2020年11月29日(日)
職場の先輩であり、「戦争と平和の資料館ピースあいち」で活躍されていた斎藤孝さんが2020年11月26日亡くなった。ここしばらくピースあいちへお見えになることがなかったので心配していた矢先のこと、12月には90歳になる直前での大往生であった。葬儀は昨日(28日)、吹上の一柳葬儀場で行われた。身近な人がまた天国へ旅立たれた。
斎藤さんは在職中から、文筆家でありまた俳句や短歌をこよなく愛されていた。俳句仲間同士で歌会を持たれていたらしく、句集が出来上がると必ず送っていただいた。ここしばらくピースあいちへお見えになることがなかったので、心配している矢先のことであった。
私がリタイアしてピースあいちで活動していると、この運動にも賛同して仲間に入っていただいた。そのせいか戦争と平和にかかる詩がたくさん生まれた。
最近いただいた句集は「戦争と平和を詠む」と題されており、数百編の句集となっている。そのあとがきの中で、初めて参加した22年前の句会のことが書かれており、また「ピースあいち」に参加するようになって、戦争と平和をテーマにした俳句を詠むようになったいきさつが書かれている。
私がピースあいちの活動の一つとして、戦争体験者の方々に書いていただいた体験記をまとめた「語り継ぐ私の戦争体験」というのがある。斎藤さんには「スカートの白線が目にしみる」と題した一文を書いていただいた。
その最後の部分が次のとおりである。
「名古屋は一面の焼け野原だった。その焼け跡を女学生が歩いていた。もんぺ姿ではなくセーラー服だった。スカートの両サイド、縦に一本入った白線が目にしみるほどであった。
見上げた空は入道雲が沸き上がる青空だった。爆弾も焼夷弾も落ちてこない空であった]
私の好きな印象的な文章である。
心よりご冥福を祈る。
職場の先輩であり、「戦争と平和の資料館ピースあいち」で活躍されていた斎藤孝さんが2020年11月26日亡くなった。ここしばらくピースあいちへお見えになることがなかったので心配していた矢先のこと、12月には90歳になる直前での大往生であった。葬儀は昨日(28日)、吹上の一柳葬儀場で行われた。身近な人がまた天国へ旅立たれた。
斎藤さんは在職中から、文筆家でありまた俳句や短歌をこよなく愛されていた。俳句仲間同士で歌会を持たれていたらしく、句集が出来上がると必ず送っていただいた。ここしばらくピースあいちへお見えになることがなかったので、心配している矢先のことであった。
私がリタイアしてピースあいちで活動していると、この運動にも賛同して仲間に入っていただいた。そのせいか戦争と平和にかかる詩がたくさん生まれた。
最近いただいた句集は「戦争と平和を詠む」と題されており、数百編の句集となっている。そのあとがきの中で、初めて参加した22年前の句会のことが書かれており、また「ピースあいち」に参加するようになって、戦争と平和をテーマにした俳句を詠むようになったいきさつが書かれている。
私がピースあいちの活動の一つとして、戦争体験者の方々に書いていただいた体験記をまとめた「語り継ぐ私の戦争体験」というのがある。斎藤さんには「スカートの白線が目にしみる」と題した一文を書いていただいた。
その最後の部分が次のとおりである。
「名古屋は一面の焼け野原だった。その焼け跡を女学生が歩いていた。もんぺ姿ではなくセーラー服だった。スカートの両サイド、縦に一本入った白線が目にしみるほどであった。
見上げた空は入道雲が沸き上がる青空だった。爆弾も焼夷弾も落ちてこない空であった]
私の好きな印象的な文章である。
心よりご冥福を祈る。