名古屋から発するブログつぶて・凡人のひとりごと

身の回り、世間のできごとをを日記風に記す(紙つぶてならぬブログつぶて)。

今日衆院解散 10月22日投開票

2017-09-28 09:46:41 | Weblog
2017.9月28日(木)
  安倍首相は25日夕べ、記者会見で28日召集の臨時国会冒頭で衆院解散を断行し、10月10日公示、同22日投開票とすることを表明した。
 筆者は先のブログで、この解散は党利党略、内閣の保身だと書いたが、安倍首相はこの解散の理由を
 1)消費税率の引き上げを2019年10月に実施するが、増収分の使い道を変え、約2兆円を国の借金返済から幼児教育無償化など「子育て世
   代への投資拡充」 に振り向ける。
 2)北朝鮮による核開発や弾道ミサイル発射への対応も国民に問いたい。
として、改憲や森友・加計学園問題については触れなかった。
 
 そもそも安倍内閣はつい先の8月3日に内閣改造を行い、その際安倍氏は「結果本位の仕事人内閣」だとした上で「謙虚に丁寧に国民の負託に応える」と言明したばかりなのに、その舌の根も乾かないうちに突如解散を打ち出した理由は先のブログで書いたとおりだ。
 これまでも首相の解散権(?)を使って突如、解散・総選挙が行われてきたことはある。そして、この根拠を憲法第7条第3号によるとされているが、極めて疑問である。
 第7条(天皇の国事行為)
天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
一 憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
二 国会を召集すること。
三 衆議院を解散すること。
四 国会議員の総選挙の施行を公示すること。
     (以下略)
 この規定からも明らかのように、3号は天皇が「衆議院を解散する」形式的な行為を国事行為としているにすぎない。
憲法には内閣総理大臣が「国会を解散」できるという規定はどこにもない。いつの間にか政治の都合でこの規定が解散権行使の根拠として慣例化してしまった。しかし現行憲法から読み取るとしたら、衆議院の解散は国会が行うべきことである。

 この憲法論は置くとして、今日の衆院本会議冒頭で解散は実行され、10月22日には選挙が実施される。各党とも大わらわで動き出している。
 そして早速、小池都知事を代表とした「希望の党」という新党が結成された。小池氏は「自民党に対峙できる改革勢力が必要」と主張し、これに同調する自民党、民進党やこころの党などの国会議員ら15人が名を連ねた。また小池氏は、全国各地から候補者を多数出馬させるという。
 そして今日の朝刊に驚くべき記事が報道された。民進党の前原代表が小池新党「希望の党」への事実上の合流を目指すとしたというのである。つまり、民進党の候補者は希望の党に公認申請し、同党から立候補するというものだという。前原氏は自らもそうすると言っている。
 これは何を意味するのかよく分からないが、民進党の解党ともとれる。前原氏は「どんな知恵を絞ってでも安倍政権を終わらせる。野党がバラバラでは選挙に勝てない」と訴えている。
 解散直前の段階でのドタバタだが、果たしてこれで、安倍政権の思惑に対峙できるのかはなはだ心配ではある。
 

突如、衆院選挙浮上

2017-09-18 15:54:21 | Weblog
2017.9.18(月)
 報道によると、安倍首相は28日召集の臨時国会冒頭にも衆院を解散する意向を固め、自民、公明両党幹部に伝えたと、与党の関係者が明らかにしたと伝えている。日程は、10月22日又は同29日の投開票が軸になると具体的である。安倍首相は、ロシア訪問中の山口公明党代表に電話で早期解散を伝えたという。公明党は「首相が決断したら反対しない」姿勢という。
 なぜ急にこんな事態が急浮上したのか。
1)最近のNHKの世論調査では、安倍内閣の支持率が44%となり、不支持率36%を上回ったこと。
  2)民進党の山尾志桜里前政調会長の不倫報道騒ぎの中の離党問題および複数の議員の離党騒ぎによる混乱状態。
 3)小池・若狭氏らの新党の準備遅れ。
  4)「森友学園」「加計学園」問題のうやむや化。

