■シューベルト「即興曲」Op90と、バッハ「マタイ受難曲」の知られざる関係■
09.8.9 中村洋子
★シューベルト(1797~1828)の「即興曲」Op90は、
4曲から、成ります。
有名なのは、2、4番ですが、全曲を通して勉強しますと、
2、4番の真価が、さらによく分かります。
★今回は、この4曲の調整の関係について、触れます。
調性は、1番「ハ短調」、2番「変ホ長調」、
3番「変ト長調」、4番「変イ長調」です。
★特に、1番と2番、2番と3番との関係は、次の通りです。
「1番の主音」の短3度上が、「2番の主音」、
「2番の主音」の短3度上が、「3番の主音」になっています。
★各曲は独立した曲ですが、全体を一つの曲として見た場合、
「1番から2番への転調」と、「2番から3番への転調」が、
極めて、似ています。
1番は「ハ短調」ですが、200小節目の3拍目から、
最後の204小節まで、同主長調の「ハ長調」に転調して、
曲を、閉じています。
★1番から2番は、「ハ長調から変イ長調」への、
転調となり、これは、短3度上の長調どうしで、
2番から3番への転調も、同じです。
★シューベルト以降、この「3度の関係の転調」が、頻繁に使われ、
ロマン派の転調の代表的なものと、考えられ勝ちですが、
実は、バッハが、その素晴らしい例をたくさん、
それ以前に、残しているのです。
★バッハ「マタイ受難曲」の第1曲目のコーラスは、
「ホ短調」で、始まりますが、終止音は、「ピカルディーの3度」
または、「ピカルディーのⅠの和音」
(短調の曲の終止和音の、第3音を半音高めることにより、
根音と第3音の音程が、長3度となり、終止和音も、長3和音となる)
を使い、「E - Gis - H」 の長3和音で、終わります。
第2番の開始和音は、「G - H - D」 の3和音で、
1番の曲から、場面転換し、「エヴァンゲリスト」が、
“Da Jesus diese Rede vollendet hatte” と、歌い始めます。
★この「E - Gis - H」と「G - H - D」の、2つの和音の関係は、
「E - Gis - H」の根音である、「E」の短3度上が、
「G - H - D」の根音である、「G」であり、
二つの和音は、長3和音です。
★この2つの和音を、ピアノなどで、弾いてください。
その後、シューベルト「即興曲」Op90の1番
「C - E - G」(C durの主和音)と、
2番の「Es - G - B」(Es durの主和音)の、
2つの和音も、弾いてみて下さい。
バッハの、先ほどの関係と、
全く同じであることが、実感できることでしょう。
★シューベルトやショパンが愛した、
この「3度の関係の転調」を、
バッハが、既に「マタイ受難曲」で、使っていることが、
お分かりいただける、と思います。
★シューベルトは、「即興曲」Op90を、
死の前年である、「1727年」に、作曲しています。
シューベルトとバッハの関係は、ほとんど語られていませんが、
シューベルトが、最も尊敬した作曲家「ベートーヴェン」が、
バッハを知悉しており、近年、モーツァルトも、受難曲を含む、
バッハのかなりの曲を、研究していたであろうことが、
明らかに、なりつつあります。
★メンデルスゾーン(1809~1845)は、
バッハ「マタイ受難曲」を、初演から、
「ほぼ100年後の1829年に再演した」と、されています。
★「マタイ受難曲」の初演は、1729年4月15日とされ、
作曲年は、はっきりしません。
メンデルスゾーン以前、バッハの息子たちなどにより、
部分的に、演奏はされていた、ようです。
1829年、メンデルスゾーンが、このマタイを大々的に
再演しましたが、この年は、
シューベルトの死から、2年たっています。
★メンデルスゾーンと「マタイ受難曲」の再演を計画し、自ら、
イエスを歌った、「エードゥアルト・デフリーント」によりますと、
1827年の冬から、再演計画が、もちあがっていたそうです。
さらに、遡りますと、
メンデルスゾーンは、既に1823年、クリスマスの贈り物として、
祖母「バベッテ・ザロモン」から、「マタイ受難曲」の
「筆写譜」を、既に、贈られています。
実に、彼が14歳の時で、シューベルトも、存命中でした。
★「マタイ受難曲 筆写譜」を、プレゼントした祖母の偉大な知性、
それを、読み解き、素晴らしさを完全に理解し、
再演したメンデルスゾーン、
祖母は、「何に本当の価値が在るか」、さらに、
「お金の本当の使い方」を知っていた女性、といえます。
★「マタイ受難曲」は、こんにち言われるように、
初演後、すっかり、忘れ去られていた訳ではなく、
音楽を、真に理解している人々により、脈々と、
伝えられていた、といえます。
あたかも、日本の「源氏物語」などが、手書きで写され、
読み継がれてきたのと、同じように、
この人類の宝を、手で筆写し続けた人々、
音楽を真に愛する人々がいたという、証拠ではないでしょうか。
★シューベルトが、「マタイ受難曲」を研究していたかどうかは、
資料がありませんが、シューベルトは、言われているほどは、
貧しくはなく、音楽教師だった父親の年収を、大きく上回る収入を、
出版社や、音楽会から得ており、
それだけで生活できた、最初の作曲家です。
一般的に言われている“貧しいシューベルト”は俗説でしょう。
従って、バッハなどの楽譜を、金銭的理由で見る機会がなかった、
とはいえないと、思われます。
★この「3度の転調」について、カワイ表参道で9月13日に開催します
「アナリーゼ講座」で、さらに、詳しく、ご説明いたします。
(アスパラガスの葉、檜扇水仙、五色蔦、矢羽根薄)
