けれるようなアンサムブルには至っていなかったことで、同じ条件でもペトレンコが指揮を担っていたならば少なくとも三回目の上演となれば努力目標として解決可能なグラデーション付けへとまでは全く手が付けられていなかった。恐らくこの指揮者がSWRの交響楽団でも出来ていなかった面では無かったかと思う。それは終演後の指揮者への拍手を見てもよく分かったが、恐らく読響での様に鳴らしても本場の劇場の聴衆は殆ど喝采しない。その手の管弦楽が受けるのは日本におけるそれの需要の歪であって、同時に二流楽団ほどにはピッチの落ち着いたビックファイヴなどがそれほど人気が無い事にも矛盾していない。
しかしこのミストリウムにおいても情感的な裏付けが不可欠であって、さもなくば何も語りかけることも無く、こうした指揮者の劇場感覚がとても重要である。この指揮者を聞くのはザルツブルク時代から久しぶりだったが、流石にその指揮も並の劇場指揮者とは違い、確かに指示がよくなっていると感じた。
因みに、各放送局などの批評にもあるようにキャスティングに穴が無かったのも賞賛されている。特にタイトルロールのルーカス・ゴリンスキはこの役のエキスパートであり、ポーランド以外では殆ど歌っていなかったようで、来年にはコヴェントガーデンでのマルチェロなどが入っている。王の妻を多くはヴォカリーゼで歌ったシドニー・モンツェソーラも良かったのだが、牧童役のゲラルト・シュナイダーに役ごと喰われて答礼の順番を変えられて若干気の毒だった。その役作りに関しては、もう少し両性的なものが出ないかと感じたのは前夜に散々カウンターテノールを聞かされていたからかもしれない。
さて、オリエンティーリングにもあったように、この劇場作品のフィナーレを体験するとすっきりせずにもやもやした気持ちになるとしたのは、この楽曲における主題がオリエンタルな主題を散りばめ乍らも異国情緒とはなっていないことにも関係する多文化主義的な要素と、今回も小さな鏡が演出として使われていたがそれが自己投影するという創作動機がそこにあるからだ。
カトリック教会が国民統合の中心に君臨していて、今日現在のヴァルシャワ政府が教会を基本文化として仰ぐポーランド社会にとっては、ここに見る両性具有のような牧童が体現するエクスタシーは、その社会からすれば異物でしかない。異文化とするそのこちら側にはドグマティックなキリスト教文化圏からの窓が開いていて ― 舞台では背後の壁の上から牧童が手前で繰り広げられる様を覗き見るような演出になっていて丁度こちらからとは反対の視点が存在している ―、ここで主役の王ローゲェはそこに踏みとどまることになる。その視点の微妙さこそが、聴衆に訴えかけることとなっている。まさに今日のEUの視点をそのまま映し出しているからである。音響的なグラデーションがそこに求められている楽譜となっているのは想像が付くのではないか。
一つ空いた席の横に居た爺さんが、暗転から明るくなると同時に喉を鳴らしつつブラヴォー第一発を出していた。やるだけやって早めに席を立って帰って行ったので、その真意を聞くことは無かったが、ミュンヘンなどとは異なり劇場的な価値観がまたシュトッツガルトのアンサムブル重視ともまた違うものを感じた。
逆にそうした客層から、前晩のヘンデル作曲「ロデリンダ」公演の人気と、その公演最終日の聴衆の反応をもう一度思い出してみたい。「王ローゲェ」に比較して、どうしてここまで人気があるのか?ヘンデルのオペラの上演はどこの劇場でも日常茶飯であり、他のバロックオペラに比較すると若干ヘキヘキとする傾向があるぐらいだからだ。勿論今回は「ユリアスシーザー」以来のフランクフルト出演のアンドレアス・ショルの歌にクラウス・グートの演出という人気は無視できなかった。そして実際にその演出もとても後を引く印象を残した。(続く)
参照:
早くも秋の気配の夏休み 2011-07-22 | 暦
避難第三弾を計画 2019-04-04 | 生活