 衆議院議員の任期満了まで、あと1年余ある。安倍首相は、これまで改憲を発議して後の解散を想定していたはずであるが、一気に直近の解散に踏み込んだ。これは上記の政治情勢の読みから、正に政権与党の党利党略、そして安倍内閣の保身そのもの。解散の大義など「くそ食らえ」である。
 
 安倍氏が最も恐れるのは、民進党よりも小池都知事の国政新党結成の動きである。自民党は都知事選挙で手痛い屈辱的な大敗を喫した。しかし、最近の民進党の失策から立ち直りの兆しを見せている。
 むしろ恐れる敵は、若狭勝氏と細野豪志氏両衆院議員が人気絶頂の小池氏と結んで有力な国政政党ができることである。この姿が整わないうちに選挙を済ませてしまおうという姑息な手法が今回の解散である。

 しかし、核・ミサイルによる挑発行動を繰り返す北朝鮮への対応で政治空白を生む恐れや、森友・加計学園問題からの逃げ切り批判は避けられないが、上記のプラス点はそれを上回り、今なら勝てるという読みである。

 そんな批判もどこ吹く風、個々の議員は解散を前提に早くも地元では舌戦が繰り広げられている。そしてその結果として与党が勝利するようなことがあれば、安倍氏の思惑にはまって、戦前への回帰がさらに一歩前進することになってしまう。

超大ドラゴン級タチウオ

2017-09-15 07:04:09 | Weblog
超大ドラゴン級タチウオ
2017.915(金)
 9月13日夜、仲間と久しぶりに釣行した。行先は静岡県清水港の東に位置する由比魚港である。
 今は各地でタチウオ(太刀魚)がよく釣れている。愛知県の師崎港からは毎日多くの釣船が伊良湖沖辺りへ釣り客を乗せて出船している。釣果は50匹、100匹などと云う大量釣果が伝えられているが、そのほとんどは小さい魚体である。
伊良湖沖で釣れているタチウオは指2.5本とかせいぜい3.5本程度のもで、この大きさでは身に厚みがなく食するにはまだ早い。
タチウオの大きさを表わすのに長さや重量よりも、その胴体の幅を指3本とか指6本というように手のひらで表現する。スーパーなどで売られているものは概ね指4本以上のものである。
そこで釣り仲間が得た情報では、由比港から出船する釣船は平均魚体が大きく、超大物も出るとのことで、早速仲間5人とこの釣行に出かけた次第である。
タチウオは深いところであれば昼間でも釣れるが、夜であれば浅いところで釣れる。そこで由比港では、夜11時から出船する釣船がるとの情報を得て、完全徹夜も覚悟の釣行となった。
釣り客は我々の仲間5人とそのほか4人の個人客合わせて9人であった。かなり大きな船で釣り座は余裕があり、おまつり(釣り糸がからみあう)の心配はなかった。
ところが、前日の大雨で川からの大量の土砂が流れ込み、海が濁っているとのことで、船頭はいつもの釣り場をあきらめて別の場所から釣り開始となった。
自然とは厳しいものである。海が濁り、淡水の混じったところではなかなか釣果が上がるものではない。船頭も何度も移動してタチウオの群れをさがした。しかし当たりは極端に少ない。こうした経験はすでに何度もあることではある。
朝5時まで6時間の釣行で、仲間5人の釣果は筆者が2匹、3人が各1匹、残り一人は0というさんざんな結果となった。個人客の4人も、一人は7匹、他は0~1という状態で、これまでの30~50匹という実績からは程遠いものであった。
ただ特筆は、筆者が釣り上げた1匹は重量が2キロを超え、魚体も指6本を優に超える超大物であったことである。船頭も貧果を残念がったが、この1匹はどうしても写真に撮りたいと言って撮ってくれたのがここに掲げたものである。

