■第10回 インヴェンション・アナリーゼ講座を開催しました、
バッハの鳥の目、虫の目■
09.5.21 中村洋子
★東京でも、遂に“豚インフルエンザ”の罹患者が発生しました。
カワイ表参道「第10回 インヴェンション講座」への、
皆さまのお出かけを、懸念いたしましたが、
いつもどおり、熱心な皆さまに、たくさん参加していただきました。
このブログをご覧になって、初参加の方も、いらっしゃいました。
★インヴェンションは序文に、「1723年」と記されています。
「フリーデマン・バッハのためのクラヴィーア小曲集」には、
「インヴェンション」の曲の大半が、「初稿」として、
収録されています。
この小曲集は「1720年」ころ、作曲されたとみられます。
しかし、「インヴェンション」は、「フリーデマン版」より、
内容的に、極めて、深くなっています。
★1723年までの「3年間」に、バッハが、どこを推敲し、
書き改めたか、その部分を、具体的に指摘しながら、
推敲の結果、どのように内容が深まり、飛躍していったか、
詳しく、解説いたしました。
★さらに、インヴェンションと、同時期に作曲された
「フランス組曲」や、バッハ自身による1723年の
「インヴェンション手稿譜」を、じっくり比較することにより、
演奏する際、「どこで、フレーズを区切るか」が、
自ずと分かってくる、ということも、お話いたしました。
★また、“フリーデマン版”に加えられた推敲を、分析することで、
「テーマの性格を、どう表現するか」が、≪大きく変化していた≫、
ということも、調性や、和声、非和声音などを、比べながら、
詳しく、ご説明いたしました。
★バッハを演奏するには、“鳥の目”のように、
大きく、全体像と骨格を捉えることのほかに、
細かく、アーティキュレーションを決定する“虫の目”の、
両方の目を、備える必要があります。
“虫の目”で見るには、上記のような、異なるエディションの、
比較研究、テキストクリティックが、欠かせません。
★しかし、1723年版のバッハの手稿譜で、インヴェンションが、
“成長する”ことを、止めたわけではありません。
1725年の、バッハの弟子「ゲルバー」の手稿譜に、
バッハ自身が、装飾音を書き加えた楽譜を、
さらに、研究しますと、
インヴェンションは、バッハのなかで、完成することなく、
絶えず、成長し続けていた、とみるのが妥当です。
★これは、どのエディションがいいか、絶えず問題となる
「ショパン」にも、全く同じことが指摘できます。
その理由は、バッハ、ショパンともに、
「超一流の教育者」でもあった、からです。
生徒に教えながら、いつも、その生徒の能力に合わせ、
新たな可能性を、発見し、書き加え続けていたからです。
その結果、そこで、また、新たな「版」が、生まれてきます。
★21世紀の現在でも、バッハやショパンの作品は、
演奏する人、聴く人の心の中で、
成長し続けているのです。
≪この楽譜以外は、駄目である≫ということは、ないのです。
★「フリーデマン版」のインヴェンション初稿の、順番が、
現在のインヴェンションの順番とは、大きく異なっています。
これを“やさしい曲から難しい曲の順に並べた”と、解説する
日本の楽譜もありますが、そうではないと、私は思います。
★バッハの長男フリーデマンは当時、既に10歳ぐらいで、
後年、お父さんに及ばないまでも、大作曲家になった人物です。
幼少時から、大バッハに手塩に掛けて、教育されたわけですから、
10歳ならば既に、高いレベルに達していたことは、容易に想像できます。
インヴェンションの初稿を、“やさしい順に一曲ずつ、勉強していった”
とは、とうてい考えられません。
★この「フリーデマン版」での、曲の並べ方と、
3年後の、「インヴェンション」での並べ方とを、
比較しますと、この3年間に、
バッハがいかに、飛躍的に「曲集」に対する考え方を、
深化、発展させているか、感慨を禁じえません。
★この「飛躍、深化」が、「変奏曲形式」と密接に関係し、
ここから、ベートーヴェン、ブラームスの「変奏曲」が生まれ出た、
と、言うことができます。
つまり、ベートーヴェンやブラームスは、このインヴェンションを
徹底的に学び尽くし、創作の源泉としていたのです。
★次回の第11回 インヴェンション講座 (6 月23日火曜日)では、
インヴェンション11番を素材に、
ブラームスの作曲法についても、触れてみたいと、思います。
(菖蒲の花)
