■ 新春 能狂言 山本東次郎 能 バッハ ■
09.1.2 中村洋子
★新年の2日は、早起きをして、午前7時からNHK教育テレビで、
「新春 能狂言」 狂言・大蔵流「煎物」山本東次郎 を見ました。
東次郎さんの演技は、いつもながらの至芸でした。
能狂言界に、東次郎さんが存在されていることは、
私たちの誇りです。
★能狂言界の、至宝といいますと、昨年亡くなられた
お笛の一噌流・藤田大五郎さんが、いらっしゃいました。
私は、能楽堂で何度か、拝聴したことがあります。
その音といい、リズム感といい、群を抜いていました。
いま人気がある、囃子のスタープレーヤーたちによる、
どぎつく、迫力を見せつけるだけのエンターテインメント的な
演奏とは懸け離れた、本当の芸術家でした。
★これは、クラシック界でも同じ現象が見受けられます。
藤田大五郎さんの、芸術への取り組み方と、
人気を博している演奏家のそれとが、どう違うか、なぜ違うのか、
手にとるように、分かります。
★クラシックの例でいいますと、経験も少なく、
和声や対位法の理解も、あやふやな弦楽器奏者が、
素敵なファッションに身を包み、
弓をアクロバティックに、かっこよく、大袈裟に操って、
バッハの大曲を、臆面もなく演奏し、
それに、聴衆が喝采を送るのと、似ています。
★昨年は、加藤周一さんといい、藤田大五郎さんといい、
“日本の巨星墜つ”という、出来事がありながら、
テレビが、大々的に追悼したのは、演歌の作曲家でした。
★藤田大五郎さんの名演は、いくつかのCDで聴くことができます。
「観世流 舞囃子(四)」NC-55020 制作(有)能楽名盤会、
定価 3500円、入手がかなり難しいCDですので、
檜書店=千代田区神田小川町2-1 電話03・3291・2488 または、
国立能楽堂での観世流、金剛流の公演で、ロビー出店にて購入可能です。
★12月の「ショパン・バラード1番アナリーゼ講座」で、
ショパンが、バッハから受けた影響について、具体的に、
いくつか、お話いたしました。
バッハの音楽には、キリストが十字架を背負って、
よろめきながら、歩いていく情景を模したような
特定なモティーフ(音型)が、あります。
★その音型を、実はシューベルトも、「即興曲」で、
悲しみの表現として、使っています。
さらに、バッハとシューベルトを尊敬し、
終生、研究をしていたショパンは、
バラードの1番で、「嘆き、悲しみ」の表現として、
この音型を、使っています。
★随分前になりますが、私は平成16年(2004年)、
月刊誌「観世」7月号の、巻頭随筆として
「シテとワキとの照応は、フーガにも似る」を書きました。
★能「井筒」のシテとワキの関係を、
フーガの主題と対主題に、なぞらえ、
主題と対主題が、シテとワキと同様に、
お互いに補完し合う関係にあることを、書きました。
★「平均律クラヴィーア曲集第1巻」最後の
「24番フーガ」のテーマ(主題)は、
重い十字架を背負ったイエスが、ゴルゴダの丘を、
よろめき、つまずき、喘ぎながら上っていく様、
その動きを、表現しています。
バッハは、平均律で唯一、24番だけ演奏速度を指定しています。
フーガは、「ラルゴ」つまり、「ごくゆっくり」です。
キリストの歩みと、重なります。
★対主題は、静かに寄り添うように、目立たず、
順次進行していきます。
しかし、対主題の出現により、主題の全体像、つまり、
構成和音、調性などが明らかになり、
リズムが、補完されていくのです。
★「井筒」は、観世寿夫さんがシテを演じた
名演のビデオ(1977年)を、見ました。
能面「増女」の、やわらかい眼差し。
最愛の人への、絶ゆることなき追憶、
それにひたる幸福感、
人間のもつ、最も美しい一面を、
これほどやさしく讃えるお顔はない、と思われます。
★「暁毎の閼伽の水・・・」
聴く者の全霊を、まだ見ぬ深淵へと引き込み、
その魂をあらゆる桎梏から、解き放ち、
救済してくれるかのような、寿夫さんの謡。
一瞬、一瞬に永遠の均衡、力、美が宿る寿夫さんの動き・・・。
見終わるたびに、ぐったりとしている自分に気付きます。
シテとともに、歩み、謡い、舞ったかのような高揚感。
まさに、芸の極致です。
★しかし、その名演が、歴史的名演たり得るのは、
ワキの宝生閑さんの、存在があってこそなのです。
「井筒」で、シテの正体が「有常の娘」であることを、
暴くのは、「旅の僧」のワキです。
つまり、補完する対主題です。
★人類永遠の芸術である「バッハ」と「能」。
尽きぬ感動を呼ぶのは、ともに普遍的な様式を、
根底に持つからでしょう。
▼▲▽△無断での転載、引用は固くお断りいたします▽△▼▲
