名古屋から発するブログつぶて・凡人のひとりごと

身の回り、世間のできごとをを日記風に記す(紙つぶてならぬブログつぶて)。

ローマ教皇来日

2019-11-25 10:33:11 | Weblog
2019.11.25(月)
 11月23日、ローマ・カトリック教会の頂点に立つ教皇フランシスコ(82)が来日、翌24日には被爆地の長崎と広島を訪問して演説し、核廃絶を訴えた。教皇として故ヨハネ・パウロ二世以来、38年ぶり二度目の被爆地訪問である。
 24日午前、長崎の爆心地公園に到着した教皇は「ここは核攻撃が人道上も環境上も破滅的な結末をもたらすことの証人である町だ」と述べた。
 軍拡競争は無駄遣いとして、武器の製造や維持、改良は「とてつもないテロ行為だ」と批判。来春の核拡散防止条約(NPT)再検討会議を前に核保有国と非保有国側との間にある溝が浮き彫りになっている現状を念頭に「相互不信によって兵器使用を制限する国際的な枠組みが崩壊する危険がある」と警鐘を鳴らした。
 午後には広島の平和記念公園の集いで、戦争のための原子力利用は「犯罪以外の何ものでもなく倫理に反する」。最新鋭の兵器を製造したり、核の脅威を使って他国を威嚇したりしながら「どうして平和について話すことができるのか」と述べ、世界各国の指導者に核廃絶に向けた具体的な行動を迫った。
 長崎の爆心地で核廃絶を訴えたフランシスコ教皇の横には、亡くなった幼子を背負い、口を固く結ぶ少年の写真パネルが置かれた。この写真は原爆投下後、米軍従軍カメラマンだった故ジョー・オダネル氏が撮影した「焼き場に立つ少年」で、名古屋の名東区にある戦争と平和の資料館「ピースあいち」にも展示してある。
 教皇はこの写真を「千の言葉よりも多くを語る」として印刷したカードに「戦争がもたらすもの」という言葉を添え、世界に広めてきた。はだしで火葬の順番を待つ少年の姿は多くの人々の心を打ち、世界的に注目を集めてきた。
 教皇は午後6時過ぎ、広島市の平和記念公園に到着、被爆死没者の名簿が納められた原爆慰霊碑前で献花、キャンドルに点火し、黙とうをささげた。
 こうして惨禍と悲しみの歴史を背負う二つの被爆地は、平和への願いと不戦の誓いに包まれた(11月25日中日新聞朝刊から)。


トランプ政権、在日米軍の駐留経費を4倍増に!!

2019-11-17 14:06:20 | Weblog
2019.11.17(日)
 今朝の新聞によると、米外交誌フォーリン・ポリシーが15日、在日米軍の駐留経費負担(思いやり予算)を約4倍に増やすよう要求していると報じている。ボルトン大統領補佐官(国家安全保障問題担当、当時)らが7月に来日した際、日本側に伝達したという。現在の思いやり予算の約4倍の年80億ドル(約8700億円)に達する。
 トランプ大統領は就任以来、同盟国に防衛費の「公平な負担」を要求してきたが、こうした要求は来年の大統領選に向けたアピールの狙いと言われる。
 思いやり予算は、日本が在日米軍のために負担している経費で、基地従業員の給与や社会保険料、光熱費、施設整備費など総額年約2000億円にのぼる。本年度は米軍普天間飛行場の移設などを含めると年6000億円近い経費を支出している。
 米メディアによると、韓国にも駐留経費負担を現在の5倍に引き上げるよう要求しているという。
 米国のこうした発想は、米軍が外国からの日本への侵略から日本を守るためのものだと思っているからである。このお陰で日本の防衛費が安上がりになっているというものであり、日本政府もそう思っている。
 しかし事実は、米軍による世界戦略の一環として日本に強大な基地を置き、東南アジアへのにらみを利かせているものである。基地従業員の給与・その他の支払いなどもってのほかであり、基地の使用料を負担してほしいぐらいである。
 駐留経費負担の特別協定は2021年3月に5年間の期限が切れるため、日米両政府は来年更新協議を本格化させることになるというが、日本政府が増額の応じるなどもってのほかであり、しっかりと監視する必要がある。
 沖縄における普天間基地の名護市キャンプ・シュワブ沿岸への移転問題、日本国土のわずか0.6%の沖縄に米軍施設・区域が70%超にも達している実体、日本各地域での最近の米軍機事故の頻発など主張すべきことはいくらでもある。
 もういい加減に米軍の言いなりになったり、へつらうことは何もない。世界唯一の原爆被災国として、ひたすら平和を追求する国家として邁進するのが日本の進むべき道ではないか。




松村公嗣展を鑑賞

2019-11-15 10:44:08 | Weblog
2019.11.15(金)
 昨日(14日)、松坂屋美術館で開催されている愛知県立芸術大学学長退任記念『松村公嗣展‐巡る-』を観に、連れ合いと一緒に出かけた。
 松村公嗣は、1948(昭和23)年1月生まれ、奈良県出身の日本画家である。愛知県立芸術大学大学院を修了し、2000(平成12)年に同大教授、さらに2013(平成25)年には同大学長に就任した。昨年学長を退任し、現在は同大名誉教授、日本美術院同人・理事を務め、現在も創作活動を展開しており、片岡球子氏を師と仰いでいる。
 松村公嗣についてはよく知らなかったが、今回の個展を見て、性に合うというか正直感動した。
この展覧会では、松村画伯が自ら選んだ自然、花鳥、人々の暮らしなどの代表作を中心に初期の作品から最新作までの約50点を展示した。気の遠くなるような細かい筆さばき、鮮やかな彩色には目もくらむばかりである。
最近、豊田市美術館でのクリムト展、名古屋市美術館でのカラバッジョ展と大きな美術展を鑑賞したが、現代日本の作家・松村画伯の作品にはまた別の心打たれる感動があった。 

