名古屋から発するブログつぶて・凡人のひとりごと

身の回り、世間のできごとをを日記風に記す(紙つぶてならぬブログつぶて)。

新藤兼人さん100歳で死去

2012-05-31 18:12:18 | Weblog
2012.5.31(木)
 映画監督で文化勲章受章者の新藤兼人さんが29日、老衰で死去したと報じられた。享年100歳。
 軍隊に召集された経験が「原爆の子」など戦争の悲劇を描く原動力になった。原発事故についても「放射能がどのように地に降りて人を殺すのか、分かっていない」と、原爆の脅威を知る者として言葉が激した(中日新聞)。
 全編セリフを廃した1960年の「裸の島」で、モスクワ国際映画祭グランプリに輝いた。
 2010年には、自ら遺作と宣言した戦争体験に基づく「一枚のハガキ」が最後の作品となった。
 まさに日本映画界の巨匠落つである。
 巨匠といえば5月22日、日本の音楽評論の草分けと言われた吉田秀和さんが98歳で亡くなられた。吉田さんも06年に文化勲章を受賞している。
 大正、昭和、平成の時代を生きた映画界と音楽会の二人の巨匠がほぼ同時に旅立った。なんの縁もないがなにか淋しい。
 

奇蹟の一本松保存へ

2012-05-29 09:39:31 | Weblog
2012.5.29(火)
 今朝の新聞によると、岩手県の陸前田市は景勝地の高田松原で津波の被害からおよそ7万本のうち、ただ一本だけ残った樹齢250年の「奇蹟の一本松」について防災処理を施したうえ震災を語り継ぐモニュメントとして保存することを決めた、という。
 保存の方法としては、防腐処理後2~3年かけ、①現地で永久保存する ②移転して保存する ③永久保存が困難な場合は、レプリカを作成して保存する、ことを検討するとしている。
 ただ、防腐処理には9千万円も見込まれることから、世界に募金を呼びかけることとしている。
 一本松は海水を浴びたため根が腐っており、このままでは倒木は確実という。そこで財団法人「日本緑化センター」が、木を根元で切って幹や枝に防腐剤を塗るなどして保存することを提案していた。
 それにしても、詳細な防腐処理の内容は分からないが9千万円とは高すぎないか。たかが一本の木の防腐処理である。もはや生かすわけでもない。防腐処理をして倒れないようにするだけのことである。
 この松は、未曾有の大災害からただ一本だけ流されないで残り、人々に希望を与え、復興の記念碑的存在となっただけにぜひ残したい。それも、移転やレプリカなどではなく、現地にそのままの姿で残ってほしい。だからといって寄付で集めるからいくら掛かっても良いいうものではない。合理的で誰もが納得のいく経費を掛けてぜひ残すことを願う。

名張毒ぶどう酒再審認めずに江川紹子さんの怒り

2012-05-26 09:19:54 | Weblog
2012.5.26(土)
 名張毒ぶどう酒事件の第七次再審請求差し戻し審で、名古屋高裁は25日、奥西勝死刑囚の再審を認めないと決定した。
 高裁決定の骨子は次のとおり。
1.再審開始を認めた2005年の名古屋高裁決定を取り消す。再審請求を棄却する。
2.鑑定の結果、事件現場に残ったぶどう酒から、ニッカリンTに含まれる副生成物が検出されな
かったのは、加水分解が進んだためとみる余地がある。
3.毒物がニッカリンTであることと、当時の鑑定で副生成物が検出されなかったことは矛盾しな
い。
4.弁護団が提出したほかの新証拠を総合しても、ぶどう酒に農薬を混入できた者は奥西死刑囚以
外にいない。
5.奥西死刑囚の自白が根幹部分で信用でき、奥西死刑囚を犯人とした事実認定に合理的な疑いを
生じる余地はない。

 この決定に対して、ジャーナリストの江川紹子さんは怒り狂った。
『証拠に基づいて判断し、再審においても「疑わしきは被告人の利益に」という鉄則を適用する―。刑事裁判の原則を放り出したとしか思えない今回の決定は、司法の自殺行為と言わざるをえない。
 検察官が主張せず、証拠に基づかず、鑑定人が述べているわけでもない新たな仮説を持ち出し、弁護人に反証の機会さえ与えず、再審の扉を閉ざす。このような裁判所の対応は、あまりにアンフェアだ。下山保雄裁判長ら三裁判官は、人権のとりでとしての役割を果たすより、何が何でも確定判決を死守することの方が大切なのだろうか。』
 以下、さらに江川さんの怒りは続く。半世紀も前の事件の白黒について、我々一般人は正直何も分からない。しかし、自白したとはいえ、50年以上にわたって無実を主張する人が本当に犯人なのかというと、今回の判決のように「ぶどう酒に農薬を混入できた者は奥西死刑囚以外にいない」と断定してしまうことに躊躇してしまう。江川さんでなくとも「疑わしきは罰せず」という鉄則はどうなっているのかと言いたくなる気持ちもぬぐえない。
 弁護団は特別抗告をすると言っているので、これからさらに最高裁での裁判が続く。これからは、まさに86歳になる奥西さんの命との戦いとなる。


