2013.10.30(水)
現役時代は「打撃の神様」といわれ、戦前、戦後におけるプロ野球会の大スターであった元巨人軍監督の川上哲治さんが10月28日、老衰のため亡くなった。享年93歳であった。
報道によると、春頃までは元気であったが、転倒して肋骨を骨折して持病の心臓病も悪化し、全身の免疫状態が低下する老衰の症状が進んでいたという。
我々がまだ子どもであった時代、川上選手は「打撃の神様」どころか「野球の神様」というべき存在であった。野球といえば川上であった。
1938年に巨人軍に入団して、39年には早くも史上最年少の19歳で首位打者となり、以後1958年に現役を引退するまでの18年間に、最優秀選手(MVP)3度、首位打者5度、本塁打王2度、打点王3度のタイトルを獲得。56年6月には日本球界初の通算2000本安打を達成した。一時期赤いバットを使用していたが、青バットを使用した大下弘選手とともに「赤バットの川上、青バットの大下」は我ら子どもにとってあこがれであり、羨望の的でもあったこことを懐かしく覚えている。背番号16は巨人の永久欠番となっている。
引退後は1961年に監督に就任、長嶋や王を従えて1974年に監督を退くまでの14年間で優勝11回、日本シリーズも全て制した。特に65年からの9連覇は正に空前絶後の偉業となっている。
その後、野球解説者などになったが、65年に野球殿堂入りし、92年には文化功労者に選ばれた。
これでプロ野球界の大御所が天国に上った。強すぎる巨人軍に君臨してドラファンとしては憎い相手ではあったが、野球界の星がまた一つ消えたことは、何の縁もない人だがやはり寂しい気がする。
現役時代は「打撃の神様」といわれ、戦前、戦後におけるプロ野球会の大スターであった元巨人軍監督の川上哲治さんが10月28日、老衰のため亡くなった。享年93歳であった。
報道によると、春頃までは元気であったが、転倒して肋骨を骨折して持病の心臓病も悪化し、全身の免疫状態が低下する老衰の症状が進んでいたという。
我々がまだ子どもであった時代、川上選手は「打撃の神様」どころか「野球の神様」というべき存在であった。野球といえば川上であった。
1938年に巨人軍に入団して、39年には早くも史上最年少の19歳で首位打者となり、以後1958年に現役を引退するまでの18年間に、最優秀選手(MVP)3度、首位打者5度、本塁打王2度、打点王3度のタイトルを獲得。56年6月には日本球界初の通算2000本安打を達成した。一時期赤いバットを使用していたが、青バットを使用した大下弘選手とともに「赤バットの川上、青バットの大下」は我ら子どもにとってあこがれであり、羨望の的でもあったこことを懐かしく覚えている。背番号16は巨人の永久欠番となっている。
引退後は1961年に監督に就任、長嶋や王を従えて1974年に監督を退くまでの14年間で優勝11回、日本シリーズも全て制した。特に65年からの9連覇は正に空前絶後の偉業となっている。
その後、野球解説者などになったが、65年に野球殿堂入りし、92年には文化功労者に選ばれた。
これでプロ野球界の大御所が天国に上った。強すぎる巨人軍に君臨してドラファンとしては憎い相手ではあったが、野球界の星がまた一つ消えたことは、何の縁もない人だがやはり寂しい気がする。