Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

蒼空のグラデーション

2018-09-08 | 
期待が大き過ぎた。行きの道すがら2015年にコンセルトヘボーで演奏されたマーラー作曲第九交響曲を聞いていた ― 因みにルツェルン音楽祭では50年前の丁度同じ日にオットー・クレムペラー指揮のニューフィルハーモニア管が初演した。アダージョであの「亡き子の歌」が上へと抜けて行くときフロントガラスの上の蒼いグラデーションの空へと視線が移って思わず感極まりそうになった。そのような演奏だった。その後にもこの五月にこの曲を指揮してから倒れているので、そこに更に厳しさが加わるかと予想した。
Mahler - Symphony No 9 - Haitink


ベルナルト・ハイティンク指揮のマーラーの特徴は、そこからも基本は古典派的な和声関係からの距離感を認識させるような表現で、それはそれなりに利点があると思っていた。この曲においても対位法的な書法を違和感無く響かしながら、十二分に聞かせることになる。実際に一楽章の演奏においても管楽器が不和な響きをしっかりと吹きならし、それなりの効果と意味づけは聞かせ所だった。また弦楽器間の繋がりと対位も上手に出ていたのだが、そこに期待したほどの芸は無かった。

端的に言うと、リカルド・シャイ―指揮のコンセルトヘボー管弦楽団のように世界一の楽団ではなかった。ハイティンクの指揮では到底先週聞いたペトレンコ指揮のベルリンの楽団のような域には達さない。とても残念だった。シャイ―指揮でこそ弦楽間の織の妙が聞かれて、皆が主張するようなハイティンクの指揮でこその美感は全く無かった。あるのは若干メローな和声関係だけだった。それだけでなく、ペトレンコ指揮で称賛されたコムパクトな響きはこの指揮者からは聞かれそうには無く、所謂独墺系の楽曲レパートリーにおける限界が明らかだった。それでも例えばバーンスタイン指揮のアンダンテには無いレントラーの歌わせ方などは立派で、反対にバーンスタインのそれはネゼセガンが出来ない事と全く同じで、昔は分からなかった違和感を強く感じるようになった。
Mahler Symphony no. 9 - Vienna Philharmonic Orchestra - Leonard Bernstein


不満と失望だらけだが、それでも今回この交響曲の創作意図に近づけたのは、ハイティンクの解釈に見られる古典から時を下がって来てのアプローチで、丁度作曲家マーラーのその時の音楽世界を追体験する形での演奏実践となる点である。やはり、終楽章のロシア風のメロディーも「悲愴」しか思い浮かばず、また一楽章の運び方にも「パルシファル」の影響も見て、この交響曲に六番のモットーや七番の手法などが散りばめられていて、この作曲家のこの一曲となれば間違いなく九番を残すしかないと確信した。技術的にも内容的にも行き着いたところであることは間違いない。ペトレンコ指揮のフィルハーモニカーの演奏が待たれる。

ファンも少なくないハイティンクについて貶しても何ら意味が無いのだが、再来週にもう一度今度はブルックナーで聞く予定なので、書き加えて措こう。終演後は杖を突いて舞台の横まで行き来するとスタンディングオヴェーションとなったが、もし同輩のブロムシュテットが杖か車椅子ならば同じだろうと思う。実際に不機嫌そうな人もちらちら居り、実力的にはそれほど差が無いと思った。この指揮者の読譜は悪くはないと思うが、マーラーの細かなテクスチャーを振れる力は無いようで、ショスタコーヴィッチも得意としていたようだが、同じようなアプローチでしかない。そのやや大雑把さならばブルックナーの方が上手く行くと思っている。そして二人とも常任指揮者を務めた名門で両方ともシャイ―の助け船に乗ることになっている。オーケストラビルダーとしてのシャイ―の実力を改めて見直した。そして今回の遠足の最大の収穫はなんとサイモン・ラトル指揮のリハーサル体験だった。(続く



参照:
殆どマニアの様な生活 2018-08-18 | 生活
期待しないドキドキ感 2018-08-25 | マスメディア批評

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