名古屋から発するブログつぶて・凡人のひとりごと

身の回り、世間のできごとをを日記風に記す(紙つぶてならぬブログつぶて)。

反響呼ぶ村上春樹の「尖閣エッセー」

2012-10-09 20:39:06 | Weblog
2012.10.9(火)
 10月15日号の週刊誌アエラに、作家の村上春樹さんが朝日新聞に寄せた東アジアの領土問題をめぐるエッセーが中国語に訳され、中国で共感を呼んでいるという記事が出ている。そのエッセーを読んだ中国の著名作家が、中国社会の今と自らの思いを綴った。
 作家の名前は、閻連科(イエンリィエンクー)氏。長いが引用する。
『中国はとても広く、多くの人々が毎日苛立ちの中で生活しているが、なぜ、誰のためにそんなに苛立っているのか、彼ら自身も説明することはできない。そんな苛立ちは、常にじりじりとした苦痛の中で、排泄できる窓と道を待っている。
 こんな状況だからこそ、あのデモにおける、あなたたち日本人だけでなく、それ以上に私たち中国人をも恥じ入らせる打ちこわしが起こった。しかし、中国の作家として、あの破壊者たちに心の底から憤りを感じる一方で、彼らの心の中のやるせなさと、多くの場合のよるべなさも理解できる。だから、日本書籍を本棚から撤去した書店のことも、でたらめで間違っていることだと心の中ではわかってはいるが、書店の店員のある種の憂慮も、またいくらかは理解できるのだ。…………
 戦争はあまりに恐ろしい災難である。多くの民衆にとって、戦争にいわゆる勝ち負けなどない。戦争が起これば、庶民である人々は、いつだって負け組でなくてはならない。死と墓。それが戦争が普通の人々に残す帰結なのだ。あの第二次世界大戦の教訓は、今日でもまだ世界中のやさしくデリケートな心の中で、血のように赤いままである。…………
 理性!理性!理性の声にほかにない。
 今このとき、理性の声がいかに貴重で重要であるか。もしも、中国、日本、韓国など東アジアの国々の知識人が、憤怒でも感情的にでもなく、対岸の火事を冷淡に傍観するのでもなく、みな立ち上がって理性的に話をしたら、人々の感情をいくらか落ち着かせ、領土あるいは領土争いを口実に激憤している人々にも、一杯の冷たい茶を差し出すことができるかもしれない。…………
 私はいつも考えている。ひとつの国家、ひとつの民族の、文化、文学が冷遇され消滅するとき、面積などなんの意味があるというのか? 中国の作家として、政治は政治に帰し、文化は文化に帰すことを、これほどまでに切に望んでいる。政治が不穏であるとき、いかなることがあろうと、まず文化と文学という世界各国の人々の心と血管と蔦を互いにつなげる根を絞め殺してはならない。つまるところ、文化と文学は人類存在のもっとも深い部分の根であり、中でも、中日両国及び東アジアの人々が互いに愛し合うための重要な血管なのである。』

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