中国の領有権をめぐる横暴

2012-05-25 11:57:45 | Weblog
2012.5.25(金)
 今朝の各紙は、フィリピンと中国が南シナ海のスカボロー礁(中国名・黄岩島)の領有権をめぐって、両国の緊張が高まっていると報じている。
 両国は今月中旬に周辺海域での休漁を決め、漁船の往来がなくなることで緊張関係緩和を期待していたばかりである。それにもかかわらず、フィリピン政府は23日、中国の監視船や漁船など約百隻を確認したと発表した。
 報道によると、フィリピン外務省は22日までに中国の監視船5隻、漁船16隻、多目的ボート76隻の計97隻を確認。休漁開始前の計33隻から大幅に増えたことを確認した。同外務省は中国大使館に抗議書を送付し、周辺海域はフィリピン領であることと、事態を深刻化させる行為をやめるよう強く訴えたという。
 これに対し中国は、「フィリピン側の挑発行為に対し適切な措置を講じた」と述べ、具体的な内容に触れず「中国漁船は中国の関連法規に従っている」としてあくまでも中国領であるとの考えを強調している。
 スカボロー礁の南西に位置する南沙諸島でも、中国はこの諸島のミスチーフ礁に中国漁民の避難所として軍事拠点を建設したことに対するフィリピン側の抗議を無視した経緯がある。

 中国政府はかくのごとく周辺海域で各国と領有権をめぐっていさかいを起こしている。特に南沙諸島をめぐっては中国とベトナム、フィリピン、マレーシア、ブルネイ、台湾が自国領土だとして争っている。
 南沙諸島はおよそ100の島からなっており、1930年代後半から太平洋戦争終結まで日本が支配していたが、70年代後半に海底油田の存在が確認され、各国が相次いで領有権を主張するようになった。
 また西沙諸島は、フランスのあとベトナムが支配していたが、1974年に中国が侵攻、占領し、海洋資源の確保を狙って港を建設し実効支配を続けている。
 こうしてみると、この国の貪欲さと一方的な独断にはなんとも腹が立つ。
 尖閣諸島をめぐる日本と中国との争いが、どちらかといえば日本の自重で紛争に至らないでいるが、偏屈なナショナリズムが嵩ずるといつ何時爆発しないとも限らない。

西川一誠福井県知事の本音

2012-05-24 21:53:19 | Weblog
2012.5.24(木)
 今日の夕方のNHKラジオで、福井県の西川知事が関西電力大飯原発3、4号機の再稼動について「(電力消費地や国が)電気が必要でないと言うならば、無理して動かす必要はない」と述べたと報じていた。
 誰も電気が必要でないなどと言ってはいないのに、この人は電気は原発でないと発電できないとでも思っているのであろうか。おっしゃるとおり無理して大飯原発を動かす必要などない。
 西川知事は、大阪市長や京都府知事、滋賀県知事などが再稼動に否定的な意見を言っていることに業を煮やしてしまった。また、政府の対応が遅すぎると苛立ちをあらわにしてしまった。そして「関西の同意を待っているわけではない。政府が姿勢を示すことで解決できる」と述べ、関西の首長への説得など早く打ち切って再稼動を決意せよ!!と野田首相の決断をせまっている。
 西川知事も最初のうちは安全が第一、住民の意向に耳を傾ける、などと再稼動には慎重らしいそぶりを見せていたが、ここに来ていよいよ原発推進の本領発揮ときた。
 この人も、福島の人たちがどんなに苦しんでいるのか分かろうとしないし、自分の地域のこと、目先のことしか考えない人であった。悲しいかな!原発立地県の知事がこうである限り、政府の脱原発の方向はとうてい見えてこない。

