名古屋から発するブログつぶて・凡人のひとりごと

身の回り、世間のできごとをを日記風に記す(紙つぶてならぬブログつぶて)。

南北朝鮮の首脳会談開催

2018-04-28 11:18:35 | Weblog
2018.4.28(土)
 韓国の文在寅大統領と北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長は27日、南北軍事境界線のある板門店の韓国側施設「平和の家」で会談し、「板門店宣言」に署名した。

「板門店宣言」の骨子
▼南北首脳が、完全な非核化を通して核のない朝鮮半島を実現するという共通目標を確認
▼年内に朝鮮戦争の終戦宣言をし、休戦協定を平和協定に転換するための会談を推進
▼北朝鮮・開場に南北共同連絡事務所を開設
▼韓国の文在寅大統領が今年秋に平壌訪問
▼敵対行為を全面的に禁止

 北朝鮮は、つい先ごろまでミサイルの発射実験を何回も繰り返し、「水爆実験」と称する6回目の核実験まで強行していた。米国との軍事衝突さえささやかれていた。
 ところが今年の元旦、金正恩委員長は平昌冬季五輪への参加を表明して、一気に和平の流れが動き出した。文在寅韓国大統領の北朝鮮との対話へのひたむきな努力もあって、両国の会談にまでこぎつけた。快挙と言っていいのではないか。
 しかし、今朝の報道や各国の反応では、「宣言」で非核化を目指すとしてはいるが、北朝鮮の核放棄の道筋を具体的に示す文言が見当たらない、として不満が見え隠れしている。
 とくにアメリカは「完全で検証可能かつ不可逆的な核放棄」の早期実現を迫っており、次に開催される米朝会談の成り行きが予断を許さない。
 今回の南北の融和に何の役割もはたしていない日本の安倍政権は、相変わらず北に圧力を加えることばかり言い、拉致問題すら韓国や米のトランプ大統領に依存して、自ら動こうとしないでいる。

 核の保有については、今から50年も前に核不拡散条約が結ばれ、米、ロ、中、英、仏の五か国だけが保有を許されているというおかしなことが、あたかも世界の平和を守る正義として認められていることは、何とも理解の範囲を超えている。
 これらの国は、好きなだけ核実験を繰り返し地球を汚染させてきたが、これ以外の国は今後、核保有を許さないと言って国連を動かし、おかしな条約を結んでしまった。だから北朝鮮を許せないのである。北が核を保有することは悪だが、大国が保有するのは平和のためだという論理である。
 なお、核を保有しているとみられるインド、パキスタン、イスラエルは条約に加盟していない。
 昨年7月に「核兵器禁止条約」が国連加盟国の120か国以上の賛成で成立したが、核保有五大国は反対または棄権している。唯一の被爆国である日本は何と反対に回って世界から顰蹙(ひんしゅく)をかった経緯がある。

 北朝鮮が核を保有することはもちろん許せないが、天に向かって唾唾(つば)する五大国も同罪であることを改めて認識すべきである。

合唱団同期会の集い

2018-04-27 18:22:11 | Weblog
2018.4.27(金)
 学生時代から歌っている合唱団の同期会を何年振りかに開催した。日頃は名古屋で歌っているのだが、関東や関西在住の同期生も一堂に会そうとの声が上がって、25日~26日にかけて名鉄犬山ホテルに会した。参加予定は21名だったが、体調不良や親族の不幸があって、参集したのは19名となった。高齢者には、ついて回るやむを得ない出来事でもある。
 名古屋在住の同期会は練習の合間、毎月第三木曜日に会しているので、三木会と称しているが、他の地域に住んでいる同期生とはなかなか会う機会がない。しかし、今回たまたまの機会から何年振りかも忘れるほど久しぶりの会合となったのは嬉しいことであった。なにしろ齢(よわい)80前後のものが一堂に会せるのは幸せなことである。少なくとも集まれたものは等しく元気であった。これが何よりである。一緒に温泉につかり、酒を飲み、とりとめのない話に花を咲かせて、時の経つのを忘れるほど高揚の気分になれるのは本当にありがたいことである。年寄りはこの気持ちがいとも簡単に一致する。
 25日は前日から降っていた雨も上がって、気持ちよく晴れ上がった。翌26日は、さらに雲一つない快晴となって、初夏を思わせる日となった。
 何年振りかの邂逅、もうこんな機会はないかもしれないと思うと時に切ない気持ちも覗く。
別れがたい時間を、近くの博物館・明治村で過ごすこととした。犬山ホテルからは車で30分ほどの至近距離である。
 明治村は、谷口吉郎初代館長と土川元夫元名古屋鉄道社長の協力により創設されたものである。明治時代の建築物は、江戸時代から継承した木造建築の伝統の上に、新たに欧米の様式や技術、材料を取り入れ、石造、煉瓦造の洋風建築を導入して、鉄やセメント、ガラスなどを用いる近代建築の素地を築いた。これらのうち、歴史上の価値のあるものを残そうとしてつくられたのが明治村である。
 ボランティアのガイドが、建物の由来や使われた歴史を丁寧に解説してくれた。その分、施設への興味が増す。
 明治村に昼過ぎまで滞在して解散となった。関東、関西方面へと別れた。次にこのように遭える機会があることを願いながら。




