名古屋から発するブログつぶて・凡人のひとりごと

身の回り、世間のできごとをを日記風に記す(紙つぶてならぬブログつぶて)。

北海道新幹線開業

2016-03-27 11:09:50 | Weblog
2016.3.26(土)
 新青森~新函館北斗の約149キロを結ぶ北海道新幹線が、昨日3月26日に開通した。これで新幹線の総延長は2,765Kmに拡大したという。
 北海道新幹線は1973年に整備計画が決定され、43年を経て開業した。この新幹線の基盤となる青函トンネル53.85Kmは24年がかりの大工事を経て1988年に開通した。新幹線はこの道を約25分で通り抜ける。東北を結ぶ輸送力は大幅に向上し、観光やビジネスに期待が高まる。
だがよく見ると、新青森と北海道の南の玄関である函館市と直接つながるわけではない。函館の途中にある北斗市が今回の終着駅である。函館に行くにはそこからさらに在来線に乗り換えなければならない。札幌はそこからさらに遠い。
 新函館北斗駅から新青森とは1時間、仙台とは2時間半で結ばれる。東京とは最短で4時間2分を要するという。また、東京までの料金は特急料金を含めて22,690円である。名古屋や大阪からはさらに長い時間と高い料金が必要となる。
 こうしてみると、北陸新幹線の金沢延伸区間と比べて経済効果は極めて限定的と思われる。開業日の切符はあっという間に売り切れたというが、開業後の平均乗車率は20%前後と試算されているという。これでは到底収支は償えない。
 やはり、函館さらには札幌と結ばれてこその新幹線であろう。せっかくの開業で水を差すつもりはないが、営業赤字はだれが負担するのであろうか。とりあえずは、新幹線が海を渡ったことに意義を認めよう。



名古屋市会議員の報酬の顛末

2016-03-23 22:23:26 | Weblog
2016.3.23(水)
 名古屋市議会では市議の年800万円の報酬を1455万円に引き上げる条例をすったもんだの末、可決した。もともと、名古屋市議の報酬は都道府県や他の指定都市と横並びの年1600万円ほどであったが、河村市長がそれの半減を公約にして当選したことから、野党に下った自公民や共産党も含めて全会一致で800万円に引き下げた経緯がある。
 河村市長の減税公約で躍進した減税日本の党を背景に名古屋市だけ特異な報酬額になったが、その後、減税日本所属の議員らの不始末事件が続出して、2期目には早くも自・民に次いで公明、共産と同数の第3党にまで凋落してしまった。
 こうした経緯から再び絶対多数を取り戻した自・民・公の三党は、いくらなんでも800万円では低すぎるという理屈で、元に戻す訳にもいかず、中途半端な1455万円という数字を可決してしまった。
 収まらないのは河村市長である。直ちに再議に付したが、共産党の支持は取り付けたものの、あえなく否決された。結局のところ、4月から議員の報酬は1455万円が支給されることとなったのである。
 これに対して、市長を応援する市民団体は市議会の解散請求(リコール)の準備を始めているという。
こうした動きも配慮したのか、公明、共産の両党は800万円を超える分については寄付することを決めた。市長与党の減税日本所属の議員も当然寄付する見通しという。さらに民主党も検討中らしい。
 そもそも、なぜ800万円にしたのかという根拠が不明で、河村市長の思い付き額に過ぎないというのが他党の主張である。だから自公民も1455万円に決めてからも、「適正額は市特別職報酬等審議会に諮問すべきだ」と主張してきた経緯がある。
 現在の一般市民の収入は、アベノミクスで潤っているはずだが、一部を除いて大部分は低所得にあえいでいる。市民感覚からすれば1600万円というのはいかにも高すぎるというのは、確かにもっともな感覚ではある。にもかかわらず全国の都道府県や指定都市の議員の報酬は、一向に名古屋に倣おうとしない。800万円にまではいかなくても一定の引き下げが続いてもおかしくないはずである。
 名古屋市以外の市民はそんなことに無関心なのであろうか。いや、県議会議員や大都市の議員たるもの1600万円程度の報酬は当然と思っているのであろうか。
 800万円という金額は、筆者の感覚では、バブル時代では一般企業の主任か係長ほどの額であった。しかし今では、課長クラス程度にまで下がってきているように思える。
 かつて、議員活動は自分の商売とは別の事業であり、主たる収入源ではなかった。今はそれのみが収入源であり、家族の生計はもちろん、事務所を構え、専従の秘書を使わなければ官僚(役人)に対抗できるような政治活動は覚束ない。
 そういう意味からも、単に思い付きの金額ではなく、報酬等審議会にきちんとした金額を提案してもらうのは一つの筋であろう。
 そういう手も経ずに、何がなんでも何億円もかかるリコール運動を手掛けようとする連中の視野の狭さに悲しみさえ覚える。

