■■リヒャルト・シュトラウスが手書きで写した、シューベルトのワルツ■■
09.8.23 中村洋子
★先週、急逝されましたヒルデガルト・ベーレンス先生を偲び、
悲しい、毎日です。
今回は、ベーレンス先生が、歌われたオペラ「サロメ」の
作曲家リヒャルト・シュトラウスと、シューベルトとの関係です。
★各国の、ベーレンス先生の追悼記事を読みますと、
「ワグナー歌手」と、紹介されていますが、
先生は、リートの演奏も、抜きん出ていました。
これから、おそらく、シュトラウスのリートなどを、
たくさん、歌われ、さらに充実した世界を、私たちに、
聴かせてくださるはずでした。
「残酷な運命」に、言葉もありません。
★シューベルト(1797~1828)の舞曲・レントラーと、
ブラームスとの関係については、8月15日のブログで、書きましたが、
リヒャルト・シュトラウスも、シューベルトを、
深く研究していたことを、証明する、
興味深い楽譜を、見つけました。
★これは、
「Universal Edition UE 14930 SCHUBERT KUPELWIESER - WALZER
D Anh.Ⅰ 214 aufgeschrieben von Richard Strauss」
クーペルヴィーザー ワルツ D Anh.(補遺)Ⅰ 214 」。
リヒャルト・シュトラウスが、1943年1月4日、ヴィーンで、
シューベルトのワルツを、手書きで、そのまま書き写した楽譜の、
ファクシミリ版と、通常の印刷譜の両方を収録した楽譜です。
★リヒャルト・シュトラウスの手書き譜には、
シュトラウス自身による、以下のような説明が、添えられています。
「1826年9月17日、シューベルトは、
彼の友人クーペルヴィーザーの、結婚に際し、この曲を作曲した。
この楽譜は、クーペルヴィーザー家に伝わっていた」。
★この曲は、32小節の大変に短い曲ですが、
「♭」を、6つもつ「変ト長調」の曲です。
「変ト長調」・・・と言いますと、何か思い出しませんか?
★シューベルトの「即興曲」 Op.90 の第3番「Andante」が、
同じ、「変ト長調」です。
この第3番は、1857年12月、シューベルトの死後、ほぼ30年後に
第4番と一緒に、やっと、出版されましたが、
「変ト長調」は難しいので、「♯」1つの「ト長調」に、
改竄されて、出版されました。
(ちなみに、この曲について、シューベルトはなにも、
命名していなかった、そうです)。
★何人かの方に、この即興曲を、「変ト長調」で弾いた後、
「ト長調」で、もう一度引き始め、反応を見てみましたところ、
一様に、「もうそれ以上、聴きたくない」という反応でした。
★柔らかく、暖かな「変ト長調」と、
「♯」により、導音の方向性を、常に意識させる、
はっきりとした性格の「ト長調」との違いを、体験するのに、
とてもいい教材、といえます。
★「クーペルヴィーザー ワルツ」は、冒頭に、
Ruhiges Walzertempo (落ち着いたワルツのテンポで)と、
シューベルトは記しています。
友人が、暖かい家庭を築くことを願って、作曲したのでしょう。
★しかし、24小節目で、突如、「♯」2つの調号をもつ、
「ロ短調」に、遠隔転調しています。
そして、すぐに、27小節目で、何事もなかったかのように、
主調の「変ト長調」に、復調しています。
これは、プレゼント用に片手間で書いたものではなく、
彼の“実験室”ともいえる、曲です。
★この転調や、最終の32小節目(ここからダカーポ)の和音などは、
その後の、ブラームスや、ヨハン・シュトラウス、
リヒャルト・シュトラウスに、つながる、
芸術作品としての舞曲やワルツの、「源流」と、
見て取ることが、できます。
このような小さな曲で、実験を重ね、翌1827年(?)に、
「Op.90」に、到達したのかもしれません。
★余談ですが、私が「 10 Duos fuer jungen cellisten 」を、
作曲しました折、「♭」4つの「変イ長調」を、弾き易い「♯」3つの、
「イ長調」に、変えたほうがいいかどうか、ベッチャー先生に、
ご相談しましたら、「断じて、変えるべきではない」というご返事。
★リヒャルト・シュトラウス(1864~1949)が、
このワルツを、手で写したのは、1943年、実に79歳のごろ。
功成り名を遂げた、晩年の頃です。
多分、クーペルヴィーザー家が所有していた、この楽譜を、
見た瞬間、その価値を読み取り、すばやく、
自ら手で書き写し、後世に残そうと、したのでしょう。
そして、彼の望みが、叶ったことになります。
★この手書き譜を、見ますと、その譜割りが、とても興味深いです。
23、24小節は「変ハ長調」で、
25、26小節は、「ロ短調」に転調し、同型反復しています。
シュトラウスは、それがよく分かるように、23小節目を、
5段目の冒頭に来るよう、譜割りをしています。
(シューベルトの原譜が、そうだったのかもしれませんが、
それは、見ることができませんので、不明です)
これが、印刷譜では、1段を4小節に、機械的に区切っていますから、
23小節目は、6段目の後半に、
25小節目は、7段目の前半に来ており、
2段に、分割されてしまいます。
★記譜一つを取っても、書き手の音楽的な力量が、
如実に、見て取れます。
これは、エキエルが校訂したショパンの楽譜にも、
逆の意味で、言えるかもしれませんね。
