名古屋から発するブログつぶて・凡人のひとりごと

身の回り、世間のできごとをを日記風に記す(紙つぶてならぬブログつぶて)。

今年の台風は異例づくめ

2016-08-31 18:45:59 | Weblog
2016.8.31(水)
 今日は8月最後の日。今年の夏も猛暑日が続き、熱中症の危険日も多かった。そして何よりも異常だったのが台風の発生状況とその通過コースである。
 まず、今年の台風1号の発生は7月3日で、これは史上2番目の遅さだったそうである。にもかかわらず、その後の発生は多く既に11号まで達した。
 特に10号は早く発生して迷走したうえ、岩手県に上陸し、東北、北海道に大きな被害を残して昨日、日本海に抜けてやっと低気圧に変化した。
 異例の一つは、10号が観測史上初めて東北地方の太平洋側に上陸したことである。この台風は、日本の東太平洋方面に発生し、北へ向かわず南西に下るも沖縄を前にしてUターンし、再び北東に進路を変えて八丈島近くを経て岩手県に上陸した。
 異例の2つ目は、8月中に日本列島に4個も上陸したことである。これは昭和37年以来で、史上最多タイ記録だそうである。
 異例の3つ目は、この4つの台風はいずれも東日本以北へ北上し、うち3個は僅か6日間のうちに北海道に上陸した。これは北海道上陸数で最多記録だそうである。
 この異例の原因は、8月に列島を覆っている太平洋高気圧が、今年は東の海上に位置したうえ、西側には別の高気圧が西日本付近まで張り出したため、東西2つの高気圧に挟まれた台風が列島の東側を北へ進んだ結果である。
 特に10号台風は、この時期としては大陸の冷えた高気圧と東の太平洋高気圧に挟まれて暴風だけでなく、豪雨ももたらして特に岩手県と北海道では河川の氾濫に見舞われて大きな被害を出している模様である。
 これまで台風といえば、南太平洋で発生して沖縄を抜け、日本海から東北地方へ上陸ということはあった。また、西日本を通り、日本海へ抜けるコースが定例的であった。
 これも異常気象のなせる業であろうか。

三重県・片岡温泉アクアイグニスへ静養

2016-08-27 12:05:16 | Weblog
2016.8.27(土)
 25日から26日、87歳の姉の保養を兼ねて、三重県の片岡温泉に出かけた。片岡温泉というと耳慣れないが、近鉄湯の山温泉駅から徒歩7~8分の所に位置する、要するに「湯の山温泉域」にあるアクアイグニスという名称の温泉施設である。
 しゃれた建物で、料理も一流だとの連れ合いの触れ込みで、独居の姉の保養にと出かけたものである。ホテルの案内によると、アクアは水、イグニスは火を表し、アクアイグニスは大地で育まれた温泉、食材そして男女を表しているという。
 温泉の泉質はアルカリ性でほのかに硫黄臭とほどよいヌメリのある柔らかい湯である。加水、加温(44度)なしの源泉かけ流しと申し分ない。
 建物はすべて平屋建てで、エントランスロビーを抜けると温泉日帰り客の休憩室と宿泊室、内風呂のほか和食専用の食堂からなる本館と4棟の離れ屋、パンの製造直売所、創作ケーキやジャムの店、イタリアンレストラン、ホールなどの入った別棟、メロン狩りとイチゴ狩りのできるハウスなどからなっている。
 夕食と朝食は、「笠庵」と呼ばれるところで食した。ここは東京の渋谷区恵比寿に店舗を構える笠原 将弘シェフが監修する日本食のレストランで、その料理は独創的かつ本格的と言われており、その名のとおり、おいしい和食を堪能できた。
 ただ不満は部屋の狭さである。8畳の部屋に3人はいかにも狭い。これでも4人部屋となっている。姉と連れ合いからは、離れ屋の別棟にしてほしかったとさんざん言われる羽目になった。ちなみにそこは3倍の料金になる。
 翌日26日は、一つぐらい寄り道をしたいということで、観光チラシにあった菰野町大字竹成にある五百羅漢を訪れた。
 大日堂境内の高さ約7mの小山に、露座で行儀よく5百体の羅漢が並んでいる。竹成出身の照空上人が嘉永5(1852)年に発願し、桑名の名工・藤原長兵衛一門の手により、慶應2(1866)年に完成したと説明書きにある。
 頂上の大日如来と四方仏を中心に阿弥陀如来などの諸菩薩に、七福神、閻魔大王や羅漢像などが林立する姿は壮観である。明治の廃仏毀釈などで一部損なわれたが、現在469体が遺されている。
 よい見学ができた。ここをあとに岐路についたが、お昼には帰宅できた。