益川敏英氏の「この道」

2016-03-18 20:44:48 | Weblog
2016.3.18(金)
 ノーベル賞物理学者の益川氏が中日新聞夕刊の「この道」欄に執筆している。3月18日現在すでに63回に達している。
 16日付の第61回では、1987年の名古屋大学職員による平和憲章を紹介している。
「戦争を目的とする研究と教育には従わない。軍関係機関とは共同研究せず資金も受け入れない」というものである。
 最近この憲章に対して「国の交付金を受けながら反戦をうたい科学を軍事利用させないというのは僭越だ」という声が上がっている。国会の中の委員会でもそういう質問が出た、というのである。
 17日付の第62回では、益川氏がある時テレビに出て、特定秘密保護法の批判をしたら外務省関係だったかの人たちが大学の益川氏の部屋に来て「先生の心配されるようなことはございません」と懸命に説得に来たことを紹介し、次のことを書いている。
 原爆を開発するマンハッタン計画を主導した米国の物理学者ロバート・オッペンハイマーは、米政府が戦争の抑止力どころか率先して原爆を使用してしまったことに怒り、次の水爆の開発には反対したためスパイの容疑をかけられ研究者生命を事実上奪われた。私はこういうことが起こらないかと恐れる、と。
 さらに最近の情報として、防衛省は昨年から軍事技術に応用できそうな基礎研究を募って研究資金を出し始めた。無人機や通信技術などに関した研究を公募して十数以上の大学が応募した。軍事研究と疑われる研究はしないとしていた東大も昨年、「個々の研究についてデュアル・ユース(軍民両用)のあり方を丁寧に議論し対応する」という見解を出した。(中略)軍事研究を拒否し続けると何か不利なことが起きないかと自粛してしまうのが怖い、としつつ、益川氏は「私は負けないし、名古屋大学にも、ほかの大学にも負けてほしくない」と書いている。
 素晴らしいノーベル賞受賞者である。


民主・維新合流、新党名は「民進党」

2016-03-16 10:00:52 | Weblog
2016.3.16(水)
 民主党と維新の党はかねてから両党の合流を協議してきたが、14日の新党協議会で新たな党名を「民進党」にすることで合意した。
 民主党は「立憲民主党」を主張し、維新の党は「民進党」を提案していたが、その折り合いは両党それぞれで行った世論調査の結果で決着したという。今月27日に結党大会を行うこととされており、そこで正式に決める。
 維新の党はもともと元橋下大阪市長が率いていた旧日本維新の会が分裂して、今は松野頼久氏が代表となっている。 現有勢力は、民主党衆院議員71、同参院議員59、維新の党衆院議員21、同参院議員5となっている。
 維新の党も元はといえば民主党、旧民社党、自民党などから分かれてきた人たちで構成されており、成り立ちは民主党と変わりない。勢力拡大のためにこの際、怨念は棚に上げて大同団結することを否定するものではない。巨大政党と対抗するには名前も大事だが、何よりも政策や理念が大事である。
 新党の綱領では「自由、共生、未来への責任」を結党理念とし、
 1、借金依存体質を変える行財政改革
 2、2030年代の原発稼働ゼロ
 3、持続可能な社会保障制度確立
 4、行き過ぎた格差の是正
 5、外交・安全保障については専守防衛を前提にして現実主義を貫く
などの政策を公表している。
 自公政権が、金のばらまき、原発再稼働へ盲進、経済優先の格差拡大、憲法9条改悪を狙うエセ安全保障法の推進などによって戦前回帰へと進む中、新生「民進党」が現政権の対抗軸となりうるのか、綱領・政策の具体的な道筋を分かりやすく示してほしい。

