2023(令和5)年7月30日(日)
今朝の中日新聞に、東山動物園初代園長の北王英一さんが死去して今年で30年にはなるとの記事が出ている。北王さんは、1990年から1993年までの3年間、園長を勤めた。北王さんは1937(昭和12)年、動物園開園と同時に初代園長に就いた。その4年後に始まった太平洋戦争中、空襲で猛獣が逃げ出すのを恐れた国は、全国の動物園で殺処分を命じた。東山動物園ではトラ、ライオン、クマなどが処分された。さらに飢えと寒さなどで次々と動物が死んでいった。
象も処分対象だったが、北王さんは「象は家畜同様、おとなしい。象を殺すなら僕を先に」と抵抗し、アジアゾウの「マカド」と「エルド」を守った。そうした態度が反抗的と映ったのか、「戦時中、兵隊に動物に関する資料を燃やされた」と悔しそうに語っていた北王さんの姿を、かって園長を務めた橋川 央(ひさし)さん(69)は思い出している。 橋川さんの調べでは、300種千匹いた動物が、終戦直後には18種22匹しか残っていなかった。
終戦を迎えると、東京の子ども達から「象を貸してください」との要望が園に寄せられた。二頭は離れるのを嫌がり、高齢だったこともあって、北王さんは国鉄(当時)などに協力を求めてゾウを見に来る全国の子どもたちを乗せて走る「ゾウ列車」を実現。延べ一万人以上の子どもたちに夢を与え、マカニーとエルドは人気者となった。
2011年に十四代目園長となった橋川さんは、新アジアゾウ舎の「ゾージアム」をオープンさせた。施設ではゾウ列車の歴史を映像や資料で紹介。「ゾウ列車や戦争の事実を後世に残して伝える役割が、東山動植物園にはあるから」とこだわった。
園内の動物会館の講座などで、今も子どもたちにゾウ列車について教えることもある橋川さん。「平和だから動物園に皆が楽しみに来てくれる。子どもたちがずっと、笑顔ですごせる場所であってほしい」と願う。
現在マカニーとエルドは、ライオン舎近くの慰霊碑の下で眠っている。園にとってアジアゾウは特別な存在となり、開演から一度も飼育が途切れていない。22年にはメスのアジアゾウ「うらら」が生まれ、子どもらが笑顔で見ている。北王さんは戦後、園がいろんな動物であふれることを祈っていたという。
今朝の中日新聞に、東山動物園初代園長の北王英一さんが死去して今年で30年にはなるとの記事が出ている。北王さんは、1990年から1993年までの3年間、園長を勤めた。北王さんは1937(昭和12)年、動物園開園と同時に初代園長に就いた。その4年後に始まった太平洋戦争中、空襲で猛獣が逃げ出すのを恐れた国は、全国の動物園で殺処分を命じた。東山動物園ではトラ、ライオン、クマなどが処分された。さらに飢えと寒さなどで次々と動物が死んでいった。
象も処分対象だったが、北王さんは「象は家畜同様、おとなしい。象を殺すなら僕を先に」と抵抗し、アジアゾウの「マカド」と「エルド」を守った。そうした態度が反抗的と映ったのか、「戦時中、兵隊に動物に関する資料を燃やされた」と悔しそうに語っていた北王さんの姿を、かって園長を務めた橋川 央(ひさし)さん(69)は思い出している。 橋川さんの調べでは、300種千匹いた動物が、終戦直後には18種22匹しか残っていなかった。
終戦を迎えると、東京の子ども達から「象を貸してください」との要望が園に寄せられた。二頭は離れるのを嫌がり、高齢だったこともあって、北王さんは国鉄(当時)などに協力を求めてゾウを見に来る全国の子どもたちを乗せて走る「ゾウ列車」を実現。延べ一万人以上の子どもたちに夢を与え、マカニーとエルドは人気者となった。
2011年に十四代目園長となった橋川さんは、新アジアゾウ舎の「ゾージアム」をオープンさせた。施設ではゾウ列車の歴史を映像や資料で紹介。「ゾウ列車や戦争の事実を後世に残して伝える役割が、東山動植物園にはあるから」とこだわった。
園内の動物会館の講座などで、今も子どもたちにゾウ列車について教えることもある橋川さん。「平和だから動物園に皆が楽しみに来てくれる。子どもたちがずっと、笑顔ですごせる場所であってほしい」と願う。
現在マカニーとエルドは、ライオン舎近くの慰霊碑の下で眠っている。園にとってアジアゾウは特別な存在となり、開演から一度も飼育が途切れていない。22年にはメスのアジアゾウ「うらら」が生まれ、子どもらが笑顔で見ている。北王さんは戦後、園がいろんな動物であふれることを祈っていたという。