超大ドラゴン級タチウオ

2017-09-15 07:01:26 | Weblog
超大ドラゴン級タチウオ
2017.915(金)
 9月13日夜、仲間と久しぶりに釣行した。行先は静岡県清水港の東に位置する由比魚港である。
 今は各地でタチウオ(太刀魚)がよく釣れている。愛知県の師崎港からは毎日多くの釣船が伊良湖沖辺りへ釣り客を乗せて出船している。釣果は50匹、100匹などと云う大量釣果が伝えられているが、そのほとんどは小さい魚体である。
伊良湖沖で釣れているタチウオは指2.5本とかせいぜい3.5本程度のもで、この大きさでは身に厚みがなく食するにはまだ早い。
タチウオの大きさを表わすのに長さや重量よりも、その胴体の幅を指3本とか指6本というように手のひらで表現する。スーパーなどで売られているものは概ね指4本以上のものである。
そこで釣り仲間が得た情報では、由比港から出船する釣船は平均魚体が大きく、超大物も出るとのことで、早速仲間5人とこの釣行に出かけた次第である。
タチウオは深いところであれば昼間でも釣れるが、夜であれば浅いところで釣れる。そこで由比港では、夜11時から出船する釣船がるとの情報を得て、完全徹夜も覚悟の釣行となった。
釣り客は我々の仲間5人とそのほか4人の個人客合わせて9人であった。かなり大きな船で釣り座は余裕があり、おまつり(釣り糸がからみあう)の心配はなかった。
ところが、前日の大雨で川からの大量の土砂が流れ込み、海が濁っているとのことで、船頭はいつもの釣り場をあきらめて別の場所から釣り開始となった。
自然とは厳しいものである。海が濁り、淡水の混じったところではなかなか釣果が上がるものではない。船頭も何度も移動してタチウオの群れをさがした。しかし当たりは極端に少ない。こうした経験はすでに何度もあることではある。
朝5時まで6時間の釣行で、仲間5人の釣果は筆者が2匹、3人が各1匹、残り一人は0というさんざんな結果となった。個人客の4人も、一人は7匹、他は0~1という状態で、これまでの30~50匹という実績からは程遠いものであった。
ただ特筆は、筆者が釣り上げた1匹は重量が2キロを超え、魚体も指6本を優に超える超大物であったことである。船頭も貧果を残念がったが、この1匹はどうしても写真に撮りたいと言って撮ってくれたのがここに掲げたものである。

超大ドラゴン級タチウオ

2017-09-15 06:53:37 | Weblog
2017.915(金)
 9月13日夜、仲間と久しぶりに釣行した。行先は静岡県清水港の東に位置する由比魚港である。
 今は各地でタチウオ(太刀魚)がよく釣れている。愛知県の師崎港からは毎日多くの釣船が伊良湖沖辺りへ釣り客を乗せて出船している。釣果は50匹、100匹などと云う大量釣果が伝えられているが、そのほとんどは小さい魚体である。
伊良湖沖で釣れているタチウオは指2.5本とかせいぜい3.5本程度のもで、この大きさでは身に厚みがなく食するにはまだ早い。
タチウオの大きさを表わすのに長さや重量よりも、その胴体の幅を指3本とか指6本というように手のひらで表現する。スーパーなどで売られているものは概ね指4本以上のものである。
そこで釣り仲間が得た情報では、由比港から出船する釣船は平均魚体が大きく、超大物も出るとのことで、早速仲間5人とこの釣行に出かけた次第である。
タチウオは深いところであれば昼間でも釣れるが、夜であれば浅いところで釣れる。そこで由比港では、夜11時から出船する釣船がるとの情報を得て、完全徹夜も覚悟の釣行となった。
釣り客は我々の仲間5人とそのほか4人の個人客合わせて9人であった。かなり大きな船で釣り座は余裕があり、おまつり(釣り糸がからみあう)の心配はなかった。
ところが、前日の大雨で川からの大量の土砂が流れ込み、海が濁っているとのことで、船頭はいつもの釣り場をあきらめて別の場所から釣り開始となった。
自然とは厳しいものである。海が濁り、淡水の混じったところではなかなか釣果が上がるものではない。船頭も何度も移動してタチウオの群れをさがした。しかし当たりは極端に少ない。こうした経験はすでに何度もあることではある。
朝5時まで6時間の釣行で、仲間5人の釣果は筆者が2匹、3人が各1匹、残り一人は0というさんざんな結果となった。個人客の4人も、一人は7匹、他は0~1という状態で、これまでの30~50匹という実績からは程遠いものであった。
ただ特筆は、筆者が釣り上げた1匹は重量が2キロを超え、魚体も指6本を優に超える超大物であったことである。船頭も貧果を残念がったが、この1匹はどうしても写真に撮りたいと言って撮ってくれたのがここに掲げたものである。