大震災5年目、高浜原発差し止めの判決

2016-03-11 09:07:05 | Weblog
2016.3.11(金)
 滋賀県の住民が関西電力高浜原発3、4号機の運転差し止めを求めた仮処分の手続きで大津地裁が9日、住民側の主張を認め、運転を停止するよう命じた。
 この決定は直ちに法的拘束力を持つので、関電は運転中の3号機を10日夕刻、原子炉を停止させた。稼働中の原子炉を司法判断で止めるのは初めてとなる。4号機の方も原子炉が緊急停止するトラブルが起き、既に冷温停止状態になっており、異議や執行停止の申し立てが認められない限り、関電は二機を再稼働できない。
 訴えた住民らは立地県の福井ではなく、高浜原発の半径70キロ圏内に暮らす人たちである
 山本善彦裁判長は、
 「原発の安全対策を講ずるには福島第一原発の原因究明を徹底的に行うことが不可欠」と指摘し、原因究明が進まない中で、新規制基準を策定した規制委員会の姿勢を「非常に不安を覚える」と批判した。そのほか、基準地振動、住民の避難計画、津波対策などについても安全性の立証や疑問が残るとした(10日付中日新聞)。
 これに対して関電は近く異議と決定の執行停止命令を大津地裁に申し立てる。

 こんな司法判断が出る中、東日本大震災の発生から今日(11日)で5年の日を迎えた。大震災と原発事故という二重の大災害は、今なお全国に17万人を超える避難者を抱える。
 今日現在の死者の確定数は15,894人、不明者は2,561人、避難生活などで亡くなった震災関連死は3,410人、合計21,865人に達している。
また、仮設住宅で暮らしている人は57,677人、福島原発事故によって県外に避難している住民は2月26日現在、43,139人にも達しているという。
一方、がれきの処理は一見それなりに進んでいるように見えるが、除染のためにたまった土や汚泥、汚染水などは行き場がなく、仮置き場に山積みされている。メルトダウンした原子炉の廃炉処分は遅々として進んでいない。
 こんな状況の中で、国も電力会社も地元自治体も、さらにその住民さえも原発の再稼働に前のめりになっている。避難区域の人々の苦渋に満ちた姿がテレビなどで放映されているが、それでもこれらの人たちは、今回の大津地裁の決定を苦々しく思っている。心の貧しさにそれこそ涙が出る。

真言聲明を聴く

2016-03-07 09:15:41 | Weblog
2016.3.7(月)
 一昨日(5日)愛知県芸術劇場コンサートホールで、仏教の儀式のための声楽と言われる聲明(しょうみょう)を連れ合いと聴きに出かけた。
 解説によると、真言聲明は806年、空海が唐から伝えたものが基礎となって現在に至っている。仏教の中でも「音(響き)」を重んじたのは密教で、「音の力」や「声の力」に着目したのは弘法大師・空海で「五大に皆響きあり」と記した(「声楽実相義」)。これは、世界の構成要素の象徴である地・水・火・風・空が生成変化しながら、宇宙の隅々まで奏でる《響き》そのものに、宇宙の真理を語る《声》を聴くという意味と解説している。そして、真言聲明は心の外へ向かって表現されると同時に、心のうちに向かって宇宙の《響き》を感得するための宗教的芸術でもあるという。
 そして現在では、聲明は宗教の垣根を超えて、グレゴリオ聖歌との共演、国内外の劇場や音楽ホールで演奏されるなど、その芸術性が高く評価されるようになった。
 一昨日の演奏会はまさにそうした形の「演奏会」であった。この公演で行われた「大曼荼羅供」は、高野山において832年、弘法大師が自ら修した萬灯萬華会が起源とされ、世界遺産となった高野山で行われる儀式の中でも最も厳格な法会といわれる。
 この日の出演は、僧侶たち総勢45名ほどで、精力的な僧侶たちが声を揃えての大音響は迫力がある。ユニゾンではあるが、微妙にそして自然に音がずれて和音となっていたのが心地よい。
 こんな「演奏会」を聴きに行ったのは、50年以上も前に、連れ合いと高野山へ出掛けた時の朝の勤行で、素晴らしいお経のボリュームに圧倒された思い出があったからである。
 しかし、この日の演奏会では、正直少し物足りなかった。一つは、合唱の迫力が期待を下回っていたこと、また、正味2時間の演奏会のうち、およそ半分は一人のお経に終わったことである。
 「儀式としての大曼荼羅供」は理解できない訳ではないが、もっと「演奏会」らしさを強調してもよいのではないか、とういうのが感想である。たとえば「ハーモニー」の強調や「輪唱」的唱法の導入などはあり得ないのであろうか。