東京スカイツリー開業

2012-05-23 20:04:50 | Weblog
2012.5.23(水)
 自立式の電波塔としては世界一の高さを誇る東京スカイツリーが昨日(22日)開業した。
 当ブログでは、本年2月29日に東京スカイツリーの工事が完成したことを書いた。あれから2ヵ月半余りの準備を経て開業にこぎつけたわけである。
 開業日の昨日の東京は雨に見舞われ、タワーの頂上はかすんで見えないし、「展望デッキ」の窓から見えた景色は白い雲だけとあいにくの天候となった。
 それでも、スカイツリーを中心に商業施設なども含む東京スカイツリータウンの来場者は、219,000人に上り、このうち展望台へ昇ったのは9,000人だったという。
 開業の初日というのに早速大きなトラブルに巻き込まれた。雨だけでなく、強風のため展望デッキ(350メートル)と天望回廊(450メートル)を結ぶ二基のエレベーターが午後5時15分ごろ、運転を停止した。このため天望回廊の営業を午後10時から約2時間半前倒しして7時36分に終了した。やっと手にした入場券が役に立たなくなるという波乱の幕開けでもあった。
 東京スカイツリーは東京都墨田区にあるが、下町地域の商店街ではこれにあやかろうとスカイツリー商品が溢れた。スカイツリーを描いたせんべい、えび天を塔のように盛り上げたタワー丼、634メートルにちなんだ商品など商魂のたくましさを見せ付けていた。
 東京スカイツリーの開業は各国にも報道され、外国からの観光客も期待される。しばらく東京スカイツリーの話題が続く。

雲間を縫って奇蹟のような金冠日食

2012-05-21 21:23:07 | Weblog
2012.5.21(月)
 今朝、太平洋側を中心に金環日食が見えた。名古屋で観測できるのは平安時代の1080年以来、932年ぶりだそうである。
 天気予報では、東海地方は曇りがちで見えない可能性が高いと思われていた。
その予報どおり、名古屋市緑区の上空は朝7時ごろになっても、厚い雲に覆われ金環日食は絶望かと思われた。しかしときどき雲の隙間から太陽が顔を出したり消えたりして期待と不安の中、なんと7時29分、金環日食の始まりと同時に雲に隙間ができ、完全な金冠が輝きだしたではないか。7時33分の金環日食の終わりまでこの時間に限って太陽は隠れることはなかった。何か奇蹟を感じたといえば大袈裟であろうか。この状態を付近の人たちも皆歓声を上げながら見とれた。だめもとで買っておいた日食メガネがこれほど役に立ったことはない。
 ところで今年は珍しい天文現象がまだあるという。6月6日には「金星の日面通過」がある。午前7時10分ごろから太陽―金星―地球が一直線上に並ぶため、金星が黒い点となって、約6時間かけて太陽の表面を横切っていく現象である。
 また8月14日の早朝には、金星の前を月が横切って、金星を隠す「金星食」がある。ほぼ全国で見られるという。
 次の金環日食は2030年6月1日に北海道で見られる。だがそこまで生きられるであろうか。しかし、本当に見たいなら金環日食でも皆既日食でもほぼ毎年のように世界のどこかで見られる。

「南京大虐殺」の意見広告でゴリ押しするバカな学者や政治家連中

2012-05-17 15:03:07 | Weblog
2012.5.17(木)
 全く腹の立つ記事が出ている。河村たかし名古屋市長の「南京事件」否定発言にからんで中日新聞が、議論を呼びかける意見広告の掲載を拒否したとして、「河村発言を支持し『南京』の真実を究明する国民運動」(代表・渡部昇一上智大学名誉教授)と称する戦前をあこがれ、あの時代への逆戻りを画策する極右勢力の連中が広告の掲載などを求める仮処分を東京地裁に申請した、というのである。
 報道によると、意見広告は「私たちは河村たかし名古屋市長の『南京』発言を支持します!」「自由な議論で『南京』の真実究明を!」との見出しの下、南京事件についてさまざまな見解があることを踏まえた上で、議論が広がることを期待するというもの。
 呼びかけ人には、副代表の藤岡信勝拓殖大学客員教授、石原慎太郎東京都知事、安倍晋三元首相、原口一博元総務相らが名を連ねているという。
彼らは「いったん掲載を認めておきながら、後から『社論に合わない』と言ってくるのは異常」「広告が掲載されない場合、社会的信用が失墜するなど深刻な被害が生じる」などと言っている。
 これに対して中日新聞側は「意見広告の掲載契約が成立したとは認識していない。今回は弊社の広告掲載基準にしたがってお断りした」とコメントしている。新聞社側に何の問題もない。広告だから何でも載せろというほうがおかしい。戦前なら、すべてのメディアがお上にしたがって大本営発表をウソと知りながらでも掲載してきた歴史がある。事実を殺された人数の問題にすり替えて、なかったことにし、それを責めると自虐だなどと攻撃してくることの不条理さこそ責められるべきである。 
 そもそも、河村市長はかねてより南京大虐殺などなかったという立場で、あちこちで公言していた。それがこともあろうに長年名古屋市と姉妹都市として友好関係にあった南京市の代表団を前にして本音を言ってしまったので波紋が広がった。これまでは内輪の話として大げさにならなかったが、市長としての発言ではどうにも後に引けなくなった。
 余りの反響の大きさに驚いて言い訳しているうちに、無かったはずの「大虐殺」が“ゼロだったとは言っていない”“戦闘員の中にはあったかも知れない”などとずるずると後退し、“いろんな意見があるから議論したいだけだ”などと変容してしまった。
 この不勉強の河村発言に、筋金入りの『南京大虐殺』否定論者の連中が応援すると言い出したから怖い。結局河村氏は、こういう連中の活躍する場を提供するという役割を果たしたことになる。
 戦前なら、こんな偉い学者や政治家連中が言うことには素直に従ったかもしれないが、われら戦中、戦後を体験した平々凡々な頑固老人はそう容易く陥落しない。
 大東亜共栄圏の亡霊がさまよい始めた。