▼▲▽△無断での転載、引用は固くお断りいたします▽△▼▲
バッハの鳥の目、虫の目■
09.5.21 中村洋子
★東京でも、遂に“豚インフルエンザ”の罹患者が発生しました。
カワイ表参道「第10回 インヴェンション講座」への、
皆さまのお出かけを、懸念いたしましたが、
いつもどおり、熱心な皆さまに、たくさん参加していただきました。
このブログをご覧になって、初参加の方も、いらっしゃいました。
★インヴェンションは序文に、「1723年」と記されています。
「フリーデマン・バッハのためのクラヴィーア小曲集」には、
「インヴェンション」の曲の大半が、「初稿」として、
収録されています。
この小曲集は「1720年」ころ、作曲されたとみられます。
しかし、「インヴェンション」は、「フリーデマン版」より、
内容的に、極めて、深くなっています。
★1723年までの「3年間」に、バッハが、どこを推敲し、
書き改めたか、その部分を、具体的に指摘しながら、
推敲の結果、どのように内容が深まり、飛躍していったか、
詳しく、解説いたしました。
★さらに、インヴェンションと、同時期に作曲された
「フランス組曲」や、バッハ自身による1723年の
「インヴェンション手稿譜」を、じっくり比較することにより、
演奏する際、「どこで、フレーズを区切るか」が、
自ずと分かってくる、ということも、お話いたしました。
★また、“フリーデマン版”に加えられた推敲を、分析することで、
「テーマの性格を、どう表現するか」が、≪大きく変化していた≫、
ということも、調性や、和声、非和声音などを、比べながら、
詳しく、ご説明いたしました。
★バッハを演奏するには、“鳥の目”のように、
大きく、全体像と骨格を捉えることのほかに、
細かく、アーティキュレーションを決定する“虫の目”の、
両方の目を、備える必要があります。
“虫の目”で見るには、上記のような、異なるエディションの、
比較研究、テキストクリティックが、欠かせません。
★しかし、1723年版のバッハの手稿譜で、インヴェンションが、
“成長する”ことを、止めたわけではありません。
1725年の、バッハの弟子「ゲルバー」の手稿譜に、
バッハ自身が、装飾音を書き加えた楽譜を、
さらに、研究しますと、
インヴェンションは、バッハのなかで、完成することなく、
絶えず、成長し続けていた、とみるのが妥当です。
★これは、どのエディションがいいか、絶えず問題となる
「ショパン」にも、全く同じことが指摘できます。
その理由は、バッハ、ショパンともに、
「超一流の教育者」でもあった、からです。
生徒に教えながら、いつも、その生徒の能力に合わせ、
新たな可能性を、発見し、書き加え続けていたからです。
その結果、そこで、また、新たな「版」が、生まれてきます。
★21世紀の現在でも、バッハやショパンの作品は、
演奏する人、聴く人の心の中で、
成長し続けているのです。
≪この楽譜以外は、駄目である≫ということは、ないのです。
★「フリーデマン版」のインヴェンション初稿の、順番が、
現在のインヴェンションの順番とは、大きく異なっています。
これを“やさしい曲から難しい曲の順に並べた”と、解説する
日本の楽譜もありますが、そうではないと、私は思います。
★バッハの長男フリーデマンは当時、既に10歳ぐらいで、
後年、お父さんに及ばないまでも、大作曲家になった人物です。
幼少時から、大バッハに手塩に掛けて、教育されたわけですから、
10歳ならば既に、高いレベルに達していたことは、容易に想像できます。
インヴェンションの初稿を、“やさしい順に一曲ずつ、勉強していった”
とは、とうてい考えられません。
★この「フリーデマン版」での、曲の並べ方と、
3年後の、「インヴェンション」での並べ方とを、
比較しますと、この3年間に、
バッハがいかに、飛躍的に「曲集」に対する考え方を、
深化、発展させているか、感慨を禁じえません。
★この「飛躍、深化」が、「変奏曲形式」と密接に関係し、
ここから、ベートーヴェン、ブラームスの「変奏曲」が生まれ出た、
と、言うことができます。
つまり、ベートーヴェンやブラームスは、このインヴェンションを
徹底的に学び尽くし、創作の源泉としていたのです。
★次回の第11回 インヴェンション講座 (6 月23日火曜日)では、
インヴェンション11番を素材に、
ブラームスの作曲法についても、触れてみたいと、思います。
(菖蒲の花)
▼▲▽△無断での転載、引用は固くお断りいたします▽△▼▲