新潮文庫の11月新刊で、藤沢周平著『決闘の辻』を読みました。もともとは昭和60年に講談社から刊行された単行本が同63年に講談社文庫に収録され、このほど新潮文庫として再刊されたもののようで、おそらく昭和50年代に講談社の雑誌等に掲載された作品を集めたものかと思われます。いずれも名だたる剣客5名の、しかも全盛期よりは盛りを過ぎてからの果たし合いを描くものとなっています。「名だたる」とはいうものの、実は私が知っているのは宮本武蔵と柳生但馬守宗矩くらいで、他の3人は全く知りませんでした。たぶん、作家が小さい頃に親しんだ立川文庫のような本の中で出てきていた剣客なのかと思います。
第1話「二天の窟(宮本武蔵)」。武蔵の晩年に、鉢谷助九郎という男がやってきて武蔵に挑みますが、武蔵は途中で勝負を中止します。単純に立会を続ければ若い鉢谷が優勢なのですが、老獪な武蔵の場合は闘争のマネジメントで勝つ。つまり、相手を驕らせ油断させ、場所・時・状況を有利に運ぶことで勝ちを得るというものです。うーむ、ここでの武蔵のあり方は、勝負への執念の凄さと言うよりも、伝説的剣豪の晩年のイメージとしては、老醜や妄執を感じさせてあまりよろしくありません。
第2話「死闘(神子上典膳)」。知らない人です。これもまた晩年の剣客の姿で、強い弟子どうしを争わせて自分は助かろうというのですから、なんだかなあ。そんなに強さ、勝ち続けるということは、大切なことなのだろうか。
第3話「夜明けの月影(柳生但馬守宗矩)」。この人はさすがに知っています。土井利勝にしてやられるところなどは、まだ人の良さが感じられますし、島原・天草の一揆に対応するところ、生命を惜しむ立場も好ましいと作者も考えていたのかも。
第4話「師弟剣(諸岡一羽斎と弟子たち)」。残された泥之助の選択は、ひと皮剥けた成熟を感じさせますし、第5話「飛ぶ猿(愛洲移香斎)」では母親の残した父の仇の話も、どうやら正しくなかったようです。こうなると、遺恨も勝負も前提を失うことになります。敗れてスッキリして、故郷で好きな娘と平穏に暮らすことを選ぶ話。今の年齢だからよくわかる、納得できる話です。
◯
闘争において、永遠に勝ち続けることはできないわけで、年老いて気力・体力ともに衰えることは避けられません。若い時代になまじ勝ち続けると、勝ち負けの世界から離脱することができなくなるのかも。争わない、争う必要のない状況を作る政治力も大切なのかもしれませんが、むしろ作家が好んだという「普通が一番」という口癖に、妙に共感するところがあります。
第1話「二天の窟(宮本武蔵)」。武蔵の晩年に、鉢谷助九郎という男がやってきて武蔵に挑みますが、武蔵は途中で勝負を中止します。単純に立会を続ければ若い鉢谷が優勢なのですが、老獪な武蔵の場合は闘争のマネジメントで勝つ。つまり、相手を驕らせ油断させ、場所・時・状況を有利に運ぶことで勝ちを得るというものです。うーむ、ここでの武蔵のあり方は、勝負への執念の凄さと言うよりも、伝説的剣豪の晩年のイメージとしては、老醜や妄執を感じさせてあまりよろしくありません。
第2話「死闘(神子上典膳)」。知らない人です。これもまた晩年の剣客の姿で、強い弟子どうしを争わせて自分は助かろうというのですから、なんだかなあ。そんなに強さ、勝ち続けるということは、大切なことなのだろうか。
第3話「夜明けの月影(柳生但馬守宗矩)」。この人はさすがに知っています。土井利勝にしてやられるところなどは、まだ人の良さが感じられますし、島原・天草の一揆に対応するところ、生命を惜しむ立場も好ましいと作者も考えていたのかも。
第4話「師弟剣(諸岡一羽斎と弟子たち)」。残された泥之助の選択は、ひと皮剥けた成熟を感じさせますし、第5話「飛ぶ猿(愛洲移香斎)」では母親の残した父の仇の話も、どうやら正しくなかったようです。こうなると、遺恨も勝負も前提を失うことになります。敗れてスッキリして、故郷で好きな娘と平穏に暮らすことを選ぶ話。今の年齢だからよくわかる、納得できる話です。
◯
闘争において、永遠に勝ち続けることはできないわけで、年老いて気力・体力ともに衰えることは避けられません。若い時代になまじ勝ち続けると、勝ち負けの世界から離脱することができなくなるのかも。争わない、争う必要のない状況を作る政治力も大切なのかもしれませんが、むしろ作家が好んだという「普通が一番」という口癖に、妙に共感するところがあります。
この年齢になって納得できる内容が増えてきましたよね。歳を重ねるのも悪くないです。
優先順位を上げます!(^^)!