沖縄復帰40周年の日

2012-05-15 17:46:20 | Weblog
2012.5.15(火)
 今日は沖縄が米国から返還されて40周年となる節目の日である。戦後、27年間に及ぶアメリカの統治からやっと開放されたのが1972(昭和47)年の今日のことであった。
 その当時、沖縄における基地負担を軽減するということは日米両政府の約束であったが、ほとんど解消されていない。いま問題の普天間飛行場の移設、返還もその一つであった。それが県外移設どころか、いつの間にか名護市辺野古への移転と、沖縄県民にとっては予想もしなかった県内移転が方向付けられてしまった。
 県民の一人は、「復帰してかえって悪くなった。政府が沖縄の立場でなく、米側の意向に沿って対処することが40年も続いた。沖縄は日米の殖民地みたいだ」と嘆いている。
 午後4時から政府と沖縄県とが共催して沖縄復帰40周年記念式典が沖縄県宜野湾市の沖縄コンベンションセンターで開かれたが、野田首相は相変わらず、日米同盟による抑止力を強調し、引き続き沖縄の負担軽減に努力するというだけである。 
 それと口裏を合わせるように、アメリカ国務省はアジア太平洋地域の平和維持に向け、沖縄米軍の重要性を強調すると同時に、沖縄の基地負担軽減に努力すると、同じようなコメントを出している。
 NHKのラジオ深夜便、15日午前4時からの「明日へのことば」の欄で、元沖縄県知事の大田昌秀氏が「本土復帰40年 沖縄の明日を信じて」と題して、基地返還の歴史を語っていたが、それは県民の願いを背負って苦闘されてきた歴史でもあったように思われた。その続きが16日午前4時からも放送される。

恩師に報いたお礼としていただいた尊い寄付

2012-05-14 21:27:45 | Weblog
2012.5.14(月)
 以下の文章は最近、筆者の関わっている介護・障害福祉事業所が発行している機関紙に投稿したものである。
 筆者は昭和X年に市内の小学校を卒業したが、当時のクラス会が60年余を過ぎた今も続いている。 
 当時まだうら若い女教師だったH先生は、この間ずっと我々のクラス会に欠かさず参加くださってきた。
 その恩師が昨年7月、病に勝てず82歳の生涯を閉じられた。しかし、先生は障害者のお嬢さんを10余年前に亡くして以来、諸事情があって天涯孤独であった。
 入院中の看護も女生徒のクラスメイトが献身的に尽くしたし、最後も我々が看取ることとなった。
 こうした事態を予期していた先生は、葬儀の執行、納骨、遺産の処分などについて詳細に遺言状に記し、知己の弁護士に遺言執行者として委任されていた。
 弁護士は先生と我々クラスメイトとの関係を知って、葬儀の執行や住まいの処分などをクラス会の万年幹事を引き受けてきた筆者に代行者として行うよう依頼してみえた。
 さて遺産の処分について、H先生はお嬢さんが障害者として天寿を全うされたことから、障害福祉施設に寄付するように遺言しておられた。上記の経緯を経て、弁護士は私が障害者福祉に関わっていることを知り、その障害者支援事業に対して遺産の一部の100万円という大きな額を寄付していただくこととなった。
 小学校の恩師との長い絆が思わぬ結果をいただくこととなった。