リオ五輪 吉田沙保里 涙の銀

2016-08-20 09:10:10 | Weblog
2016.8.20(土)
 リオ五輪は18日(日本時間19日)、レスリング女子53キロ級の吉田沙保里選手が決勝で米国選手に敗れるという大番狂わせで銀メダルに終わった。
 リオ五輪のメダル獲得予想の中で、金100%と確実視されていただけに、意外、残念、ご苦労様の声が日本中を駆け巡った。
 吉田選手の前に、すでに58キロ級の伊調馨が五輪四連覇を果たしており、また五輪初出場の3人も金メダルを確保するという中でのまさかの敗退であった。
 負けた瞬間、吉田選手は号泣し、以後テレビの取材では何度も「申し訳ない」「ごめんなさい」を繰り返した。それだけ勝つのが当たり前、勝って当然と信じていた自分自身と日本国民への贖罪だったかもしれない。
 しかし、吉田選手を責めようとする人などだれ一人いない。残念だとは思っても皆「よくやった」「ご苦労様」「ありがとう」の声が日本中を埋め尽くした。これほど感動を与えてくれた選手が他にいるであろうか、とさえ思える。
 日本のスポーツのお家芸と言えば柔道というより、今やレスリングと言われる。それを体現したのはまさに吉田選手であり、彼女を輩出した愛知県大府市にある至学館大学である。今回の五輪で女子柔道6階級の代表に選ばれたのは、すべて至学館大学の卒業生か在学生である。初めて五輪四連覇を果たした伊調馨選手も至学館前身の中京女子大出である。
 吉田選手は昨年、五輪と世界選手権を合わせた世界大会で前人未到の16連覇を達成した。これは男女を通じて最多優勝回数であり、これまでギネス世界記録を自ら塗り替えてきたものだという。しかし2001年から続けてきた個人戦の連勝がついに206で止まった。
 「四連覇」への重圧、「絶対女王という日本国民」からの期待に応えられなくて、「取り返しのないことになってしまって」と謝り続けた吉田選手。しかし彼女ももう33歳である。若手が次々と台頭してくる中で本当によく頑張ってきた。
 「東京五輪でリベンジを」という声もあるが、その時は37歳である。「技」だけでなく「体力」がものを言う競技にあっては難しいというのが正答であろう。この点について吉田選手は明言を避けているというが、どんな答えでも構わない。自分の信ずる道を歩むのがあなたの進む道だから。

戦後71年の終戦記念日

2016-08-15 22:15:19 | Weblog

2016.8.15(月)
 今日は戦争が終わって71年が経つ記念日である。終戦の今日生まれた人も早や71歳を数えるし、その後の第一次団塊の世代と言われる人たちも高齢者の仲間入りを果たしている。
 そして例年のごとく戦没者を慰霊する政府主催の全国戦没者追悼式が正午から東京の日本武道館で開催された。式典には全国から遺族の代表などおよそ5900人が参列した。
 追悼の対象は第二次世界大戦で戦死した旧日本軍軍人・軍属約230万人(250万人ともいわれる)と、空襲や原子爆弾投下等で死亡した一般市民約80万人(60万人とも)である。
 昭和27年以来、政府主催で行われてきたが、真に戦争の惨禍を反省するなら、自国の戦没者だけでなく、相手国の戦没者への追悼の気持ちもなければならない。特に中国を始め東南アジアの人々への加害責任を考えれば、そこまで踏み込んで初めて二度と戦争など起こさないという決意につながる。
 これまでの追悼式では、歴代の首相は加害の反省も言及してきたが、安倍首相になってこの言葉が無くなってきたという。今回も 最初に安倍総理大臣が式辞を述べたが、当たり障りにない無味乾燥の言葉である。
 戦争は反対だ、戦争は二度と行ってはいけない、というのは誰でも言う。しかし、自衛のためには戦争をせざるを得ない時がある。平和を守るために戦争をしなければならない時もある。国益を守るためには戦争もやむを得ない。国家の繁栄と国民の幸せのためには資源を確保し、領土を広げる必要がある。これらは正義の戦争だ。そしていつの間にか国民は兵士に仕立て上げられていく。それぞれが納得の上でである。この怖さに気づいたときは多分、もう引き返せないところにいるだろう。

