音楽の大福帳

Yoko Nakamura, 作曲家・中村洋子から、音楽を愛する皆さまへ

■ 芭蕉の 「 奥の細道 」 自筆は、 Bachの自筆譜に通じる ■

2011-11-10 00:19:20 | ■楽しいやら、悲しいやら色々なお話■

■ 芭蕉の 「 奥の細道 」 自筆は、 Bachの自筆譜に通じる ■
                                         2011. 11. 10   中村洋子

 

                            ( 錦木の実 )

 

★昨日は、毎月1~2回、水曜日午前に 「 カワイ表参道 」 で開きます

「 アナリーゼ教室 」 の日でしたが、風邪がなかなか抜けず、

残念ながら、延期させていただきました。


★寝ながら、松尾芭蕉(1644年~1694)自筆の、

「 奥の細道 」 を、眺めておりました。

この自筆は1996年に、発見され、現在はファクシミリ版として、

出版されております。


★自筆 「 奥の細道 」 を、購入しましたのは、

珍しい貴重な本という、単純な理由でした。

しかし、Johann Sebastian Bach  バッハ  ( 1685~1750 ) と、

重なる時代に生きた芭蕉(1644年~1694)の自筆を、

眺めておりますと、ハッと驚くような発見が、ありました。

 

                              ( お茶の花 )

 

★ “芭蕉の自筆 「 奥の細道 」 は、まるで、Bach の自筆譜と同じ!!“、

自筆譜から、Bach を深く理解できたときと、同じような、

深い感動と驚きを、体験しました。


★ 「 奥の細道 」 の冒頭を、自筆通りに、写してみます。

現在、流布しています出版本とは、いろいろ異なっています。

きっと、驚かれることでしょう。


★ 月日は百代の過客にして行きかふ

   も又 旅人也舟の上に生涯

    をうかへ馬の口とらへてをむ

    かふるものは日々旅にして

    を栖とす古人も多く

    せるありいつれのよりか

    片雲の風にさそはれて

    のおもひやます海浜にさすらへ

    て去年の秋江上破屋に

    蜘蛛の古巣をはらひてやゝ

    年も暮春改れは霞の空に

    白川の関こえむとそゝろかみ

    の物に付てこゝろをくるはせ
                 (一頁  )


★私はこれまで、冒頭の有名な文について、

「 行かふ年 」 とつながるものと、思っていました。

音楽でいう 「 1小節 」 です。

しかし、芭蕉は 「 行かふ 」 で、行を閉じています。

句読点がない文章ですので、いろいろな解釈が可能ですが、

私は、ここで、芭蕉が意図的に、敢えて、

 「 行かふ年 」 にしなかった、と思います。


★通常の 「 奥の細道 」 、例えば、この自筆版の後半には、

現代語版が掲載され、そこでは、

≪ 月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。 ≫

と、あります。

≪ 行かふ年も又旅人也。≫と、

「 行かふ 」 を、「 年 」 という名詞にかかる形容詞のように、

扱っています。


★自筆本の ≪ にして行かふ ≫ の部分を、つぶさに眺めますと、

初稿の上に、≪ にして行かふ ≫ と書いた紙を貼った跡が、

明白に、見えます。

芭蕉は、推敲熟考したうえで、手直しをしたのでしょう。

最初は、≪ にして行かふ年 ≫ であったのかも、しれません。

 

 ★「 行かふ 」 を、「 年 」 の ≪ Auftakt アウフタクト ≫ と、

みるならば、 Bach が1小節の途中で、段落を変え、

小節を切断しているのと、全く同じ手法です。

 

                                      ( お茶の蕾 )


★自筆を、俯瞰的に眺めてみますと、

1行目の冒頭  「 月日 」  、 2行目の冒頭  「 年 」  という、

≪ 時 ≫ という観念に関する漢字が、力強く、飛びこんできます。

そして、2行目末の  「 生涯 」  という、一人の人間の、

持ち時間である言葉と、呼応しています。


★3、4行目は、 「・・・馬の口とらへて老をむかふる・・・」 と、

情景が目に浮かぶような描写、見事な文です。

1、2行目の、緊迫した抽象文から、具体的な世界に、

転じています。


★例えれば、1、2行は、 Bach のフーガの 「 主題第 1提示部 」 、

3、4行は 「 嬉遊部  Divertissement 」 でしょうか。


★5、6、7行目の最初の文字も、漢字で揃えています。

「 旅 」、 「 死 」、 「 片雲 」 。

張りつめた、冷徹な、ある意味で達観した世界観がにじみます。

5、6、7行目の行末は、

 「 旅 」、 「 年 」 、 「 漂泊 」。

文頭の 「 旅 」、 「 死 」、 「 片雲 」 と、絶妙に呼応しています。

これらの語に、芭蕉の追求した世界が凝縮されているのでしょう。

まるで、 Bach の偉大なフーガの 「 開始部 」 に、そっくりです。

 

 


★音楽も文学も、ある作家の 「 研究 」 を、

生業とする 「 学者 」 が、介在しますと、

作曲者や作家が、心の底から叫び、最も伝えたい肉声が、

瑣末な煩瑣な考証により、かえって、

聞こえなくなったりすることが、往々にして、あるようですね。


★このブログでは、 Bach の自筆譜の重要性を、

繰り返し、繰り返し、指摘してきました。

風邪がきっかけで、芭蕉の自筆を眺めながら、

あらためて、芸術作品を理解し、親しむためには、

まず、何よりも、可能な限り、

芸術家の書いた自筆そのものに、自ら迫る努力が、

必要である、と実感しました。

 

 


★水曜日の11時から13時までの、「アナリーゼ教室」は、

少人数ですので、参加者の意見や感想もその場で、

取り入れながら、レッスン内容に反映できます。

ご意見に触発されて、新しい発見をすることもよくあり、

とても、楽しいひと時です。


★現在は、 Robert Schumann  ロベルト・シューマン (1810~1856) の、

「 Dichterliebe 詩人の恋」 を、自筆譜を基に、1曲ずつ、

ゆっくり進む一方、並行して、 Bach の「Concerto nach

Italienischem Gusto イタリア協奏曲 」 を、

Bach 生存中に出版された 「 初版譜 」 と、

Edwin Fischer  エドウィン・フィッシャー の、

校訂版を比較しながら、少しずつ、読み解いております。

 

                                        ( ムカゴの実 )

 
                                    ※copyright © Yoko Nakamura
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