そもそも劇場の指揮者カムブレランの指揮の冴えもその域を超えないことから、例えばサイモン・ラトル指揮や先日ヴァイオリン協奏曲を指揮していたネルソンズ指揮のボストン交響楽団とは比較のしようが無い。なによりも物足りなく感じたのは、全音階であろうとも調性であろうとも、またはクラスターの響きであろうともそこでの管弦楽上の差異を付けれるようなアンサムブルには至っていなかったことで、同じ条件でもペトレンコが指揮を担っていたならば少なくとも三回目の上演となれば努力目標として解決可能なグラデーション付けへとまでは全く手が付けられていなかった。恐らくこの指揮者がSWRの交響楽団でも出来ていなかった面では無かったかと思う。それは終演後の指揮者への拍手を見てもよく分かったが、恐らく読響での様に鳴らしても本場の劇場の聴衆は殆ど喝采しない。その手の管弦楽が受けるのは日本におけるそれの需要の歪であって、同時に二流楽団ほどにはピッチの落ち着いたビックファイヴなどがそれほど人気が無い事にも矛盾していない。
しかしこのミストリウムにおいても情感的な裏付けが不可欠であって、さもなくば何も語りかけることも無く、こうした指揮者の劇場感覚がとても重要である。この指揮者を聞くのはザルツブルク時代から久しぶりだったが、流石にその指揮も並の劇場指揮者とは違い、確かに指示がよくなっていると感じた。
因みに、各放送局などの批評にもあるようにキャスティングに穴が無かったのも賞賛されている。特にタイトルロールのルーカス・ゴリンスキはこの役のエキスパートであり、ポーランド以外では殆ど歌っていなかったようで、来年にはコヴェントガーデンでのマルチェロなどが入っている。王の妻を多くはヴォカリーゼで歌ったシドニー・モンツェソーラも良かったのだが、牧童役のゲラルト・シュナイダーに役ごと喰われて答礼の順番を変えられて若干気の毒だった。その役作りに関しては、もう少し両性的なものが出ないかと感じたのは前夜に散々カウンターテノールを聞かされていたからかもしれない。
さて、オリエンティーリングにもあったように、この劇場作品のフィナーレを体験するとすっきりせずにもやもやした気持ちになるとしたのは、この楽曲における主題がオリエンタルな主題を散りばめ乍らも異国情緒とはなっていないことにも関係する多文化主義的な要素と、今回も小さな鏡が演出として使われていたがそれが自己投影するという創作動機がそこにあるからだ。
カトリック教会が国民統合の中心に君臨していて、今日現在のヴァルシャワ政府が教会を基本文化として仰ぐポーランド社会にとっては、ここに見る両性具有のような牧童が体現するエクスタシーは、その社会からすれば異物でしかない。異文化とするそのこちら側にはドグマティックなキリスト教文化圏からの窓が開いていて ― 舞台では背後の壁の上から牧童が手前で繰り広げられる様を覗き見るような演出になっていて丁度こちらからとは反対の視点が存在している ―、ここで主役の王ローゲェはそこに踏みとどまることになる。その視点の微妙さこそが、聴衆に訴えかけることとなっている。まさに今日のEUの視点をそのまま映し出しているからである。音響的なグラデーションがそこに求められている楽譜となっているのは想像が付くのではないか。
一つ空いた席の横に居た爺さんが、暗転から明るくなると同時に喉を鳴らしつつブラヴォー第一発を出していた。やるだけやって早めに席を立って帰って行ったので、その真意を聞くことは無かったが、ミュンヘンなどとは異なり劇場的な価値観がまたシュトッツガルトのアンサムブル重視ともまた違うものを感じた。
逆にそうした客層から、前晩のヘンデル作曲「ロデリンダ」公演の人気と、その公演最終日の聴衆の反応をもう一度思い出してみたい。「王ローゲェ」に比較して、どうしてここまで人気があるのか?ヘンデルのオペラの上演はどこの劇場でも日常茶飯であり、他のバロックオペラに比較すると若干ヘキヘキとする傾向があるぐらいだからだ。勿論今回は「ユリアスシーザー」以来のフランクフルト出演のアンドレアス・ショルの歌にクラウス・グートの演出という人気は無視できなかった。そして実際にその演出もとても後を引く印象を残した。(続く)
参照:
早くも秋の気配の夏休み 2011-07-22 | 暦
避難第三弾を計画 2019-04-04 | 生活
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