電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

名指しされる怖さよりも〜1939年のオランダで

2023年02月04日 06時00分57秒 | クラシック音楽
1960年代のバーンスタインの録音によりマーラーの音楽のブームがやってくる前には、マーラーの曲を取り上げるということは何かしら特別の意図を表明するような面があったのだろうと思います。ましてやナチス・ドイツが政権をとり、全ヨーロッパで戦争に突入しようとする前の1939年の10月、隣国オランダでアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏会が開かれた時、プログラムにドイツ国内では演奏禁止となったユダヤ人作曲家マーラーの「大地の歌」が組まれていれば、何かしら物議を醸すことは予想できたことかもしれません。

しかしながら、「大地の歌」の終楽章(第6楽章)「告別」でアルト独唱が一休みしてオーケストラが静かに演奏し告別の音楽に移行するとき(第6楽章の開始から19:32あたり)、ホール内で誰かがすっと立ち、

Deutcheland uber alles, Herr Schuricht ! (世界に冠たるドイツ帝国ですよ、シューリヒトさん!)

と名指しします。このとき、その意味するところは「このままにしてはおかないぞ、覚悟しておけよ、シューリヒト!」というものだったはず。指揮者も、独唱者も、オーケストラも、音楽に没入していてとっさには意味がわからなかったかもしれませんが、この警告というか脅迫というか、音楽に突き立てられた悪意の声がそのまま録音され残されていた(*1)というのは驚きです。翌年にはナチス・ドイツがオランダに侵攻するわけですから、誰かがこの録音を守っていたのでしょうか。

「クラシック音楽へのおさそい〜Blue Sky Label〜」は、著作権の切れた過去の録音を多数紹介しているまことにありがたいWEBサイトですが、このシューリヒトとアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団による1939年10月の録音のこと(*1)は知りませんでしたし、驚きました。もしかすると、ある程度こうしたことが起こることは予想されていたことかもしれず、大勢の前で名指しされる怖さよりも音楽への没入が勝っていたことを意味するものかもしれません。しかし、内容的には素晴らしかった演奏会の後、独唱のケルステン・トルボルイには相当のトラウマとなっただろう(*2)と思われます。

さらに空想をたくましくするならば、この言葉を発したタイミングです。開演前のざわざわした時間に実行するのではなく、また楽章間や終演後に行うのでもない、まさにこれからいいところが始まろうとするタイミングで発せられる冷酷な言葉。実行者は、作曲後30年になるとはいえまだまだ知名度の高い有名曲とは言えなかったマーラーの「大地の歌」の音楽を熟知していたのだろうか? もしかすると、ナチス・ドイツにつながる音楽関係者の中にこの演奏会の失敗と指揮者シューリヒトの失脚を願っていた人がいて、このタイミングがいいよとアドバイスしていたのかもしれません。

年を取ると、さまざまな悪意の背後に誰か別の人の利害がちらつくのが見えるように感じたりして、そんなものが見えなかった若い頃が懐かしいという気持ちも少なからずわいてきます。困ったものです。

(*1): マーラー:交響曲「大地の歌」イ短調〜「クラシック音楽へのおさそい〜Blue Sky Label〜」より
(*2): シューリヒトの「大地の歌」での「あの一言」〜「いいたい砲台」〜Grosse Valley Note〜より


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6 コメント

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Unknown (kumaneko48)
2023-02-04 06:22:42
凄く興味深く読ませて頂きました。
心の底から恐ろしい。
あの当時、どれほどの著名人がこの恐怖を味わったでしょうか。
想像を絶するものだったと思われます。