09.1.2 中村洋子
★新年の2日は、早起きをして、午前7時からNHK教育テレビで、
「新春 能狂言」 狂言・大蔵流「煎物」山本東次郎 を見ました。
東次郎さんの演技は、いつもながらの至芸でした。
能狂言界に、東次郎さんが存在されていることは、
私たちの誇りです。
★能狂言界の、至宝といいますと、昨年亡くなられた
お笛の一噌流・藤田大五郎さんが、いらっしゃいました。
私は、能楽堂で何度か、拝聴したことがあります。
その音といい、リズム感といい、群を抜いていました。
いま人気がある、囃子のスタープレーヤーたちによる、
どぎつく、迫力を見せつけるだけのエンターテインメント的な
演奏とは懸け離れた、本当の芸術家でした。
★これは、クラシック界でも同じ現象が見受けられます。
藤田大五郎さんの、芸術への取り組み方と、
人気を博している演奏家のそれとが、どう違うか、なぜ違うのか、
手にとるように、分かります。
★クラシックの例でいいますと、経験も少なく、
和声や対位法の理解も、あやふやな弦楽器奏者が、
素敵なファッションに身を包み、
弓をアクロバティックに、かっこよく、大袈裟に操って、
バッハの大曲を、臆面もなく演奏し、
それに、聴衆が喝采を送るのと、似ています。
★昨年は、加藤周一さんといい、藤田大五郎さんといい、
“日本の巨星墜つ”という、出来事がありながら、
テレビが、大々的に追悼したのは、演歌の作曲家でした。
★藤田大五郎さんの名演は、いくつかのCDで聴くことができます。
「観世流 舞囃子(四)」NC-55020 制作(有)能楽名盤会、
定価 3500円、入手がかなり難しいCDですので、
檜書店=千代田区神田小川町2-1 電話03・3291・2488 または、
国立能楽堂での観世流、金剛流の公演で、ロビー出店にて購入可能です。
★12月の「ショパン・バラード1番アナリーゼ講座」で、
ショパンが、バッハから受けた影響について、具体的に、
いくつか、お話いたしました。
バッハの音楽には、キリストが十字架を背負って、
よろめきながら、歩いていく情景を模したような
特定なモティーフ(音型)が、あります。
★その音型を、実はシューベルトも、「即興曲」で、
悲しみの表現として、使っています。
さらに、バッハとシューベルトを尊敬し、
終生、研究をしていたショパンは、
バラードの1番で、「嘆き、悲しみ」の表現として、
この音型を、使っています。
★随分前になりますが、私は平成16年(2004年)、
月刊誌「観世」7月号の、巻頭随筆として
「シテとワキとの照応は、フーガにも似る」を書きました。
★能「井筒」のシテとワキの関係を、
フーガの主題と対主題に、なぞらえ、
主題と対主題が、シテとワキと同様に、
お互いに補完し合う関係にあることを、書きました。
★「平均律クラヴィーア曲集第1巻」最後の
「24番フーガ」のテーマ(主題)は、
重い十字架を背負ったイエスが、ゴルゴダの丘を、
よろめき、つまずき、喘ぎながら上っていく様、
その動きを、表現しています。
バッハは、平均律で唯一、24番だけ演奏速度を指定しています。
フーガは、「ラルゴ」つまり、「ごくゆっくり」です。
キリストの歩みと、重なります。
★対主題は、静かに寄り添うように、目立たず、
順次進行していきます。
しかし、対主題の出現により、主題の全体像、つまり、
構成和音、調性などが明らかになり、
リズムが、補完されていくのです。
★「井筒」は、観世寿夫さんがシテを演じた
名演のビデオ(1977年)を、見ました。
能面「増女」の、やわらかい眼差し。
最愛の人への、絶ゆることなき追憶、
それにひたる幸福感、
人間のもつ、最も美しい一面を、
これほどやさしく讃えるお顔はない、と思われます。
★「暁毎の閼伽の水・・・」
聴く者の全霊を、まだ見ぬ深淵へと引き込み、
その魂をあらゆる桎梏から、解き放ち、
救済してくれるかのような、寿夫さんの謡。
一瞬、一瞬に永遠の均衡、力、美が宿る寿夫さんの動き・・・。
見終わるたびに、ぐったりとしている自分に気付きます。
シテとともに、歩み、謡い、舞ったかのような高揚感。
まさに、芸の極致です。
★しかし、その名演が、歴史的名演たり得るのは、
ワキの宝生閑さんの、存在があってこそなのです。
「井筒」で、シテの正体が「有常の娘」であることを、
暴くのは、「旅の僧」のワキです。
つまり、補完する対主題です。
★人類永遠の芸術である「バッハ」と「能」。
尽きぬ感動を呼ぶのは、ともに普遍的な様式を、
根底に持つからでしょう。
▼▲▽△無断での転載、引用は固くお断りいたします▽△▼▲