名古屋青年合唱団創立70周年2018春の音楽会

2018-04-22 18:03:25 | Weblog
2018.4.22(日)
 名古屋青年合唱団は筆者が学生時代、よく交流し、その演奏会もよく聴いた思い出がある。今回、その70周年の演奏会が名古屋市芸術創造センターであることを知り、60年ぶりにその演奏を聴く機会を得た。
 その名が青年合唱団であるから、60年経過しても歌い手は若者に引き継がれ、その名のとおり青年たちで占められていると思っていたが、登場した団員約40名は後期高齢者も含め、殆どが高齢者で占められていた。
 今日の演奏会では、青年合唱団だけでなく、青年合唱団が育てる歌の学校の終了生や他の合唱団さらに名古屋市立志賀中学校合唱部などおよそ150人の団員たちが参加して、その歌声を披露した。
 60年前といえば、まだどこの合唱団もそのレベルは決して高いものとはいえなかったが、
60年ぶりに聴いた青年(壮年?)合唱団の技量は格段に高くなっていた。
 曲目は
  青年合唱団が「青葉の歌」「新世界」「「峠の我が家」、悪魔の飽食をうたう合唱団は「悪魔の飽食」、志賀中学校合唱部は「手紙~拝啓十五の君へ~」「群青」、さらに作曲家・萩京子さんの作曲した曲を集めたステージなどおよそ20曲であったが、いずれもよく歌い込んであり、充実した演奏会であった。
 最後に歌われた、「みるく世がやゆら」は2015年6月23日、沖縄慰霊の日に糸満市
の平和祈念公園での全戦没者追悼式で発表された知念捷(まさる)さんの詩を、萩京子さん
が掲載された新聞で知り、翌2016年に作曲したもので、今日の演奏が初演とのことであ
った。
 詩は、知念さんが17歳の心で、沖縄戦で家族を失った悲しみ、それから70年の月日の
重さ、頭上を戦闘機が飛び交う日常、しかし美しい木々や花々、吹いてくる風を生き生きと
感じる若い感性、それらをすべて込めたもので、これを曲にして多くの人々に届けたいと思
ったのが作曲の動機だったと萩さんは語っている。
 長い詩だが、沖縄調の伴奏をバックに引き付けられる曲想が流れて「平和な世が来てほし
い」という願いを共有できるものであった。


久しぶりの釣行は志摩半島沖のマダイ釣り

2018-04-19 18:38:09 | Weblog
2018.4.18(水)
 6人の釣り仲間と久しぶりの釣行に出かけた。志摩半島・和具沖の出港が午前5時ということで、出発は深夜の午前12時30分という約束であったが、昨夜来の雨で出港時間を午前8時に遅らせたいとの船長からの連絡を受けて、出発は午前3時30分となった。いずれにしても真夜中のこと、ほとんど眠る時間はない。和具沖の釣りはいつもこんなものである。
 ここでの釣りは、かつては10人ほどの参加があったものだが、今は全員そろってこの6人となってしまった。中の休憩も含めて午前7時30分頃に港に到着したが、幸い雨は上がっていた。しかし波はかなり高く、目的のマダイの釣り場に到着するまでの40分ほどの航行は、3m前後の大波に揺られてさすが歴戦の釣り仲間達もいささか不快な気持ちに襲われた。
 この時期の釣りは、産卵するために浅場に寄ってくるマダイを狙う「乗っ込み釣り」というもので、メスのマダイは腹いっぱいに卵をかかえている。
 船釣りは釣り座によって釣果が大きく異なる。一般に「とも(船尾)」が釣りやすく、釣果もよいとされるので、くじで釣り座を決める。
 その結果、筆者は左舷ともの一つ船首方向が釣り座となった。左舷の中央部分である。
潮は船首から船尾へ、左舷方向に強く流れていたので、船長は左舷が有利だと宣言した。
 強い風と大波に揺られての釣りの結果は船長の言どおり、おおともの二人と左舷の二人によく連れて、右舷の二人は全く釣れない気の毒なものであった。ともの二人は、70センチ台と60センチ台の大マダイを上げ、筆者は50センチのマダイを含めて10枚の釣果を上げて竿頭となることができた。マダイ釣りの極意は数よりも大きさである。
気の毒な二人には釣れたものが配ってお土産は確保してもらったが、哀楽の分かれた釣行となった。

