音楽の大福帳

Yoko Nakamura, 作曲家・中村洋子から、音楽を愛する皆さまへ

■江原昭善先生の「自然人類学者の独り言」と、バッハの「手稿譜」■

2009-06-21 02:04:08 | ■私のアナリーゼ講座■
■江原昭善先生の「自然人類学者の独り言」と、バッハの「手稿譜」■
                      09.6.21 中村洋子


★本日は 6月21日、「夏至」です。

ベルリン時間の20日午後8時は、ベッチャー先生が、

私の作品を、弾いてくださる時間です。

日本時間では、21日 午前4時 に相当します。

ドイツの音楽会は、ほとんど午後8時開演と、

日本より、遅めです。


★先生は、ご自身の音楽活動を、

姉でピアニスト、オルガニストの、

ウルズラ・トレーデ=ベッチャーさんとの、

二重奏から、始められました。

毎年、デュオリサイタルを、続けていらます。


★ことしは、ベートーヴェン、シューマン、ブリテンと、

私の「無伴奏チェロ組曲」ですが、

去年のプログラムも、送ってくださいました。

ドイツのチェロリサイタルが、どのような曲目で、

構成されているか、興味をもたれる方も多いと、

思われますので、ご紹介いたします。


★Wolfgang Boettcher Violoncello

  Ursula Trede-Boettcher Klavier

・ Ludwig van Beethoven, Sonata op.5,Nr. 2 in g-moll

・ Paul Hindemith,3 Stuecke op.8

・ Debussy, Cellosonate

・ Feruccio Busoni, Variationen ueber das finn.
   Thema Kultaselle

・ Max Reger, Adagio aus Sonate op.116

        30. Mai 2008 ・20.00 Uhr


★堂々とした、このプログラムは、

耳ざわりのいい曲だけを並べた、日本のプログラムとは、

ずいぶんと異なっていると、お感じになるでしょう。


★私の「無伴奏チェロ組曲」が、2007年6月7日、

ベルリン市庁舎大広間での、

「フンボルト財団」の記念式典

≪Zukunftsmodell Humboldt≫で、

ベッチャー先生によって初演された、ということが、

取りもつご縁から、素晴らしい方と

お知り合いになりましたので、ご紹介いたします。


★自然人類学の江原昭善先生です。

江原先生は、私のCD「W.ベッチャー 日本を弾く」を紹介した

中日新聞の記事をご覧になり、ご連絡をくださいました。

その後は、お手紙や電話で、実り多いお付き合いを、

させて頂いております。

ご著書もたくさんお送りくださり、ポンと、膝を打つような、

先生の慧眼に、いつも驚かされています。

また、先生は、自然人類学の観点から、私の作曲活動にも、

ご興味を、もたれているようです。


★先生は、「フンボルト財団」により、西ドイツに留学されました。

キール大学客員教授、ゲッティンゲン大学客員教授、

京都大学霊長類研究所教授、椙山学園大学学長などを歴任。

京都大名誉教授で、理学博士、医学博士。


★私が感銘を受けました著書は、

「人間はなぜ人間か」(雄山閣出版)、

「稜線に立つホモ・サピエンス」(京都大学学術出版会)などです。


★先日、先生の近著をお送りいただきました。

共著ですが、「科学技術を人間学から問う」(学文社)のなかの、

「自然人類学者の独り言」です。


★先生の文章は、簡潔で、分かりやすく、軽妙、

一度読めば、何の抵抗もなく、頭に染み入るように入ります。

つまり、名文です。


★「独り言」のなかで、特に、私が感動した章を、ご紹介します。

【研究室での不思議な体験】

 ドイツで研究に従事していたある日のこと。
すぐ傍の大きな机の上には、いつも、サルの頭骨が
100個ほどずらりと並んでいた。
同僚たちと、議論やよもやま話に花を咲かせるときも、
この机の前。
暇さえあれば、これらのサルの頭骨を眺めて、
気がついたことがあれば、それをメモに書き留めた。
 