▼▲▽△無断での転載、引用は固くお断りいたします▽△▼▲
09.8.9 中村洋子
★シューベルト(1797~1828)の「即興曲」Op90は、
4曲から、成ります。
有名なのは、2、4番ですが、全曲を通して勉強しますと、
2、4番の真価が、さらによく分かります。
★今回は、この4曲の調整の関係について、触れます。
調性は、1番「ハ短調」、2番「変ホ長調」、
3番「変ト長調」、4番「変イ長調」です。
★特に、1番と2番、2番と3番との関係は、次の通りです。
「1番の主音」の短3度上が、「2番の主音」、
「2番の主音」の短3度上が、「3番の主音」になっています。
★各曲は独立した曲ですが、全体を一つの曲として見た場合、
「1番から2番への転調」と、「2番から3番への転調」が、
極めて、似ています。
1番は「ハ短調」ですが、200小節目の3拍目から、
最後の204小節まで、同主長調の「ハ長調」に転調して、
曲を、閉じています。
★1番から2番は、「ハ長調から変イ長調」への、
転調となり、これは、短3度上の長調どうしで、
2番から3番への転調も、同じです。
★シューベルト以降、この「3度の関係の転調」が、頻繁に使われ、
ロマン派の転調の代表的なものと、考えられ勝ちですが、
実は、バッハが、その素晴らしい例をたくさん、
それ以前に、残しているのです。
★バッハ「マタイ受難曲」の第1曲目のコーラスは、
「ホ短調」で、始まりますが、終止音は、「ピカルディーの3度」
または、「ピカルディーのⅠの和音」
(短調の曲の終止和音の、第3音を半音高めることにより、
根音と第3音の音程が、長3度となり、終止和音も、長3和音となる)
を使い、「E - Gis - H」 の長3和音で、終わります。
第2番の開始和音は、「G - H - D」 の3和音で、
1番の曲から、場面転換し、「エヴァンゲリスト」が、
“Da Jesus diese Rede vollendet hatte” と、歌い始めます。
★この「E - Gis - H」と「G - H - D」の、2つの和音の関係は、
「E - Gis - H」の根音である、「E」の短3度上が、
「G - H - D」の根音である、「G」であり、
二つの和音は、長3和音です。
★この2つの和音を、ピアノなどで、弾いてください。
その後、シューベルト「即興曲」Op90の1番
「C - E - G」(C durの主和音)と、
2番の「Es - G - B」(Es durの主和音)の、
2つの和音も、弾いてみて下さい。
バッハの、先ほどの関係と、
全く同じであることが、実感できることでしょう。
★シューベルトやショパンが愛した、
この「3度の関係の転調」を、
バッハが、既に「マタイ受難曲」で、使っていることが、
お分かりいただける、と思います。
★シューベルトは、「即興曲」Op90を、
死の前年である、「1727年」に、作曲しています。
シューベルトとバッハの関係は、ほとんど語られていませんが、
シューベルトが、最も尊敬した作曲家「ベートーヴェン」が、
バッハを知悉しており、近年、モーツァルトも、受難曲を含む、
バッハのかなりの曲を、研究していたであろうことが、
明らかに、なりつつあります。
★メンデルスゾーン(1809~1845)は、
バッハ「マタイ受難曲」を、初演から、
「ほぼ100年後の1829年に再演した」と、されています。
★「マタイ受難曲」の初演は、1729年4月15日とされ、
作曲年は、はっきりしません。
メンデルスゾーン以前、バッハの息子たちなどにより、
部分的に、演奏はされていた、ようです。
1829年、メンデルスゾーンが、このマタイを大々的に
再演しましたが、この年は、
シューベルトの死から、2年たっています。
★メンデルスゾーンと「マタイ受難曲」の再演を計画し、自ら、
イエスを歌った、「エードゥアルト・デフリーント」によりますと、
1827年の冬から、再演計画が、もちあがっていたそうです。
さらに、遡りますと、
メンデルスゾーンは、既に1823年、クリスマスの贈り物として、
祖母「バベッテ・ザロモン」から、「マタイ受難曲」の
「筆写譜」を、既に、贈られています。
実に、彼が14歳の時で、シューベルトも、存命中でした。
★「マタイ受難曲 筆写譜」を、プレゼントした祖母の偉大な知性、
それを、読み解き、素晴らしさを完全に理解し、
再演したメンデルスゾーン、
祖母は、「何に本当の価値が在るか」、さらに、
「お金の本当の使い方」を知っていた女性、といえます。
★「マタイ受難曲」は、こんにち言われるように、
初演後、すっかり、忘れ去られていた訳ではなく、
音楽を、真に理解している人々により、脈々と、
伝えられていた、といえます。
あたかも、日本の「源氏物語」などが、手書きで写され、
読み継がれてきたのと、同じように、
この人類の宝を、手で筆写し続けた人々、
音楽を真に愛する人々がいたという、証拠ではないでしょうか。
★シューベルトが、「マタイ受難曲」を研究していたかどうかは、
資料がありませんが、シューベルトは、言われているほどは、
貧しくはなく、音楽教師だった父親の年収を、大きく上回る収入を、
出版社や、音楽会から得ており、
それだけで生活できた、最初の作曲家です。
一般的に言われている“貧しいシューベルト”は俗説でしょう。
従って、バッハなどの楽譜を、金銭的理由で見る機会がなかった、
とはいえないと、思われます。
★この「3度の転調」について、カワイ表参道で9月13日に開催します
「アナリーゼ講座」で、さらに、詳しく、ご説明いたします。
(アスパラガスの葉、檜扇水仙、五色蔦、矢羽根薄)
▼▲▽△無断での転載、引用は固くお断りいたします▽△▼▲