日本相撲協会の性差別

2018-04-10 15:33:05 | Weblog
2018.4.10(火)
 4月4日、大相撲春巡業の行われていた京都府舞鶴市の体育館での出来事。土俵上で挨拶をしていた多々見良三舞鶴市長(67)が突然倒れ、市内の病院に搬送された。
多々見市長が倒れた直後に警察官やスタッフらが土俵に上がり、心臓マッサージなどの救命処置を施していた。その中に観客で、かつ医療関係者とみられる複数の女性がいたが、協会は場内放送で「女性の方は土俵から下りてください。」と数回促した。
 大相撲の土俵は古くから「女人禁制」とされており、この慣例に従ったものとはいえ、命に係わる事態に性差別はないだろう、と場違いなアナウンスに批判が起こった。
 協会の八角理事長は「人命にかかわる状況には不適切な対応だった。深くお詫びする」と謝罪したという。なお、多々見市長は病院で治療を受けたが、幸い回復し命に別状はなかった。
 ことはこれで終わらないところに日本人の女性差別の根深さがある。
 今度は4月9日にあった静岡県掛川市での大相撲春巡業で、挨拶に立った松井三郎市長が「(土俵に)立たせていただいて大変感激している。こけないように、倒れないように。万が一の時も男性のお医者さんが近くにいます」などと発言したというのだ。松井市長は弁明に努めたそうだが、根っこに女性差別の意識があるからこその発言である。
 そもそも土俵上に女性は上がってはいけないという「伝統」などは、明治、大正、昭和(初期)の遺物である。今や大相撲はテレビでも放映され、多くの女性ファンにも支えられている。今回の出来事から協会の対応を批判しつつも大相撲の伝統は大事だという識者がいたが、もはやこんな伝統は何の意義もないというべきである。
 舞鶴市と掛川市との間の時期、4月6日に行なわれた兵庫県宝塚市での巡業では、中川智子市長(70)が挨拶に立ったが、「女性市長も人間だ。市長でありながら、女性という理由で、土俵の上でできないのは悔しく、つらい」と述べたという。中川市長は主催者に自身も上がりたいと要望したが、協会側が断った。中川市長は「時代はどんどん変わり、女性市長も増えている。女性首相も現れるかもしれない。伝統を守りながら、変えるべきは変えていく。相撲協会に考えてもらいたい」と呼びかけたという。
 こういういきさつを経ても、何の対応もできないようでは相撲協会の名が廃る。

新装御園座の杮茸落大歌舞伎公演を鑑賞

2018-04-06 09:21:27 | Weblog
2018.4.6(金)
 名古屋で歌舞伎の公演ができる御園座は、1896(明治28)年創立された。その後、1935年に新しい劇場が完成したが、名古屋大空襲で全焼、1947(昭和22)年に再建された。しかし、1961(昭和36)年の火災で再び焼失するという悲劇を招いたが、御園座会館として再建され、今日に至ってきた。
 建物の老朽化に伴い2012年秋、高さ170M、地上45階、低層部分を劇場とし、中高層階は分譲マンションにするという建て替え計画が発表された。
 その新装なった新御園座の杮落し公演が「4月大歌舞伎」と銘打って、この4月1日から25日まで開催されている。この公演は、九代目松本幸四郎の二代目松本白鵬と市川染五郎改め十代目松本幸四郎の襲名披露を兼ねている。
 この公演に昨日(4月5日)、連れ合いと出かけた。歌舞伎界の大御所の襲名披露と杮落し公演ということで、入場券の確保が難しいとの思惑から、人づてに依頼して手に入れたが、公演5日目の夜の部の入館者はおよそ7割、空席の目立つ入りであった。
 筆者は歌舞伎に特別な知識があるわけでもなく、ただ1回しかない杮落し公演に参加してみたかったというさびしい動機だったが、拍子抜けの感は否めなかった。
 演目は、第一部「梶原平三誉石切」で主役の平三に白鵬の兄・中村吉右衛門が演じた。
第二部はお馴染みの「勧進帳」。弁慶に二代目白鵬、富樫に染五郎改め十代目松本幸四郎が演じた。弁慶はまさに全身全霊を投げうって主君・義経を守り抜く。勧進帳の読み上げ、山伏問答、など富樫との駆け引きは実際に緊張感が漂う名演技である。
 第三部「廓文章」は、商家吉田屋の藤屋伊左衛門と太夫扇谷夕霧との恋模様を踊りで情緒たっぷりに竹本と清本の掛け合いで描かれる上方の代表的な作品であった。
 休憩をはさんで4時間余り、熟練の白鵬と、新鮮で若々しい幸四郎の演技を堪能し、歌舞伎の醍醐味を結構楽しめる時間を過ごすことができた。

※白鵬の「鵬」はこの字ではないが、このパソコンでは探しきれない。