Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ヒューマニズムへと

2019-06-14 | 文化一般
承前)ヘンデル作曲のバロックオペラをあまり好まない。演奏実践が折衷なものが多かったからで、古楽器で演奏されるとは今でも限らないだろう。バッハの場合ならばメスト指揮で一度体験したように昔のように通常の管弦楽団で演奏されても上手くやれる。しかし、ヘンデルの場合はどうしても通奏低音が重くなって、一層のことピアノで合して欲しいと思わないでもない。そして古楽器演奏でもこれならという合奏団がというのは、嘗てのガーディナー指揮のモンテヴェルディ管弦楽団とかクリスティー指揮のレザールフロリサンとか決まりの楽団は限られる。その後の楽団でも意外にヘンデルでは苦労している。

その中で今回は指揮者のマルコンがオペラを振った。前回のフランクフルトの会に招聘された時のバッハの受難曲においても合唱の扱いが変わっていて、管弦楽にそっけなく乗るという感じがあった。それが思いがけない効果を生んでいた。今回も何かを期待したが、やはりオペラはオラトリオとは異なり純器楽的な処理は困難である。まるで古楽器界の指揮者サイモン・ラトルであった。

新聞評は全く反対に、歌手の独唱などを楽しむ人にはとあったが、少なくとも当夜の出来では同意しかねる。先ず、共同制作の手軽さか、もう一つ指揮と演出がしっくりこなかった。この指揮者の得意なもう少しドライな歌を歌手に歌わせていたら、前述のバッハのような効果を出していたかもしれないが、どうもこの指揮者は端から歌手への練習を諦めているようなところがある。それはその器楽における音楽の作り方からも想像できる。恐らくどの歌ももう少し個性を強くしていればヘンデルのオペラにおける見せ方が徹底して、エンタメ効果が強調されたかもしれない。これは新聞にもあるような、「どこまでが」という感情の出し方がヘンデル解釈の味噌ではないか。この指揮者がヴィヴァルディを振ったりバッハを振るよりもヘンデルは難しかった。要するに簡単にはヒューマニズムへとは行きつかない。その音楽性であり人間性であるから致し方ない。

その意味から歌手には気の毒だった。その中でもアンドレアス・ショルは涼しく歌いあげたが、その技術も嘗ての様な独断場である時代とも異なり、やはりもう一つの歌い込みが欲しかった。特に怒りの表情や男性的な歌となるとそのカウンターテノールに明らかに違和感を感じた。今は更に踏み込んだ表現をするカウンターテノールもいるだろう。

本人がトレーラーで語っている。学生の頃は奇異に思われて、男性はマッチョでというのが今の社会ではもはや通じなくなっているのと同じで、その表現も可能性が大分広がっていると。現在のカウンターテノールによる歌とその歴史的な意味がそこに問われているという事にもなる。少なくとも私が個人的に知っているショルは身体も大きく手も分厚く、普通に男っぽいのだが、まさしく役者と同じで化けているのである。どこにその人の本当の姿があるのかなんてわからない。しかしそこに表現がある。

しかし実はそこがこの上演におけるハイライトではなかったかとも思う。そこには演出の子供の姿があって、死んだ筈の父親がひっそりと帰ってきていて、再婚を前にした母子家庭の子供である。グートの演出とその舞台では母子家庭はジョージアン風の大きな屋敷に住んでいる。そこの子供がいつもゴーストに付き纏われる。英国のその手の話しに近いものだ。しかし、その視線はどうしても裕福な家庭に育ったと思われる演出家そのもののそれをそこに感じさせた。

この演出が狙ったものは、そしてその去勢された声の芸術が、ヘンデルのエンタテーメントに通じる音楽の魅力とは、その音楽はと様々な問い掛けがなされる所である。(続く



参照:
フランクフルトのオペラ 2019-06-10 | 文化一般
いざ「ロデリンダ」 2019-06-08 | 生活
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