沖縄 首里城焼失のその後

2019-11-11 14:12:56 | Weblog
2019.11.11(月)
 10月31日早朝、沖縄の首里城で火災が発生し、正殿など主要七棟が全焼した、という衝撃的なニュースがメディアによって伝えられて早や10日余りが過ぎた。
全焼したのは奉神門のほか、正殿と北殿、南殿、書院・鎖之間(さすのま)、黄金御殿、二階殿の主要七棟。焼損面積は計4836平方㍍に及んだ。
首里城が焼失したのは、1453年、1660年、1709年、1945年に次いで歴史上5度目となった。1945年の消失は米軍の空爆によるものである。
 なお、世界遺産に指定されているのは何回も再建された建物ではなく、首里城跡であり、世界遺産が無くなってしまったわけではない。
首里城は沖縄を450年間に渡って統治していた琉球王国の中心であり、首里城の歴史は琉球王国の歴史を現わしているといっても過言ではない。
 この首里城跡は、2000年に日本で11番目の世界遺産として認定されている。
 出火原因はいろいろと取りざたされているが、いまだ究明に至っていない。電気系統からの出火ではないかとの情報もある。
 再建については、どの程度の費用がかかるのか、また所要期間はどうかなど不明な点が多く、10年から15年ぐらいかかるという声もあれば30年かかるという声もあり、いずれにしろ長期間かかる事は間違いない。
 前回1960年代当時のの再建では、約100億円かかったといわれているが、単純には比較できないであろう。
 いずれにしろ玉城デニー知事は、観光産業への影響を見極め、再建のために全力を尽くすとしており、政府も可能な限りの支援を表明していることに期待したい。




山陰・湯村温泉の旅

2019-11-02 11:43:50 | Weblog
2019.11.2(土)
 10月31日~11月1日にかけて、連れ合いと一緒に名阪近鉄旅行社のカッコーツアーに参加して山陰・湯村温泉の旅に出かけた。
 名古屋駅前に午前8時集合ということで午前7時に家を出る。ほぼ日本中が高気圧に覆われて快晴の旅行日和に恵まれて、午前8時半に出発。
客は総勢18人と少数である。内訳は、夫婦らしきペアが我々を含めて4組の8人、女性ばかりのおばさんらが6人、高齢男性の連れが4人の18人である。定員50人ほどの大型バスなのでガラガラ状態である。15人を超えれば実行とのことだそうであるが、ガイドがこれでは赤字だと嘆いていた。
バスは東名阪・新名神・京都縦貫道を経由して但馬の小京都といわれる出石(いずし)に正午前に到着。ここで昼食・2時間の城下町散策となった。
街なかを歩いていたら人力車が人待ち顔に待機していたので早速20分コースに乗車。車夫は40歳の時サラリーマンを退職して以来27年この業を続けているとおっしゃる見るからに屈強であるが、表情は優しい方である。
大人二人を乗せて小走りに走っては、目的の場所で解説をして下さる。沢庵寺、古い時計塔の新鼓楼、出石城跡、桂小五郎潜伏居跡など短時間ではあるが駆け巡っていただいた。
しかし、さすがに息を切らしながらの話しぶりである。最後には再度のお越しをと名刺までいただいた。思わずチップを付けた料金をお支払いしてお別れした。 
その後バスは、その高さで有名な山陰本線の余部鉄橋「空の駅」へ到着した。テレビなどで時々見るあの高い鉄橋である。現在は鉄筋コンクリート造りになっているが、旧の線路は残っていてそれを見せるためにエレベーター(愛称:余部クリスタルタワー)まで設置してある。新設の鉄橋は平成22年8月11日に完成、橋長310m、高さ41.5mを誇る。
午後4時ごろ、兵庫県美方郡新温泉町湯の湯村温泉「朝野家」へ到着。旅館の方がガイド役となって温泉街を散策。97度という源泉が噴き出す場所で温泉たまごづくりも体験。
その夜の食事では、この地方で獲れる大型の香住(かすみ)カニを一人一匹ごといただいた。ズワイガニと比べると少し赤みがかっているがそれなりに美味しい。
翌日(11月1日)は鳥取県に向けて午前8時半に宿を出発、まずなし園での梨狩りを楽しんだ。梨の時期もほぼ終盤迎えているので、立ち並ぶなし園はほとんど閉じていたが、我々団体客用に残されたなし園で食べ放題の梨狩りを楽しんだ。にぎりこぶしを2倍にしたような大きな梨ばかりで食べ放題といっても、我々夫婦で3個を食べるのがやっとであった。
この後、鳥取砂丘に入り実際に砂丘を散策、2回目の訪問だが砂の細かさ、そその砂浜の雄大なことに感入りつつ、砂の美術館も見学した。ここでは砂の造形美に只々驚くばかりである。
これを最後にあとは往路をたどって帰路につき、名古屋駅に到着したのは午後6時半であった。