今日は初の「山の日」

2016-08-11 21:49:27 | Weblog
2016.8.11(木)
 いつの間にやら今日は「山の日」である。2014年5月に成立した改正祝日法により国民の祝日となった。2年前に祝日法が改正されたことはすっかり記憶から消えていた。
 これで国民の祝日は年間16回あることになった。ひと月に2回ある月もあるが、6月だけは祝日がない月として残った。
 「山の日」は「山に親しみ、山の恩恵に感謝する」という趣旨で設けられたという。先進諸国から見れば働きすぎの国として休日が増えることに異論はない。ただし、山に関する祝日は世界では初という。
 ところが、県レベルでは群馬県、長野県、岐阜県、静岡県、大阪府など幾つかの県で条例などに基づく「山の日」を設けているところがあるという。中には独自に祝日としているところもあるらしい。愛知県でそういう議論がなかったからか全く知らなかった。
 今日の「山の日」は制定後初の祝日で、長野県松本市安曇の北アルプス上高地で皇太子を迎え記念式典が開催される。

天皇の生前退位についてのお言葉

2016-08-09 19:05:13 | Weblog
2016.8.9(火)
 天皇陛下は8日午後、象徴としての務めについてのお気持ちをビデオメッセージで表明し、皇太子に皇位を譲る生前退位の実現についてその思いを語られた。
 ビデオによるメッセージは11分余りに及ぶもので、前日の7日に収録された。日本語と英文とともに宮内庁のホームページにも掲載されている。
これは天皇による 歴史的なメッセージであり、その全文を下記に記す。
『戦後70年という大きな節目を過ぎ、2年後には、平成30年を迎えます。
私も八十を越え、体力の面などから様々な制約を覚えることもあり、ここ数年、天皇としての自らの歩みを振り返るとともに、この先の自分の在り方や務めにつき、思いを致すようになりました。
本日は、社会の高齢化が進む中、天皇もまた高齢となった場合、どのような在り方が望ましいか、天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら、私が個人として、これまでに考えて来たことを話したいと思います。
即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、更に日々新たになる日本と世界の中にあって、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています。
そのような中、何年か前のことになりますが、2度の外科手術を受け、加えて高齢による体力の低下を覚えるようになった頃から、これから先、従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合、どのように身を処していくことが、国にとり、国民にとり、また、私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき、考えるようになりました。既に八十を越え、幸いに健康であるとは申せ、次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています。
私が天皇の位についてから、ほぼ28年、この間私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。
天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。
天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き、その後喪儀に関連する行事が、1年間続きます。その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります。
始めにも述べましたように、憲法の下、天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で、このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ、これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。
国民の理解を得られることを、切に願っています。』
 このメッセージは、高齢になられた天皇の率直なお気持ちであろう。象徴としての天皇のお立場を踏まえた説得力のあるお言葉である。
 しかるに、この天皇のメッセージに対して安倍政権を支える「日本会議」などの右翼的潮流は、『生前退位は国体の破壊につながる』『そのような事態には摂政の冊立(さくりつ)を以て切り抜けるのが最善だ、との結論になる」(産経新聞7月16日付)などと批判している。
 彼らはたとえ天皇の言であろうと彼らの気に食わない考えには平然と噛みつく。狙いは明治憲法の復活だからである。

 憲法第2条は「皇位は、世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」と定めている。従って生前退位は皇室典範の改正か特別法の制定が必要となる。
 いずれにしろ簡単な話ではないが、天皇のお気持ちにお応えできるよう努めるのが政治の果たす役割であろう。