男子100日本の悲願10秒の壁突破

2017-09-10 17:15:04 | Weblog
2017.9.10(日)
 9月9日、福井県営陸上競技場で行われた日本学生対校選手権の100メートル決勝で、東洋大の桐生祥秀選手(21)が9秒98の日本新記録を出し、日本人で初めて「10秒の壁」を破り、ついに歴史的な記録を打ち立てた。
 昨日から今日にかけての各メディアはこの話題を大きく取り上げ、都会では号外が飛び交った。多くの国民は、「とうとうやってくれた」「やっとやってくれた」と喜び、安どした。
桐生自身「大学最後、今季最後の100メートルで出せたのはうれしい。やっと4年間、くすぶっていた自己ベストを更新できた。9秒台を出して、やっと世界のスタートラインに立てた。」と語っている。
 10秒の壁を破った選手は、桐生選手が126人目という。ちなみに最初の選手は、1968年に米のジム・ハインズ選手が9秒95で走った。桐生選手の言うとおり、49年ぶりに日本がやっと世界のスタートラインに立ったことを意味する。
 現在の世界記録は、2009年の世界選手権でジャマイカのウサイン・ボルトが出した9秒58というから、桐生選手との差は0.4秒ある。世界との差はまだまだ大きいと言わねばならない。
 日本人の記録では、1925(大正14)年に谷三三五(たに・ささご)が10秒8を出し、11秒の壁を破った。次に1935(昭和10)年、吉岡隆徳(たかよし)が10秒3を出して「夢の超特急」と言われた。1964年(昭和39)年、飯島秀雄の10秒1(ここまで手動計時)、1998(平成10)年、伊東浩司の10秒00と少しずつではあるが秒刻を削ってきた。そして2017年、ついに桐生が10秒の壁を破ったのである。
 陸上の花、100メートルで日本人最初の9秒台は、まさに歴史上の記録である。
おめでとう! 桐生選手!!

前原代表の民進党、危うい船出

2017-09-07 14:38:07 | Weblog
2017.9.7(木)
 民進党は9月1日、前原誠司氏と枝野幸男氏との一騎打ちで代表選を争ったが、前原氏が圧勝して代表に就任した。
しかし前原代表は、その初仕事である党の執行部人事を巡って迷走している。3日、前原氏は代表代行に枝野氏、幹事長に二期目の山尾志桜里元政調会長(43)を指名したが、枝野氏に問題はなく、山尾氏に党内から経験不足を理由に異論があることから、これを撤回し、代表代行に充てる予定だった大島敦元総務副大臣(60)を幹事長にすることとした。山尾氏は代表代行とする予定だったが、これもかなわず、結局山尾氏は党の主要人事からはずれることとなってしまった。
 党運営の要となる幹事長について、内定していた人事が変更となるのは異例中の異例である。この混乱で前原氏は早くも指導力が問われることとなってしまった。
ところが6日、今週発売の週刊文春が山尾氏と既婚男性との交際疑惑を報じることが明らかになって、世間はてんやわんやである。山尾氏は既婚で二人の子供もいる。言い訳の聞かない不倫である。民進党も10月の衆参三補選への影響を避けるため、山尾氏の離党は避けられないとの見方が広がっているという。いや、離党では済まない事態であり、議員を辞職すべき事柄であろう。
 今から思うと、山尾幹事長がとん挫した時点ですでにこの不倫疑惑は明らかになっていたのではないか。「経験不足」というだけで内定を取り消すなどということは、そもそもおかしく、違和感を覚えたものである。
 報道によると、相手の男性は慶応大出の弁護士で、山尾氏より8歳も若いイケメン男性という。相手の男性はともかく、山尾氏は政治の中枢にいる時の人であり、不倫現場を週刊誌に尾行されて洗いざらい明るみに出されてしまうとは、なんという体たらくであろうか。
 山尾氏は2016年、保育園の児童待機問題で安倍首相を追求して名をあげ、論戦力ありとして政調会長に就任した。しかし浮気から身を滅ぼし、政治生命を失った。身から出た錆というか、自業自得というべきであろう。
 民進党は自民党に対抗する野党として、国民の期待を一身に負っている。それにもかかわらず、離党者が続出し、また、政治の基本理念で一本にまとまっていないという弱点を持っている。
 新しい前原体制が、どこまで党内をまとめ、国民の支持を高めることができるのか、期待と不安が入り混じる。
 