 半年も続いたそんなある日のこと。
眼窩(眼球が収まる穴)の外縁部に
毛より細い一本の線が走っているのに気がついた。
その線の外側と内側では、骨の繊維の走り方が微妙に違う。
他の種類のサルでもヒトでも、やはりその線が認められる。
そのつもりで見ないと、見ても見えない特徴だった。
 
 このとき以来、筆者の骨を見る目は変わった。
「どのような特徴か」だけでなく、
「どのような意味が隠れているか」を読み取るようになったのだ。
だから形態学はおもしろい。
カントは哲学を感じ取り、
ゲーテは自然の秩序や神の意思を読み取り、
ダーウィン以後の形態学者は、進化の微妙なメカニズムや
道すじを理解するようになった。
 
 その骨は、持ち主が骨になるまで間違いなく生きていた。
そして生まれてから死ぬまでの間の生活が
微妙に骨に刻み込まれている。
その意味を探るのが形態学だ。
 
 ある日、いつものように、頭骨の特徴をメモしていた。
どういうわけが、面白いように、骨は語りかけてくる。
あっという間に何ページもの記録になった。
翌朝、この記録を片手にもう一度、同じ頭骨から
直接にその特徴を読み始めた。
ところが不思議なことに、
同じ頭骨なのにメモのようには見えてこない。
時間をおいて、また眺めてみた。
繰り返すうちに、
やっとメモが正確であることを知った。
同じ特徴が、まるでだまし絵のように
見えたり見えなかったりしたのだ。
 
 後に画家の友人に、この不思議な体験を話した。
友人は驚いて、「絵を描くときも同じだ。
同じ風景が、見えたり見えなかったりするんだ」。
このような体験を繰り返しているうちに、
骨を見る目がいつしか、一定したものに落ち着いてきた。
どの骨を見ても驚かなくなった。
「骨が理解できる」という自信だ。
科学の世界でもこのような非合理な次元があることを知った。
恐らく絵や彫刻や音楽や芸能の世界でも
同じではないだろうか。


★サルの頭骨を、半年の間、眺め続けるという、

忍耐強い、知的営み。

その結果、ある特定の部位での、表面の微妙な形状から、

サルの進化のメカニズム、道筋までを、

読み取ることが、できるようになる。

「眺め続ける」という行為から、学問的方法論まで、

導き出されています。


★同じことが、音楽の世界でも言えると、思います。

「バッハ」でも「ショパン」でも、作曲家の手稿譜は、

江原先生のように、“見る目”がありませんと、

何も見えてきません。

それも、毎日、見て考え続けないと、

分かるようには、ならないのです。


★例えば、バッハの「シンフォニア 11番」の、

第1小節目の上声の「 レ シ♭ ソ ソ 」を、見てみます。

この部分の手稿譜は、現代の楽譜で用いられている

「大譜表」の「ト音記号」ではなく、

「ソプラノ記号」で、書かれています。

このため、5線譜上では、第5線(レ)、第4線(シ♭)、第3線(ソ)、

上第2間(ソ)と、なります。


★「第3線より上の音符の符尾は、下向きにする」という、

一般的な記譜の約束に従えば、この4つの音の符尾は、

すべて、「下向き」となるのが、当然です。

しかし、バッハ手稿譜では、この4つの音について、

最初の 「レ シ♭ ソ 」を「上向き」にしています。

最後の 「ソ」だけが「下向き」になっています。

≪なぜ、バッハがそのような変則的な記譜をしたのか?≫。


★音楽学者の先生が、おっしゃるように、

“スペースがなかったから、バッハがそのように書いた“とは、

とうてい、考えられません。

毎日、手稿譜を見て、弾いておりますと、バッハの意図と、

音楽の大きな骨格が、手にとるように、分かってきます。


★23日の「インヴェンション講座」では、

この≪なぜ・・・≫の、謎解きについて、

私が見て、感じ取ったことを、お話したいと、思います。


                         (梔子の蕾)
▼▲▽△無断での転載、引用は固くお断りいたします▽△▼▲
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