ロシアのプーチンも、いままさにやっていますよね
ウクライナ侵攻を批判した人達、その家族の不審な死

一番怖いのは人間だとつくづく思ってしまいます
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kumaneko48 さん、 (narkejp)
2023-02-04 09:01:54
コメントありがとうございます。私も初めて知りました。怖いですね〜。こういうことがあちこちで起こって、その上で『アンネの日記』のようなことが起こるのでしょう。ロシアでも、ある程度は合法的に権力基盤を固めたのだと思いますが、今のようになってしまうと、一部の権力者がやりたい放題ですからね〜。しかも届けられる情報が歪んでいるから判断が「裸の王様」になってしまっている。
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妄想してしまう悪いクセ (しろまめ)
2023-02-07 10:57:34
う~ん、これは不気味かもしれませんね。男性が怒鳴りつけるのではなく、女性の声で、というところがコワイかもしれません。
一方で、やり方がどことなく、よくも悪くもスマートで、これが日本なら警官が「演奏をやめろ!」と怒鳴り込んでくるところでしょう。それを、ドイツ語のニュアンスは分かりませんが、「世界に冠たるドイツ帝国ですよ、シューリヒトさん!」という冷静さがコワイ。

おっしゃる通り、政治的なことだけではなく、演奏会や指揮者へのいやがらせとも考えられなくはありませんね。
そしてさらにひねくれて考えれば、これは一種のアリバイだったのではないか、とも考えました。
つまり、シューリヒト側による仕込み、ヤラセではないか。
本物のナチスや、その崇拝者に指弾される前に、「世界に冠たるドイツ帝国ですよ、シューリヒトさん!」と指摘させることで、「こいつはすでに目をつけられた」と思わせてしまう、とか。

もちろん単なる妄想で、なにかの根拠に基づくものではありませんが、裏の裏の裏を想像してしまうのは、賢ぶりたい悪いクセなのでしょう。
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しろまめ さん、 (narkejp)
2023-02-07 11:38:13
コメントありがとうございます。可能性を考えれば無数にあるでしょうが、シューリヒト側の仕込みというのはないですね。人間的にも考えにくいですが、加えて彼が得られるメリットがない。シューリヒトはナチスから辛うじて演奏許可者リストに載せられていましたので、この程度で済んでいたと考えるほうが自然です。むしろ、言葉の表面上ではあまり問題になりにくい言い方で、しかし音楽演奏の核心にあたる部分で「明確な声を発した」点に、強烈な悪意を感じます。ナチス側に連なる音楽家で、シューリヒトの名声と地位に嫉妬してあわよくば自分が成り上がろうとしていた人が糸をひいた可能性ならば考えられます。
しろまめ さんのその妄想は、悪意を薄めてしまう方向に向かうおそれがあります。
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失礼しました (しろまめ)
2023-02-07 22:04:04
ネットよく取り沙汰される「自作自演」に思考が毒されていたみたいです。ウラの裏を読んだつもりで浅はかなことを書いてしまいました。
大変失礼しました。

それとは別に、やっぱり「世界に冠たるドイツ帝国ですよ、シューリヒトさん!」という言い方がよくわからないんです。
ドイツ語のニュアンがあるのか、ヨーロッパ的なものなのか。
「大地の歌」と終楽章「告別」というところに意味があるのか?
不勉強ですいません。
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しろまめ さん、 (narkejp)
2023-02-08 11:10:21
コメントありがとうございます。背景として、ナチスのユダヤ人政策があるわけです。メンデルスゾーンさえもユダヤ人の退廃音楽と攻撃した(*)わけですから、マーラーの音楽はドイツ国内ではもちろん禁止です。それをオランダで演奏するというプログラムに、ナチスに対する不服従の意味合いが出てくるのは当然でしょう。そこに「世界に冠たるドイツ帝国ですよ(服従しないと身の安全は保証しませんよ)、シューリヒトさん!」ということかと思います。解釈の仕方は人によりそれこそさまざまだと思いますが、この方向で、おおむね間違っていないと思います。
(*):現在でもメンデルスゾーンの音楽をベートーヴェン等よりもやや落ちるものととらえる考え方が残っているのは、その名残でしょう。
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