青い目の人形と答礼人形・里帰り展

2017-09-02 09:24:21 | Weblog
2017.9.2(土)
 大正時代末期から昭和初期にかけて、アメリカでは反日運動や排日移民法が成立するなど、日米間に様々な軋轢が生じていた。
 こうした背景の下、親日家の米国人シドニー・L・ギューリック博士は両国の国民同士の理解を深めるために日本へ人形を贈る「友情の人形(フレンドシップドール)計画」を立てた。博士は「世界国際児童親善会」を組織し、キリスト教会や学校関係者などのボランティアによる募金活動などを通じてアメリカ人形を日本に贈る活動を、アメリカ全土に広めた。その結果、昭和2(1927)年、日本の各地の小学校・幼稚園に贈られた青い目の人形は12,000体余に達した。
 これを受けた日本は、実業家・澁澤榮一を窓口として、豪華な市松人形58体を答礼人形としてアメリカに贈った。
 今年は、こうした日米の人形の交流から丁度90年の節目の年に当たる。これを記念して愛知県では本年、「答礼人形を里帰りさせる会」を組織して標題の「里帰り展」を、県下の豊川、岡崎、一宮、名古屋の4都市で順次開催してきた。現在は8月30日から9月10日までの日程で、名古屋市の博物館で開催している。
 日米友好の証として贈られた青い目の人形であったが、太平洋戦争がはじまると敵国のスパイ人形として敵視されるようになり、そのほとんどが処分されてしまった。処分を逃れたのは、心ある人たちが国の目を逃れて、人の目に触れない場所にひそかに隠してきたことによるものであった。
 戦後、30年を過ぎたころから隠された人形たちは、各地の小学校・幼稚園、個人宅から発見され、その数は337体にのぼった。贈られた数の僅か2.8%に過ぎない。
 ギューリック博士の孫に当たるギューリック三世夫妻は、祖父の事業の遺志を引き継ぎ、「新青い目の人形」を日本へ贈る活動を始めた。現在まで30年間にわたって300体余の人形を全国各地に贈られた。
 今回の愛知県における「青い目の人形と答礼人形 里帰り展」では、昭和2年にアメリカから日本に贈られた青い目の人形10体と、その答礼として日本からアメリカに贈った日本人形「ミス愛知」およびギューリック三世の「新青い目の人形」10体などが展示されている。なお、「ミス愛知」は長くその行方が分からなかったが、2010年にオークションで発見された。現在の所有者は、アメリカの人形研究家・アラン・スコット・ペイト氏。
なお、ミス愛知の作者は、人間国宝・平田郷陽(1903~1981)である。
 筆者はこの展覧会に8月31日(木)に出かけた。そもそもこの「青い目の人形展」については、大学の後輩である夏目勝弘氏がそのライフワークとして、日米の親善と青い目の人形の普及に務めてきた成果でもある。その夏目氏は去る6月19日に亡くなった。
 人形を通じて日米友好交流をはかってきた彼は、「ミス愛知」の里帰りに奔走していたが、残念なことにその展覧会を見ることはできなかった。また、「ミス名古屋」の里帰りにも努力していたが、その成果を見てもらうことができなかったことも、心残りであったであろう。
 幸い各会場とも盛況であり、天国の彼も喜んでいるにちがいない。冥福を祈る。