辺野古訴訟和解

2016-03-04 20:46:57 | Weblog
2016.3.4(金)
 普天間飛行場の辺野古移設を巡って激しく争ってきた政府と沖縄県は、福岡高裁那覇支部が示した工事の中止を含む和解案を受け入れる方針を表明したと、メディアが大きく報道している。
 こうした決断をしたうえで、安倍首相は「辺野古移設が唯一の選択肢であるという国の考え方に変わりはない」といい、菅官房長官も「沖縄の負担軽減に全力で取り組む」とアメを散らせつつ、「名護市辺野古への移設が前提であることも事実。地元の皆さんの協力もいただきたい」などと辺野古移設への本音を隠さない。
 安倍政権にとっては、辺野古移設を巡っての訴訟合戦は得策ではなく、この際、沖縄県民に対して柔軟性を示して時期を待とうという作戦に出たものと思われる。
 今年6月には沖縄県議選があり、7月には参院選がある。強硬策ばかりでなく、時には妥協して県民の心変わりを待とうというのであろう。そして3年後の知事選で勝利することで一気に辺野古移設の〈あがり〉を決めようとの深慮遠謀が垣間見える。
 いずれにせよ、この決着は沖縄県民が決めることである。県民の民意というものを最後まで貫けるかどうかがカギである。

認知症患者の死亡事故で家族に責任なしの判決

2016-03-02 17:55:26 | Weblog
2016.3.2(水)
 大府市の踏切で認知症の男性(当時91)が徘徊中、東海道線の共和駅構内で電車にはねられて死亡した事故をめぐり、家族が鉄道会社(JR)への賠償責任を負うかどうかが争われた訴訟の上告審判決で、最高裁第三小法廷は1日、「監督が容易な場合は賠償責任を負うケースがあるが、今回の場合は困難だった」として家族に責任はないと判断、JR東海の賠償請求を棄却した。
判決骨子は次のとおり
 ①認知症患者と同居する配偶者というだけでは民法上の監督義務を負わない。
 ②家族と患者の関係などを総合配慮し、加害行為を防ぐための監督が容易な場合は賠償責任を追うことがある。
 ③この家族の場合は、監督が困難で賠償責任はない。

 このケースの場合、一審名古屋地裁は、妻と長男にJR東海の請求通り約720万円の賠償を命令。また二審の名古屋高裁は20年以上も別居していた長男に監督義務はないと認定。しかし妻には、「夫婦に協力扶助義務がある」とする別の民法の規定を引用し、妻にだけ約360万円の賠償を命じていた。
 今回の最高裁判決は、一審、二審を覆してJR東海の逆転敗訴となったが、極めて妥当な判決と思える。被害者がJR東海という巨大企業だけに余計にその思いが強い面があるかもしれない。もし被害者が個人の場合、加害者が認知症患者だったために十分な補償が受けられないとなるとそれはそれで問題である。判決が総合的判断というフレーズを使ったところに、今回の判決の落としどころを感ずる。
 それにしても、一審、二審ともいかにも形式的な判決で、逆転されても仕方ないところが
いかにも情けない。