▼▲▽△無断での転載、引用は固くお断りいたします▽△▼▲
09.8.23 中村洋子
★先週、急逝されましたヒルデガルト・ベーレンス先生を偲び、
悲しい、毎日です。
今回は、ベーレンス先生が、歌われたオペラ「サロメ」の
作曲家リヒャルト・シュトラウスと、シューベルトとの関係です。
★各国の、ベーレンス先生の追悼記事を読みますと、
「ワグナー歌手」と、紹介されていますが、
先生は、リートの演奏も、抜きん出ていました。
これから、おそらく、シュトラウスのリートなどを、
たくさん、歌われ、さらに充実した世界を、私たちに、
聴かせてくださるはずでした。
「残酷な運命」に、言葉もありません。
★シューベルト(1797~1828)の舞曲・レントラーと、
ブラームスとの関係については、8月15日のブログで、書きましたが、
リヒャルト・シュトラウスも、シューベルトを、
深く研究していたことを、証明する、
興味深い楽譜を、見つけました。
★これは、
「Universal Edition UE 14930 SCHUBERT KUPELWIESER - WALZER
D Anh.Ⅰ 214 aufgeschrieben von Richard Strauss」
クーペルヴィーザー ワルツ D Anh.(補遺)Ⅰ 214 」。
リヒャルト・シュトラウスが、1943年1月4日、ヴィーンで、
シューベルトのワルツを、手書きで、そのまま書き写した楽譜の、
ファクシミリ版と、通常の印刷譜の両方を収録した楽譜です。
★リヒャルト・シュトラウスの手書き譜には、
シュトラウス自身による、以下のような説明が、添えられています。
「1826年9月17日、シューベルトは、
彼の友人クーペルヴィーザーの、結婚に際し、この曲を作曲した。
この楽譜は、クーペルヴィーザー家に伝わっていた」。
★この曲は、32小節の大変に短い曲ですが、
「♭」を、6つもつ「変ト長調」の曲です。
「変ト長調」・・・と言いますと、何か思い出しませんか?
★シューベルトの「即興曲」 Op.90 の第3番「Andante」が、
同じ、「変ト長調」です。
この第3番は、1857年12月、シューベルトの死後、ほぼ30年後に
第4番と一緒に、やっと、出版されましたが、
「変ト長調」は難しいので、「♯」1つの「ト長調」に、
改竄されて、出版されました。
(ちなみに、この曲について、シューベルトはなにも、
命名していなかった、そうです)。
★何人かの方に、この即興曲を、「変ト長調」で弾いた後、
「ト長調」で、もう一度引き始め、反応を見てみましたところ、
一様に、「もうそれ以上、聴きたくない」という反応でした。
★柔らかく、暖かな「変ト長調」と、
「♯」により、導音の方向性を、常に意識させる、
はっきりとした性格の「ト長調」との違いを、体験するのに、
とてもいい教材、といえます。
★「クーペルヴィーザー ワルツ」は、冒頭に、
Ruhiges Walzertempo (落ち着いたワルツのテンポで)と、
シューベルトは記しています。
友人が、暖かい家庭を築くことを願って、作曲したのでしょう。
★しかし、24小節目で、突如、「♯」2つの調号をもつ、
「ロ短調」に、遠隔転調しています。
そして、すぐに、27小節目で、何事もなかったかのように、
主調の「変ト長調」に、復調しています。
これは、プレゼント用に片手間で書いたものではなく、
彼の“実験室”ともいえる、曲です。
★この転調や、最終の32小節目(ここからダカーポ)の和音などは、
その後の、ブラームスや、ヨハン・シュトラウス、
リヒャルト・シュトラウスに、つながる、
芸術作品としての舞曲やワルツの、「源流」と、
見て取ることが、できます。
このような小さな曲で、実験を重ね、翌1827年(?)に、
「Op.90」に、到達したのかもしれません。
★余談ですが、私が「 10 Duos fuer jungen cellisten 」を、
作曲しました折、「♭」4つの「変イ長調」を、弾き易い「♯」3つの、
「イ長調」に、変えたほうがいいかどうか、ベッチャー先生に、
ご相談しましたら、「断じて、変えるべきではない」というご返事。
★リヒャルト・シュトラウス(1864~1949)が、
このワルツを、手で写したのは、1943年、実に79歳のごろ。
功成り名を遂げた、晩年の頃です。
多分、クーペルヴィーザー家が所有していた、この楽譜を、
見た瞬間、その価値を読み取り、すばやく、
自ら手で書き写し、後世に残そうと、したのでしょう。
そして、彼の望みが、叶ったことになります。
★この手書き譜を、見ますと、その譜割りが、とても興味深いです。
23、24小節は「変ハ長調」で、
25、26小節は、「ロ短調」に転調し、同型反復しています。
シュトラウスは、それがよく分かるように、23小節目を、
5段目の冒頭に来るよう、譜割りをしています。
(シューベルトの原譜が、そうだったのかもしれませんが、
それは、見ることができませんので、不明です)
これが、印刷譜では、1段を4小節に、機械的に区切っていますから、
23小節目は、6段目の後半に、
25小節目は、7段目の前半に来ており、
2段に、分割されてしまいます。
★記譜一つを取っても、書き手の音楽的な力量が、
如実に、見て取れます。
これは、エキエルが校訂したショパンの楽譜にも、
逆の意味で、言えるかもしれませんね。
▼▲▽△無断での転載、引用は固くお断りいたします▽△▼▲