最近の出来事

2016-08-07 20:33:25 | Weblog
2016.8.7(日)
 8月3日に第三次安倍第二次改造内閣の組閣が発足した。麻生太郎財務相、岸田文雄外務相、菅義偉官房長官、塩崎恭久厚労相など主要大臣を留任させたうえ、さらに安倍首相の側近をおおぜい取り込んだ改憲内閣となった。
 放送法を盾にテレビ各社を脅した高市早苗総務省を留任させるとともに安倍氏の一番の側近と言われる稲田朋美氏を防衛大臣に任命するなど安倍内閣の右傾化はとどまるところを知らない勢いである。また自転車事故で怪我をした谷垣氏に代わって安倍氏を支えてきた二階氏が幹事長に就任した。
 その前の7月31日には元横綱千代の富士の九重親方が61歳の若さで急逝した。
 また8月5日には南米最初のオリンピック・パラリンピックがブラジルのリオデジャネイロで開幕した。水泳の萩野公介が400Mメドレーで早くも金メダルを獲得した。ライバルの瀬戸大也は銅メダルだった。

東京都知事選 当選は小池百合子氏

2016-08-01 10:23:37 | Weblog
2016.8.1(月)
 舛添要一氏の辞職に伴う東京都知事選挙は31日投票、開票の結果、小池百合子氏(64)が他の有力候補、増田寛也氏、鳥越俊太郎氏の二人を大差で破って当選した。
 投票率は59.73%で、前回の46.14%を13.59%上回った。
 小池百合子 2,912,628
 増田 寛也 1,793,453
 鳥越俊太郎 1,346,103 

 小池氏はテレビキャスター出身で、1992年に日本新党から政界入りし、新進党、自由党、保守党を渡り歩き、2002年に自民党へ入党した経歴を持つ。小泉内閣で環境相、安倍内閣で防衛相を歴任した。05年の郵政選挙では造反組への〝刺客〞第1号として党の大勝に貢献したり、08年には党の総裁選に出馬したが麻生太郎氏に敗れた。目立ち屋で出世志向のある人のようだ。
 当初自民党の支持を要請したが、支持を得られずとも「崖から飛び降りる覚悟」で立候補に踏み切った。自民党都連や都議会のあり方を批判し、都議会の冒頭解散や利権チームの設置などを打ち出し、自民党とも対決する姿勢を見せた。この「孤軍奮闘」の姿勢が彼女の潔さをアピールし、有権者の共感を呼んだ、と見る。
 小池氏は崖から飛び降りても無事着地できたが、そこには東京都議会という伏魔殿が待ち構えている。選挙で反対勢力に回った自公の都議が過半数を占めている。差しあたっては4年後に迫っているオリンピック・パラリンピックがある。来年度の予算も自公の賛成なくして成立はできない。選挙で訴えた公約をどこまでやり通し、またどこで妥協するのか、小池氏のやり方に目が離せない。

 ところで接戦が期待されていた増田氏と鳥越氏の獲得票は予想以上に少なかった。増田氏は岩手県知事を務め又、自民党の総務大臣も務めた実績から「実務型」を売りに都政の安定を訴えたが、自公支持層の票をまとめきれなかった。
 また鳥越氏は出馬表明が告示の二日前と遅れ、後出しじゃんけんだと立ち上がりから批判された。野党4党の統一候補とはなったが、立候補の記者会見ではいかにも準備不足の感がぬぐえなかった。週刊文集と週刊新潮という『二大』週刊誌からそろって女性に対する過去の疑惑が報じられたことも大きく響いたに違いない。鳥越氏は全面否定しているが、「火のないところに煙は立たない」のたとえを有権者が信じてもおかしくない。それにしても鳥越氏の獲得票が小池氏の半分にも達しなかったのは意外であり、全く残念な結果である。

 話は全く異なるが、元横綱千代の富士の九重親方が31日午後5時11分、すい臓がんのため死去したことが報じられた。61歳の若さだった。31回の優勝、初の1000勝達成などの記録を持ち、89年には国民栄誉賞も受賞している。冥福を祈る。